小嶋一浩(こじま・かずひろ)
 
:1958年大阪府生まれ。1984年東京大学大学院修士課程修了。同大学院博士課程在学中の1986年にシーラカンス(のちC+A、2005年よりCAt)を共同設立。1994年東京理科大学助教授。2005–2011年3月同大学教授。2011年4月より横浜国立大学大学院Y-GSA教授。食道がんにより2016年10月13日逝去。
 
主な作品に、1995年「千葉市立打瀬小学校」(日本建築学会賞)、1998年「スペースブロック上新庄」(ARCASIA建築賞ゴールドメダル)、2003年「スペースブロックハノイモデル」、2004年「リベラル・アーツ&サイエンスカレッジ」、2006年–「ホーチミンシティ建築大学」 (Global Holcim Awards Silver 2009)ほか作品多数。
 
LINK:シーラカンスアンドアソシエイツ


 

追悼号 

12:小嶋 一浩 / Kazuhiro Kojima

 


 建築家・小嶋一浩さんの訃報が飛び込んできたのは、昨年の10月、あまりに突然のことでした。約1年前の夏、一時移転先の目黒の事務所へ訪ねたときは、こんな日が訪れるなんて、同行した誰もが思いもしませんでした。
 それまで私は個人的にいくつかのメディアを通じて、小嶋さんを数年おきにインタビューさせていただく機会を持たせていただいていました。小嶋さんは、いつどんなことを語るときも、“人間のために都市や建築は、もっとこうなくてはいけない”という強い愛を感じずにはいられませんでした。そして、語ることを理想論に終わらせることなく、社会の中で次々と建ち上がっていく小嶋さんの建築は、どれも使う人たちを、より自由に、人間らしくさせていました。その光景に出会う度に、“建築は社会を変えることができる”と、純粋な建築の可能性に感動させられてきました。
 今回のインタビューでも、さらに驚かされたことがありました。それは、社会的な背景から、建築のつくられ方、そして、雨のみちはもちろん、そのディテールに至るまで、どの話題になっても、小嶋さんの口から語られる思考の深度は何ひとつ変わらないのです。インタビューの終了間際まで、雨のみちのディテールの話をタニタの皆さんとアツく語り続けられている姿に、ここまでの方は初めてだと感動したことを覚えています。きっと小嶋さんの中では、「雨のみち」ひとつを語ることもまた、人ひとりの人生をより良い方向に向かわすことと同義だったのだと、今回のインタビューを編集しながら改めて痛感しました。いつかこのウェブマガジンで、小嶋さんの遺伝子を受け継いだ若き建築家の方々に「雨のみち」の話を聞けることを想いながら……。ご冥福をお祈りいたします。

編集:大西正紀 /mosaki

豊かな雨水の上に、
日本の僕らは生きている

2017/3/8
 

ニュータウンではなく、まちをつくるために

 
— これまで小嶋さんは数々の学校建築を設計されてきました。そこで今回は、雨と建築の話の前に、少しそのお話しをうかがえればと思います。そもそも小嶋さんと学校建築との出会いはどのようなものだったのですか。


小嶋:そもそも僕は東大の大学院で原広司(1936-)さんのところに6年間在籍していました。そこで海外コンペのチーフなどをやっていました。原広司さんという方は、それは強力で素晴らしい人でしたので、そのあとにどこかに勤めて、誰かの影響を受けることは考えられませんでした。そんな中で、仲間たちとシーラカンスという設計事務所を立ち上げました。最初はワンルームのアパートの設計からはじまった当時は、学校の設計なんて、人生で一度はやってみたいなと思っているくらいでした。
 その後「ピースおおさか」(1991)のコンペに勝ったころ、都市計画家の蓑原敬(1933-)さんに声をかけてもらって、幕張副都心の都市計画に関わらせていただく機会を持ちました。それは、幕張に誕生することになる84ヘクタールの住宅地「パティオス」の計画のためでした。もちろん僕らに実績はほとんどありませんから、直接ではなくコンサルの下請けとして、模型をつくったり手を動かしていたわけです。簑原さんは、これまでのニュータウンをつくってきたような人たちの中に、違うものを入れなくては駄目だという想いで、まだ20代で何も分かっていない我々のような若造に、考えたことを委員会などで発表させたのだと思います。
 

