深尾精一(ふかお せいいち)
 
:1949年生まれ。東京大学建築学科卒業、同大学博士課程修了。東京都立大学助教授、同大学教授を経て首都大学東京名誉教授。 専門は建築計画、建築構法。主な受賞に 1996年度日本建築学会作品選奨「実験集合住宅NEXT21の設計」、 2001年度日本建築学会賞論文賞「寸法調整におけるグリッドの機能に関する研究」。主な著書に 『建築構法』、『建築ヴィジュアル辞典』 『図解建築工事の進め方 木造住宅』 『住まいの構造・構法』。 主な作品に「武蔵大学科学情報センター」(協働作品、1989)「実験集合住宅NEXT21」(協働作品、1996) 「繁柱の家」(1999)ほか。

Cross Point Interview

13:深尾精一 / Seiichi Fukao

水の動きを知り
雨と丁寧につきあう(1/2)

2021/1/25
インタビュアー:真壁智治、編集:大西正紀
インタビュー収録:2018/9/25
 
ー まずは、深尾精一さんの研究者、設計者としてのキャリアをお伺いしたいと思います。やはり内田祥哉先生の存在は大変大きいものでしょうか。
 
深尾:内田祥哉先生の存在は、私にとっては圧倒的です。僕は 1971年に大学を卒業したのですが、卒論の際に内田研究室を選びました。当時の東大は、卒論だと先生の直接の指導をほとんど受けず、ドクターコースの学生が卒論生の面倒を見る形でした。ただ、僕の卒論のテーマは、ドクターコースの方が担当していた委託研究で、内田先生自身が関わらざるを得ないプロジェクトだったので、卒論の時から内田先生の指導を受けることができたのです。
 
当時、内田先生は 46歳で、助教授か、教授になられたばかりの頃で、一番脂が乗っていらした時ですから、国のいろんなプロジェクトをされていて、ご自身でも設計活動をされていました。僕は大学院に入るとすぐにお手伝いするようになりました。だから、活動のお手伝いを通して直接内田先生の指導を受けたという感じでした。2年間そのようなことをやり、大学院の修士論文では、 「建築の逃げと納まりの研究」というものをやりました。
 
ー 逃げ?許容?遊び?ですか?
 
深尾:はい。いろんな建築のディテールに触れる中で、「逃げ」をどう取るかということが、ものすごく建築をつくる上でのポイントになると感じていたので、いろんなディテールで、「逃げ」という概念を、どのように扱っているかを、さまざまな事例を調べ分類整理する研究をしたのです。
 
卒論発表会の時に、 吉武泰水先生という大先生がいらして、「ところでその“逃げ”っていうのは英語でなんて言うんですか」と聞かれました。本当の学術論文だったらすぐ答えられなくてはいけないのですが、「“トレランス”という言葉がありますが、ヨーロッパの“トレランス”という考え方と、日本の“逃げ”とは全然違います」というような返事をしたんです。すると吉武先生は、「与えるという意味の“ギブ”という言葉があるけど、たぶんそれがあなたの言う“逃げ”に近い」と言われた記憶があります。
 
ー 実に面白い話ですね!その後は比較的、研究をベースにされていったのですか。
 
深尾:その後も内田先生の設計のお手伝いは続きました。
 
1980年代に、 武蔵大学という、江古田にある大学の建て直しに内田先生がずっと関わられていたのですが、最後の方で、 科学情報センターというコンピューター教室や化学などの一般教養の実験室を入れる建物を作ることになり、それに関わっていました。とても面白いプロジェクトでした。
 
設計は内田先生、構造は 木村俊彦先生、設備が 高間三郎先生、ずっと武蔵大学の内田先生のお手伝いをしていた 近角真一さん、そして私の5人が中心になって 1988年に竣工しました。このプロジェクトの流れで、その後大阪の 「実験集合住宅NEXT21」の設計の依頼をされたときは、このチームに京都大学の巽和夫先生と高田光雄先生が加わりました。これもまた面白いプロジェクトでした。
 

