雨と生きる。雨を活かす。雨の文化創造を考える。

 
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建築家、堀啓二さんによる新連載「雨のみち名作探訪」。第5回のテーマは、「宙を走る美しい樋」。建築家、堀口捨巳の建築に見られる樋の美しさ、その背後にはどのような雨の処理が施されているのだろうか。3つの作品からその雨のみちのディテールを紐解いていきます。

 

『日本建築の樋は美しい』はずだった

 
 日本の農家や町屋、そして書院建築などの古建築は地元で取れる自然素材を中心につくられてきた。木、土、和紙を主体とし金物を極力使用しない日本の高度な技によって、美しい快適な空間を創り出してきた。自然素材ゆえに自然に溶け込むとともに、統一感のある豊かで美しい街並みを形成した。雨の強い日本において自然素材でできた外壁の保護のため、深い庇を持つ屋根が主流であり、雨の処理は最重要課題のひとつであったと思う。住宅系の屋根は「草葺」「茅葺」が主流であり、雨水を吸収保水するため雨樋をつけない例が多かった。
 
 江戸時代まで雨樋は、飛鳥時代に中国、朝鮮から伝わった瓦を使用した寺社仏閣を中心に普及した。吸水性の無い瓦屋根に降った雨は滝のように地面に落ちる。勢いよく落ちた大量の雨は地面で跳ね返りが外壁に当たり、汚すとともに劣化を促進する。それを避けるために以前述べた犬走りという、軒先の下に設けた砂利で跳ね返りを和らげ、地面に雨を導き美しいファサードを実現している例が多い。
 
 しかし、江戸時代になると都市に人が集中、住まいも軒を接して建ち雨水が隣家へ影響を及ぼすようになり、樋が必要となった。雨樋の基本機能は外壁を保護し雨を地面に戻す排水であるが、当初は連続する屋根の谷「受け樋」=「懸樋(かけひ)」が受ける雨を貴重な飲料水として水槽に貯める上水道の役目を果たしていたそうだ。現代の環境の時代における「雨水利用」につながる発想が、雨樋の当初の役割だというのはとても興味深い。建物の外壁を守るために排水という機能で設けられた最古の樋は、奈良時代(733年)に建立された<東大寺三月堂>のものと言われている。厚さ5cmの厚板3枚を組み立てた木製である。樋は雨を横で受けて縦に雨を導くため、U字型、半円形、そして筒状の形状が必要だ。<三月堂>のように建築本体同様使用できる当時手に入る素材は、木や竹の自然素材しかなかった。その中でも特に竹は節を抜けば筒状になり竪樋の役目を果たし、半割にすれば半円形となり軒樋の役目を果たす優れものの素材であった。
 

宙を走る竹の樋
<待庵>

 
 京都駅からJR東海道本線に乗り約15分、山崎駅につく。千利休も愛でたという山崎の名水で仕込んだサントリー山崎の蒸留所でも有名な地だ。駅から北に歩いた小高い丘の上に藤井厚二の実験住宅<聴竹居>もある。駅に降りると小さなロータリーがあり、ロータリーに面してカフェ、郵便局、コンビニなどがある地方都市の駅のようにとてもこじんまりとした落ち着いた駅だ。ロータリー左手をみると生垣と樹木に囲われた階段と和風建築が見える。<待庵><如庵>そして<密庵>と国宝の茶室は三棟あり、ここがその一つである<待庵>がある<妙喜庵>だ。まさに駅徒歩0分、こんなところにあろうとは夢にも思わなかった。草庵風小建築である<待庵>は、もっと自然の中にありひっそりと建っている姿を勝手に想像してきた私にとって驚きであり、新鮮でとても身近に感じたのを覚えている。
 