千葉の幕張に計画された住宅地「パティオス」(提供=CAt)


— 幕張ベイタウンとのきかっけは、そんなところからあったのですね。実際、どのようなことを検討されていたのですか。
 
小嶋:実は「パティオス」は、それ以前に計画があったものを、このままだとこれまでのニュータウンと同じになってしまうということで、一度白紙になったところでした。そのときに、僕らは声をかけてもらったのです。「パティオス」は、まちをつくると言っているけど、じゃあ、これまでのニュータウンとまちとの違い、まちになるためにニュータウンに足りなかったものは何なのか、といったようなことのリサーチを進めていきました。
 たとえば、ニュータウンには一般的に街角がありません。交差点にあるべきオープンスペース、緑地がないんです。あとは、自販機がなかったり、寺社仏閣もありません。そういうことをひとつ一つ指摘していきました。お寺や教会が、まちにないと困るでしょうと言うと、そういうものは税金でつくるわけにはいかないとか言われて拒否されることもありました。一方で、中には採用されたものもありましたね。たとえば路上駐車は実現しました。路上駐車がないまちは、まちとは言えないと訴えて、現在の「パティオス」のまちは、路上駐車が可能になっています。パーキングメーターもなしで、気軽にレストランの前に車を停めることができます。また、そういうことと連動させて、1階にプライバシーを持たせるためにセットバックさせたり、さまざまなことを分析しながら提案させていただきました。 
 けど、何もまちなみをヨーロッパのようにしたいなんてことは思っていなかったわけです。ただ、まちというからにはアクティビティが必要だろうと。たとえば5階に住んでいて1階に降りたときに、右に駅があったら右にしか行かないのがニュータウン、左にタバコ屋があって、どちらにでも行きたくなるのがまちだと。人が行き交わないのがニュータウンで、人が行き交うのがまちなんです。大阪のミナミと渋谷を比べると、大阪のミナミのほうがまちです。終電間際の時間になると、渋谷では誰かについていけば、渋谷駅にたどり着けますが、大阪のミナミではどこに行くかわからない。みんな目的地が違うからです。当時、そんな話も真面目によくしましたね(笑)。
 まち全体のつくり方についても、いろいろと分析をして提案を行いました。一般的には、4街区くらいを1つのデベロッパーにまかせて、その中に道を通しておいてくださいとする場合が多いのですが、それだとデベロッパーごとに勝手なまちができてしまいます。だから、僕らはデベロッパーは飛び地でないと土地を持てない、常に隣は自分のものではない状況をつくるべきだと提案しました。もちろんすべては簑原さんと相談しながらです。僕らがずけずけ好き勝手提案することを面白がってくれて、それらがどこまで実行可能かというギリギリのところを探ってくださいました。 
 

ひらいた小学校をつくったわけ 

 
— そのときの発想やスタディは、後に設計することになる「千葉市立打瀬小学校」(1995)などにつながっていったのでしょうか。
 
小嶋:当時、集合住宅の各住棟の1階にお店をつくるとなったわけですが、それらのリーシングが大変だったり、困ることがたくさんあるというのがデベロッパーからの話でした。そんなに1階が困っている状況になっていて、一方で、学校をつくるための土地をどこかの1階にかなりの大きさで確保しなくてはならない状況がありました。それであれば、いっそのこと集合住宅の1階を学校にしてしまえばいいじゃないかと、提案しました。
 たくさんの集合住宅が建ったとしても、昼間のアクティビティは、基本子供しかありません。それであれば、子供を1階でどれだけ見せるかということを考えたほうが良いのではないかと考えたわけです。でも、そんなことは誰も相手にしてくれませんでした(笑)。僕らもそのころは、そもそも学校の予算が別だなんて、何も知らなかったわけです。
 その延長上で、「千葉市立打瀬小学校」がつくられるとなったときに、指名プロポーザルコンペティションで、私たちも指名を受けることができました。結果、一等に選ばれました。
 