「実験集合住宅NEXT21」外観。(写真提供=深尾精一)

 

建築というのは建ったときだけのものではない

 
ー 4年ほど前に、ある企画「建築家の年輪」(日経BPケンプラッツ/左右社)で、内田先生に私がインタビューをさせていただきました。その中で内田先生が構法について、「一般の人は、構法というものを構造の一部のように考えたり、設計計画の一部のように曖昧に位置付けるけど、そもそも構法は構造を決心するための学問です」とおっしゃっていました。今日は、深尾さんに、構法というものの現在の捉え方をうかがいたいのですが、“構法なき構造”には意味があるのか?ということをまずお尋ねしたいのです。
 
深尾:建築計画学の基本は吉武泰水先生がつくられたものですが、建物のビルディングタイプごとにどんどん専門分化されてきた現代では、あるところまでいくと、建築計画学というものは、なくても良いような感じになってきました。
 
建築は、建った時だけのものではなくて、20年後、40年後に要求が変わった時も使い続けられるものだから、冗長性が必要なのですが、建築計画学は建てる時の最適解を求める学問なので、いかに冗長性を省くかという学問だったわけです。だから最近は力が無いように感じます。
 
病院や、その時点で非常に高度な機能を求められる建築では、建築計画の研究成果が意味を持ちます。しかし、その他の部分によっては、直接建築を作ることに対して、その時点でそんなに追求しなくてもいいじゃないか、という感じになってきています。建築をどう作るかということと離れていったのが、建築計画でした。
 
一方、建築構法学は、大昔は「建築一般構造」と呼ばれていました。もともと構法と我々が呼んでいるものは「建築構造」なんです。
 
「構造」という言葉自体は、たとえば「社会構造」とか「構造改革」とか「文章構造」というように、“仕組みや成り立ち”という意味の言葉なのに、日本では「建築構造」という言葉が“地震に対してどう対抗するか”という学問として、どんどん大きくなり、社会的な影響力も大きく持っていきました。つまり、建築構造学が構造力学的なことに中心を置いた言葉になってしまいました。
 
しかし、建築をどう組み立てるか、つくるかということ自体は、建築にとってとても重要なので、それが「建築一般構造」という言葉になったんですね。「一般」というのは、高度な力学を使ったような構造学ではなくて、残ったところが「建築一般構造」と呼ばれて、構法の研究が行われていきました。
 
内田先生はもともと建築設計が好きな建築家だったのですが、大学に戻られることになって、学問・研究をしなくてはならなくなったときに、その「一般構造」を学問化したいということで、「建築構法学」というものをつくられた。そういう経緯になります。昔はどんな専門分野の人でも、建築に係る全ての学問分野に目を光らせていましたが、学問の必然として、専門が分化・進化していくと、どうしても学問と設計の二足のわらじが高度になっていきません。これは良い、悪いではなく、宿命なんですね。でも、建築学がそのような状況になっていく中でも、内田先生は、「構法をやる人も、きちんと設計できなくてはいけない」というふうにおっしゃっていたのです。
 

流行に合わせず、本質を考え設計する

 
ー 構法という視点から、建築の耐候性とか、あるいは雨仕舞も含めた「しまう」という感覚について、我々はどのように理解していけば良いとお考えでしょうか。
 
深尾:僕の友人に内田研究室で一緒に学んだ 安藤正雄さんという親友がいます。彼から誘われて、 1980年頃に 1年間、 雑誌「A&U」にディテールについての連載を一緒にしていました。その時に彼が見つけてきた 1920年代のフランスの雑誌の記事に、 ル・コルビュジエが、「なぜ陸屋根がいいか?」ということを技術的に書いていました。これは雨水のことに携わる人なら、必ず読むべきだと思います。
 

「ジャンヌレ=ペレ邸」(photo=Archipat)