 <妙喜庵>は、連歌俳諧の始祖で知られた山崎宗鑑の隠棲地として伝えられている。茶室を完成させたといわれる千利休は、織田信長、羽柴秀吉に仕え戦乱の世を生きてきた。有名な天王山合戦で羽柴秀吉は明智光秀を討つべく姫路より軍を進め、天正十年六月十三日(1582年)山崎に至り陣をしき陣中に千利休を招いて二畳隅炉の茶室をつくらせた。千利休はその茶室で秀吉の陣中の苦労を慰めたと伝えられ、その後解体され慶長年代(1610年)に当地<妙喜庵>に移されたと言われている。
 
 この茶室<待庵>は、現存する千利休の遺構としては唯一のもので、木軸と土壁の当時の一般的な建築技術に基づいてつくられた草庵風の小建築だ。草庵とは「茅葺や藁葺きの屋根を持つ粗末な小さな家」という意味で、高潔な生活を志す者の脱俗的な詫住居(わびすまい)をさす。室町期の唐物を中心とした豪奢な座敷茶(真の茶)に対して、武野紹鴎(千利休の師匠)や千利休らによる侘び茶の思想を茶室建築に具現化したものである。特に千利休はそれまで四畳半を最小としていた茶室に、庶民の間でしか行われていなかった三畳や二畳の空間を採用した。待庵は二畳というその小ささにびっくりさせられるが、覗いた感じでは不思議と狭さが感じられずむしろ軽やかで広く感じられた。この軽やかさと開放感を達成するために千利休は様々な工夫を行った。狭さを感じさせない豊かな場を創り出す工夫については違う機会に述べるとして、ここではとても薄い柿葺の切妻屋根と土庇、そして5cm厚という脅威的な薄さの土壁が生み出す外観の軽快さを阻害せず、むしろ助長する樋について話したいと思う。
 

 
 <待庵>は茶室部分を切妻屋根とし、躙り口部分を土庇としている。切妻部分は軒の出が浅く、その妻面に土庇がついている。土庇の軒先はかなり低く軒の出(約半間)も深く、とても親しみやすい身体感覚にあった外観をつくっている。このように躙り口がある人がアクセスする部分は軒を低く深くすることで現在は(以前は軒樋がついていた)樋無しとし、すっきりとした茶室の顔を表現している。それに対し軒の出が浅い部分には樋を設け外壁の保護を図っている。とても機能的な構成だ。切妻屋根の東西の軒先につけられた半割の竹の軒樋は妻面を飛び越し宙を舞い竹の竪樋を支持している。特に西側の軒樋は土庇を越えて竪樋とともにちょっとしたゲートを形成している。まさに宙を走る竹の線材で構成されたフレームが軽やかさを助長している。現代にも十分通用する美しい樋である。
 

<桂離宮月波楼>の樋

 
 <桂離宮月波楼>の樋は<待庵>同様とても興味深い。以前軒樋のみで竪樋のない例として宙に跳ね出している竹の軒樋の話をした。<月波楼>の板敷き膳組の間の樋の処理はとても構成的である。スケッチのように寄棟の軒樋は宙を走り頂部に木製の漏斗(角錐台の枡)を持つ竹の竪樋に漏斗の部分で接続、さらに下屋の軒樋の呼び樋が竪樋に接続され竪樋が倒れないように支持している。というように軒樋が宙を走り持ち合いながら線の美しい構成を創り出している。構成の美しさもさることながら竹と漏斗の接合のディテール、先端がすぼまる木製の呼び樋など部材自体もとても美しい。
 
 

 このように<待庵><桂離宮>ともに竹と板材の直線の部材でつくられている。そのため曲がりが存在せず直線のぶつかり合いで美しい水の流れを創り出してきた。数少ない自然の材料を工夫しそして駆使して創り上げた先人の知恵と努力には感激する。それに比べ後世の金属や樹脂製の雨樋は加工はしやすいという利点はあるが、建物の形状なりにとってつけたように取り付けられる例が多く決して美しいとは言えない。せっかく日本建築の樋は先人たちの努力により美しくつくられてきたのに、配慮にかけているのが残念である。そんな中で宙を走る樋を近代に実現した建築がある。堀口捨巳<小出邸>である。(堀口捨巳は他の作品にも多用している)