 

「千葉市立打瀬小学校」の外観。校庭はもちろんのこと、校舎が建つ敷地内部へも入ることができるオープンな計画となっている。(提供=CAt)


 
ー 「千葉市立打瀬小学校」は、まちとのつながりが、実に一体的でした。
 
小嶋:先ほどの集合住宅の足元に小学校をつくる案が駄目になったあとは、決まった面積を取って、運動場と公園を一体的につくることができれば、島のようなオープンスペースではなくベルト状のオープンスペースがつくれて、良いのではないかと考えはじめました。学校っていうものは、予算があまりないらしいということもわかってきていたので、小学校が道路に接するところに10メートルくらいの幅で緑地を入れて、学校の地面より40センチくらい高くしたベンチにもなるコンクリートの擁壁をつくりました。学校のまわりにフェンスをつくりたくなかったので、この擁壁がフェンス代わりも兼ねています。その擁壁の外側は、土を入れて公園緑地になり、そちらは小学校よりも潤沢にある土木側の予算でつくることを提案しました。
 
ー 小学校の周囲にフェンスがひとつもないことには、どういう想いがあったのですか。
 
小嶋:フェンスがないということは、ゲートがないということでもあります。だから、子供たちの授業の時間が終わると、地域の大人たちが入ってきて、みんな分け隔て無く遊んでいます。これは今でも変わらない風景です。学校というものは、校門を入ると、保護者でも、地域の人でも、ちょっと背筋を伸ばしたり、襟を正したりしますよね。僕はそういうのが、絶対に嫌だったんです。もっと、どこから入ったかわからないくらい、まちと学校がシームレスにつながっていた方が良いと。
 
ー しかし、そのあとに大阪の池田小学校の事件などもありましたが、その影響はありましたか。
 
小嶋:あのまちでは、最初に私たちが設計した「打瀬小学校」ができて、それを求める新住民が増えてきて、次の小学校では、僕らの「打瀬小学校」をとても踏襲してくれたものができました。3校目の「千葉市立美浜打瀬小学校」ができたのは、池田小事件のあとだったのですが、改めて僕らに設計依頼が来ました。説明会に行くと、逆にフェンスがない「打瀬小学校」のような学校に通わせたいという住人の方々がほとんどで、設計者が僕たちになったことで、むしろ皆さんは安心されていました。とても住民意識の強い方ばかりで、フェンスなんかはいらないと。自分たちがまわりから見守っているから大丈夫だと言ってくださいました。
 
ー 「千葉市立美浜打瀬小学校」では、タニタのステンレスの雨といが使われたそうですね。
 
小嶋:この場所は海が近くて、本当に塩害がすごいんです。そこで、ステンレスの雨といを使わせていただきました。雨といが並ぶ北側にグランドがあるのですが、そこは軒下空間になっています。運動場に人が集まっていくときに、日陰になりつつ、雨もしのげるように設計しました。そこには35〜40センチの自然に腰掛けられるくらいの段差をつくって、運動場と校舎の床に高低差をつくって床上浸水を防いでいます。
 

校庭と道路の間に設けられた緑地帯から、校庭ごしに「打瀬小学校」の校舎をみる。(提供=CAt)

とにかく気持ちいい場所をつくる

 
ー その後、小学校のプロジェクトは増えていったわけですが、その中でもエポックになったものは、どの学校になりますか。
 

「宇土市立宇土小学校」の中庭を見る。(提供=CAt)


 
小嶋:熊本県の「宇土市立宇土小学校」(2011)は、自分たちでも新しい思考がひとつ叶えられたものになりました。学校の設計は、とても約束事が多いので、経験値が上がるほど、理屈が立ちすぎて窮屈になってしまう部分があるのですが、この小学校は熊本アートポリスのオープンプロポーザルで、伊東豊雄さんをはじめとした方々が審査員だったこともあって、これまで自分たちが設計してきたもの以上の、圧倒的なものを示す必要がありました。
 そこで行き着いたものは、とにかく気持ちの良い場所をつくろうというものでした。そんな場所で子どもたちが学べることを第一に考えました。基本的にはL字型の壁がぱらぱら立っていて、それにフラットなスラブが乗っているものです。窓は床から天井の高さまで、全体が折れ戸になっています。つまり外壁そのものが折れ戸になっています。
 