コルビュジエは最初のころ、スイスで両親の家の 「ジャンヌレ=ペレ邸」などで勾配屋根の家をつくっていました。そこで暖房をすると、眇漏れ(すがもれ)が起きました。勾配屋根で庇が出ていて雪が降るところで暖房すると、暖められた雪が溶けて、軒先の屋根に氷となって堆積し、それが原因で室内に水滴が落ちてきます。
 
それより前は暖房ではなく、採暖でしたので、こういうことは起きませんでした。そこで恐らくコルビュジエは悩んだんですね。それで陸屋根にして、北海道の無落雪屋根のように内側に樋を通せば、漏水しなくなると考えた。そうそこに書いてあるんです。このことは、決定的に一般の皆さんが思っているコルビュジエの概念を覆すようなことです。つまり、コルビュジエは、構法研究者的、技術的なことを考えていたにもかかわらず、それを全く世の中にアピールしていなかった。
 
その記事に出会ったころ、僕は 30歳くらいでした。その頃は、いわゆる建築論でこうあるべきだと言うことは、「運動」であって建築の本質ではないと考えていました。内田先生も、どちらかというとそういう方でしたので、建築論をほとんど語られませんでした。
 

 
ー 内田先生の建築設計に関わられた中では、どのような建物が印象的でしたか?
 
深尾:その頃、 1976年くらいは、内田先生は 高橋靗一先生と一緒に佐賀県でいろんな仕事をされていました。その中の 「佐賀県立博物館」などは、さまざまな意味で、モダンアーキテクチャの典型でした。
 
その後、内田先生は、有田で 「有田町歴史民俗資料館」を設計されました。その設計のお手伝いをすることができたのですが、そこではとにかく勾配屋根にするということを言われました。モダンアーキテクチャの時代でしたので、勾配屋根をかけるように言う建築家は、 大高正人先生と内田先生ぐらいでした。今とは違って、勾配屋根をかけると言ったとたんに懐古主義の古くさい建築家だと思われるような時代に、内田先生と大高先生はそれをつくっていたわけです。
 

「有田町歴史民俗資料館」(写真提供=深尾精一)


「有田町歴史民俗資料館」の設計で、内田先生は勾配屋根に斜めに内樋をつけることをされました。つまり、勾配屋根をつくっても、勾配屋根のひさしに樋はつくりたくない。けれども、入り口のところは樋をつけなくてはいけないので、内樋にする。その内樋を勾配屋根に対して、斜めにつくるんです。それをくさりで落とすという方法でした。
 
その頃、皇居の御所で 吉村順三先生が、樋のいろんなチャンレンジをされていたのですが、内田先生も、雨樋についてはとても関心を持たれていたからこそ、そのような設計になったのだと思います。
 
その後、内田先生は 「佐賀県立九州陶磁文化館」という、学会賞を取ったとても大きな博物館を設計されましたが、その基本設計の最初のころもお手伝いしました。「佐賀県立九州陶磁文化館」では、内田先生はオープン縦樋を設計されました。樋を密閉した形にすると、気圧の関係でいろんな現象が起きて、枯葉が入る大変なことになります。そこで、樋の半分を開けておくようにしたのです。
 
それ以外にも、パネルとパネルの間のジョイントを密閉するのはおかしいので、オープンジョイントをやりたいと、試験管を掃除するブラシのようなものを間に入れたパネルジョイントを設計されたこともありました。
 
そういう、人が考えないことを考えるのが内田先生は大好きでした。オープン縦樋も、他の人もやったことはあると思いますが、内田先生は良いものがあれば自分なりに理解して使うということが大好きで。そういうのを身近で見てきたので、その時の流行に合わせて建築をつくるのではなく、建築に本質的に求められることはなんだということを考え、設計するという内田先生の姿勢に、かなり影響を受けました。
 
ー このウェブマガジンの1回目に登場いただいた隈研吾さんが、当時、無印良品の住宅を設計されていて、そこでオープン雨樋がつかわれていました。今、こういうお話をうかがうと感慨深いものがあります。
 
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