宙を走る樋
堀口捨巳<小出邸>

 
 堀口捨巳は1895年(明治28年)に岐阜県に生まれる。1920年(大正9年)東京帝国大学工科大学建築学科卒業、ヨーロッパの新しい建築運動に興味を持ち、従来の様式建築を否定する「分離派建築会」石本喜久治瀧澤眞弓森田慶一山田守矢田茂らと結成、作品展覧会など日本初の近代建築運動を展開するとともに建築の設計活動を始める。1923年〜24年渡欧、帰国後「現代オランダ建築」(岩波書店)を出版日本に初めてオランダ建築を紹介した。当初は近代建築に傾倒し帰国後設計した<小出邸><紫烟荘>は渡欧中に強く影響を受けたオランダ建築を日本の素材で試みた作品といえる。明治大学校舎、常滑陶芸研究所などモダニズム建築をつくった。後に日本の数奇屋建築に美を感じ、モダニズム建築と伝統文化の理念の融合を図った。それを実践したのが八勝館みゆきの間で、細い線のような柱に支えられた屋根を持つ半屋外の張り出しの濡れ縁、細い柱と障子・欄間障子・縦横に組まれた竿縁天井・竿縁天井に収められた照明の構成が軽快でモダンなファサードと空間を創り出している。茶室、日本庭園の研究家そして歌人としても功績を残している。
 
 堀口捨巳が渡欧した時代、ヨーロッパでは前衛的な芸術運動「デ・スティル運動」が起こっていた。堀口捨巳が訪れたかどうかは不明であるが、以前述べたリートフェルトの<シュレーダー邸>が1924年竣工である。「デ・スティル運動」の特徴は幾何学的な面と線の構成だ。
 
 建築家としての処女作ともいえる<小出邸>はピラミッド状の宝形屋根と水平の屋根を持つブロックが貫入した構成で、大屋根とシャープな軒の水平ラインの対比がとても印象的な外観をしている。この幾何学的な構成は面と線で構成される「デ・スティル運動」の影響を強く感じることができる。軒先に設けられた竪樋は外観を構成するひとつの線の要素として曲がりもなく宙を走っている。伝統的な竹の樋の収まりを現代的に用いていて、樋においてもモダニズム建築と伝統文化の融合を実践しているといえる。宙を走る樋の支持がまた心憎い。1本の鉄のフラットバーを捻って曲げ緩いカーブをつけたV字とし、根元近くを同材でつないで補強している。単純なディテールで人の手の温もりが感じられそれ自体が工芸品でとても美しい。この美しい支持材で宙を走る樋はとても繊細で美しい。
 
 <小出邸>は1996年(平成8年)まで家族によって大切に住み続けられ、1998年に都立小金井公園内の江戸東京たてもの園に移築復元された。ぜひ機会をつくって空間を体験してもらいたい。

著者略歴
 
堀 啓二(ほり・けいじ)
 
1957年福岡県生まれ。1980年東京藝術大学美術学部建築科卒業。1982年同大学大学院修士課程修了。1987年同大学建築科助手。1989年山本・堀アーキテクツ設立(共同主宰)。2004年共立女子大学家政学部生活美術学科建築専攻助教授。現在、共立女子大学家政学部建築・デザイン学科教授、山本・堀アーキテクツ共同主宰、一級建築士。大東文化大学板橋キャンパス(共同設計、日本建築学会作品選奨、東京建築賞東京都知事賞)、プラウドジェム神南(グッドデザイン賞)、二期倶楽部東館(栃木県建築マロニエ賞)、工学院大学八王子キャンパス15号館(日本建築学会作品選奨)、福岡大学A棟(共同設計、日本建築学会作品選奨)ほか

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