「宇土市立宇土小学校」内観。床から天井の高さまでの折れ戸を開け放つ気持ちよさが写真からも伝わってくる。(写真= 堀田貞雄)


 
 宇土市は有明海の影響で、特に夏は体感できる風がありません。だから、風通しはきちんと設計することが必要でした。ただ、僕らはそれまでに、ベトナムのホーチミン大学の計画で冷房のないキャンパスを提案したり、ハノイでエアコンなしの建築をつくったりと、既に風についてのトレーニングをしていたので、うまく対応することができました。一時期は、風力計をずっと持ち歩いていて、いろんなところで風力を測っていました。体感だけで0.2メートル刻みくらいで、風速を言い当てられるようになっていましたね(笑)。体感は少し鈍ってしまいましたが、模型を見て指でたどれば、風の通りは今でも確実にわかります。
 
ー 小嶋さんが設計する建築の背景には、風、日射、雨といった環境的要素に対する軸が一本あるように感じてきました。それは何故なのでしょうか。
 
小嶋: 建築って、もっともっと原始的につくれたらいいなって、ずっと思っているんですよ。だから、学校を設計するときも、プログラムが学校かどうかは、実はどうでもいいんです。
 たとえば、2014年、2015年は「立川市立第一小学校」、「流山市立おおたかの森 小・中学校」と、公民館や図書館の分室、学童保育などが、同じ敷地に入るものの竣工が続きました。その背景には、こういった施設は、防災的にも地域の人たちが年齢を問わずに立ち寄れる場所としてつくるべきだとする社会的な流れがありました。実際に施設に来る人たちも、小さな子供を持つお母さんから、お年寄りまで多様です。そして、興味深いのが、ただ施設を利用するということではなく、居場所を求めてやってきている。高度経済成長期にレンタルサプライだったものの意味が変わりはじめてきているというわけです。図書館も本を借りる場所というよりも、居場所になっているのです。
 だからこそ、市民にとってこのような施設に対する興味が大きいことがわかりました。立川のときは2000人以上の、流山のときは4000人以上の市民がオープニングの見学会に押し寄せてくださいました。流山の駅から校舎の中まで行列がつながっていたときには、本当に驚きました。
 

「おおたかの森 小・中学校」を上空から見る。(提供=CAt)


 
ー 昨今のさまざまな新しい施設を見ても、「居場所」というキーワードは必ず挙がるものですが、それを小嶋さんたちは、“まちにひらいた”学校建築において、とても意識的に取り組みはじめているのですね。
 
小嶋:ちょっと天気がいいから行ってみようとか、あるいは雨が降っているから行ってみようとか、そういう場所に公共施設って位置づけられないじゃないですか。でも、本当はそうあるべきですよね。既存の公民館はあったとしても、結局、何時に何の会があるから行ってみようとなっているだけです。でも、そういう公共的な施設の中にも、あそこにサックスを持っていって吹いたら気持ち良いんだよなって場所は、あるべきだと思うのです。だからこそ、できるだけ無駄なエネルギーを使わないで、自然な形で、原始的に気持ちの良い環境をつくることを目指すわけです。

雨をポジティブに捉える

 
ー環境的要素の中でも「雨」に関しては、基本的にどのように捉えていらっしゃいますか。
 
小嶋:雨というものは、設計をする上でネガティブファクターになりがちですが、そうでなくてポジティブファクターとして捉えるのが良いと思っています。
 基本どのような建築であっても、外と中とを等価に扱いたいと思っています。学校だって、オフィスだって、外にあったっていいわけです。都市環境だと外は良くないとされがちですが、外でも気持ちの良い場所はあります。そこで、夕立があったとしてもポジティブに捉えれば良いと思うのです。 
 もちろんこういう考えは、いろんな経験を積んできたからだとも思います。たとえば、庇がない状態で、ただフルオープンにつくっても使えないということも、わかるのに少し時間が必要でした。むしろ今は、庇や軒下は、とても幸せな存在だと思っています。縁側って良く言われるのですが、縁側は面積に換算されるので、あまり提案することができないんですよね。それに比べて、軒下のほうがお金もかからず、面積に換算されないので、かついろんなことを親和的にしてくれます。だから、敷地の環境にもよりますが、学校でもどんな建物でも、出せるときは庇を出して軒下をつくるようにしています。
 
 

「BWT あすとぴあ工場」外観。ダイナミックな4.9メートルの軒の出。(写真=中村絵 )


 
 これは2013年に竣工した「BWT あすとぴあ工場」というLED照明をつくるハイテク工場です。ここでは軒の出が4.9メートルあります。公共建築の場合は、基本陸屋根になることが多いのですが、このハイテク工場は、建築面積がかなり大規模だったので、勾配屋根では解くことができませんでした。しかも、空調などをすべて含めて求められた坪単価は33万円という安さでした。そこで、基本は地中梁をまわさないことにして、125ミリ角の掘っ立て柱を剛接合してつくることにしました。とても柱が細い上にさらに庇が長いので、柱を接合する度に、建物の構造が動いてしまい建て込みが大変だったのですが、地元の職人さんたちが、とても頑張ってくれました。
 

「BWT あすとぴあ工場」。軒の出と外廊下、駐車場との関係。(提供=CAt )


  
 出した庇があることで、駐車場から雨に濡れずに入ってくることができます。ここは障害者雇用に積極的な会社だったので、その点でも庇は機能的に働きました。雨といは、柱より全然太いものをドブづけで付けました。予算も少なかったので、全部折板でつくりました。雨を先端で拾って、雨水管を内側に返して、ルメウォールとサッシュでは、雨といの支持が取れないので、軒天側とGL側で支持を取りました。
 

日本の雨がもたらす豊かなリソース

 
— 小嶋さんは、海外でも数々の作品を設計されてきていますが、日本以外を経験するからこそ、雨について感じることはありますか。
 
小嶋:これまでイスラム圏、湾岸、中央アジアなど、さまざまなところで仕事をしてきましたが、みんな基本、雨がないんですよね。降ってもほんの少し。たとえば、日本で見るポプラの木は可愛く見えますが、乾燥地帯に生えるポプラは、本当に寂しくしか見えません。
 乾燥地帯では、まず最初にポプラで風よけをつくっておいて、その内側にもう少し大きい木を植えています。こういうこともすべて循環の知恵だったりします。雨が7年に1回しか降らないのに、サハラ砂漠のオアシスが成立しているのは、樹木から地中の水までをも含めた循環のデザインができているということです。世界のほとんどの場所は、このように何らかの水の問題を抱えているものです。
 それに比べると日本という場所は、実に雨による水が豊かな場所です。もちろん地震があったりということもありますが、僕らは、雨がもたらすとても豊かなリソースの上に生きているということを、もっと意識しなくてはいけません。水資源の将来展望について考えなくていいのは、日本くらいなんですから。

 だからこそ、建築ももっと水の流れが見えるようにつくれると良いんですけどね。 「宇土市立宇土小学校」「流山市立おおたかの森 小・中学校」では、縦といを通すことが厳しい部分などは、ガーゴイルにして雨水を見せることも取り入れています。ただ、強い風が吹くと水の行き先が不安定になったり、さらに場所によって風向きが異なるので、受けるところの場所や大きさを決めることも難しかったりします。雨が降ったときは、雨水が見えた方が良いと思いながら、そういったことにチャレンジするのですが、水が飛び散ることに関して、日本人のクレームは非常に厳しいところもあります。

 今回このテーマをいただいたときに、雨というものは、もっと建築設計のテーマとしてきちんと取り込まなくてはいけないと改めて思いました。
 昔、磯崎新さんに声をかけていただいて、「ユニバーシティ・オブ・セントラルアジア」というプロジェクトで、中央アジアの三国、カザフスタン、キルギス、タジキスタンの国境地帯で大学の設計をさせていただいたことがありました。冬はマイナス20度になるような広大な敷地の中に、延床面積は各8万平方メートル、ここに全寮制の1,000人の大学を計画するものでした。建築面積が広いけど、寒いので分棟ではなく、インテリアはすべてつながっていなくてはいけない上に、メンテナンスができないからと、陸屋根が禁止だとなりました。
 そこまで大きなものを、陸屋根を使わないで解くのは、メチャクチャ大変でした。凍ってしまうから、軒といは基本つくらずに、とにかく高いところから低いところにかけていきながら、配置で整合性を取ってきました。あのときほど、低くて大きな建物を陸屋根でつくることが、いかにサボっているかということを知りました(笑)。
 

「流山市立おおたかの森 小・中学校」テラスから校舎を見る。(提供=CAt)

 

 
 先ほどの「流山市立おおたかの森小・中学校」でも、雨の処理には苦労しました。基本は、軒先のほうに勾配を取って、コンクリートのドレインを通って、ガーゴイルで落とすようにしました。それとは別に、軒の先端がくねくねしているところは、風で方位を決めたら道路に対して45度が卓越風になるということがわかりました。教室は四角くなくてはいけないので、それを合わせるとぎざぎざになったんです。そのままぎざぎざになると痛々しい感じになるので、スムージングして曲線でつないで。軒が深すぎても暗くなるので調整をしました。3階建てということもあって、軒にもっていくのはあれだったので、あまりやりたくないけど、インテリア側に逆勾配に取って、そうすると壁で受けられるので、雨の処理がおさめやすくなりました。もちろん外壁のほとんどをガラスの折れ戸にしているので、一部、独立雨といがありますけどね。
 こういうふうに水勾配を解いていくのは、雨はごまかしきれないだけに、苦労がいります。しかし、たっぷり雨が降る日本という場所が、いかに世界の中でしあわせな場所かということを享受すべきだからこそ、「雨のみち」はきちんと解いておかなくてはいけません。
 
— 今日は、「雨のみち」というフェーズを通すことによって、一層小嶋さんたちが探求している「建築」の在り方が分かりやすく理解できたように感じました。「雨のみち」の自然なふるまいを「建築」という構築物に対峙させながらも、そのふるまいをポジティブに捉え、そこに少しでも「豊かさ」を生起させ、その先に新たな社会性を芽生えさせそうとする建築造が透けて見えました。ありがとうございました。
 

(2015年8月19日、東京目黒区のシーラカンスアンドアソシエイツにて収録)
 


[編集後記]
 小嶋一浩さんの突然の訃報に愕然としました。あまりにも若すぎるし、とても惜しい人材を失いました。小嶋さんと深くお話をする機会は、槇文彦さんの話題の論考『漂うモダニズム』に応答する形で出版化を計画した際に、応答者のひとりとして小嶋さんを選んだときでした。
 山本理顕さんの後を受け、Y-GSAに赴任した小嶋一浩さんのまとまった今に対する言説が入用だとの判断が私にはあったからでした。槇さんの論考に対して、実に的確に、建築の「空間化」と「社会化」をどう引き寄せることができるのか?という命題を「漂うモダニズム」の泳ぎ方として、指摘されていました。
 心強いプロフェッサー・アーキテクトの理念、理論、感性、行動が裏打ちされた貴重なテキストとなるものでした。私はこのテキストを引っ提げて、学生たちを見ている小嶋さんが大変好ましいと期待していた矢先だったのです。
 今回、ウェブマガジン「雨のみちデザイン」では、小嶋一浩さんを偲ぶ追悼号として、小嶋さんへのインタビューを位置づけ、より多くの方々の目に留まることを願いながら、心より追悼の意を表したいと思います。合掌。

  • インタビュアー:真壁智治