藤村龍至
(ふじむら・りゅうじ):1976年生まれ。2008年東京工業大学大学院博士課程単位取得退学。2005年より藤村龍至建築設計事務所(現RFA)主宰。2010年より東洋大学専任講師。2016年より東京藝術大学准教授。建築設計やその教育、批評に加え、公共施設の老朽化と財政問題を背景とした住民参加型のタウンマネジメントや、日本列島の将来像の提言など、広く社会に開かれたプロジェクトを展開。
LINK:株式会社アール・エフ・エー
まず、藤村さんがこれまで設計されてきたものの中では「Building K」がひとつエポックだと思います。高円寺の駅のホームから見える姿が実に壮観で、まちに竣立しているのが非常に印象的でした。一方、外から見てるだけではわからない構造的な提案も組み込まれています。5階に大きなメガストラクチャーとしての梁があって、2〜4階がそこから吊り下げられています。同時に設備についても、さまざまな提案がありました。設備に対する興味はもともとあったのですか?
「Building K」外観。
藤村:このプロジェクトは、構造家の 大野博史さんや設備設計家の 鈴木悠子さんといった同世代の若いチームで取り組みました。鈴木さんは、もともと私が学んだ東京工業大学(以下、東工大と表記)の塚本由晴研究室の出身でした。意匠系の研究室を出て、設備計画をされているので、とても個性的です。とにかく屋上から地下ピットまでまっすぐ排水を通したいと。
「Building K」の1階は店舗なのですが、通常そのような集合住宅ですと、上階から下ろした雨といは、2階の天井で横引きしたりします。だから、雨量が多いと、2階のバルコニーあたりから水が溢れたりして漏水の原因になることもありますよね。でも、なかなか集合住宅の場合、上から下まで一気に通す排水計画は難しい。
ただ今回は、計画の初期段階から鈴木さんにも入っていただいていたので、それなら鈴木さんの夢を叶えようと、構造家の大野さんと共に、設備計画を最優先する方向で、設計を進めていきました。
「建築を長持ちさせたいのであれば、設備機器は露出しておきなさい」と、建築家の 林昌二(1928-2011)さんが、いつもおしゃっていたそうです。 「Building K」は、まさにそれを徹底させました。 外部に接する形で4つのコアを設け、そこに設備機器が集約さ
れています。
ー 藤村さんは“建築のマナー”とおっしゃっていますが、柱型、梁型が無造作に出てこない。できるだけ制御を行い、良識な判断をした設計に新しい合理性を感じました。私は、レンゾ・ピアノのポンピドゥー・センターを思い出してしまうのですが、飛躍のしすぎでしょうか。
藤村:とても光栄ですが、私の当時の意識としてはピアノよりもピアノと協働した ルイス・カーンに近かったかもしれません。ルイス・カーンは 「設備に人格を与える」と言い、建築には 「サーブドスペース」(サポートされる機能空間)と 「サーバントスペース」(サポートする機能空間)があると唱え、数々の名作を生み出しています。ここで大切なのは、「サーブドスペース」「サーバントスペース」のどちらにも、きちんとスペースを与えるということです。ちなみに、ピアノはそういったカーンの影響を大きく受けていると思います。
(写真:ソーク研究所/ルイス・カーン/1959-67 / photo=Chad McDonald)
ー そういう建築の過去の遺伝子につながる匂いと同時に、そこにある種の知的なニューウェーブも感じたわけです。
(写真 Ⓒ Pepechibiryu)
あるとき菊竹さんのレクチャーに行ったら、所員の方が面白がって「彼は、今時めずらしくテンション構造を使ってるんですよ」と、菊竹さんに私を紹介してくださいました。そうしたら菊竹さんが「Building K」を見に来てくださいました。 構造と寸法については、とても褒めてくださったのですが、設備については「こんなのは何も新しくない」と。村野藤吾先生が、大手町の第一勧銀ビルですでにやっていることだから、新しくも何ともないというお話しでした(笑)。
ー 私は少し違うと思います。藤村さんの建築は、単に設備が外に出ている、設備オリエンテッドというではなく、構造も意匠も設備も、すべてが合理的に統合していくところに、藤村さんならではの新しさがあると思うのです。そういう意味では、私は坂茂さんも思い起こしてしまうのですが、坂さんのような建築については、どうお考えですか。
藤村:坂さんが、活躍されはじめたころ、私は東工大の社会工学科で学んでいて、坂さんのファンでした。一番好きだったのは 「ダブルルーフの家」です。屋根は屋根として架構になっていて、居室はそれで成立している。そういう考え方が好きでした。
ただその後、東工大の大学院で塚本由晴さんの研究室に入り、塚本先生はもちろん、坂本一成さんにも影響を受けました。すると だんだん、坂さんのようなある種の明解な図式でつくられるような形態から、ロバート・ベンチューリが「建築の多様性と対立生」と唱えたようなもう少し複雑さを持つ方向へ興味が移っていきました。
だから、たとえば「Builiding K」は 一見するとどこに梁があるかわからなかったり、構造が明解に表現されていません。パッと見て、こういう建築だということがわかりにくい。逆に菊竹さんには、そこももっと明解にすべきだと指摘されたわけです。
ー これからの時代は、構造にしても、設備にしても、建築側からより租借していく、噛み砕いていくということが、さらに必要で、そこにおもしろさが生まれると思います。それが今でもなお、多くの場合、おおむね理解されないまま、流されているように感じています。
藤村:そうですね。2008年より少し前に、構造デザインが建築デザインの主流のようにになったときがありました。ちょうど構造家の 佐藤淳さんが活躍されはじめた頃でした。1990年代に構造家の 佐々木陸朗さんが 伊東豊雄さんと協働しはじめ、 SANAAの建築へと展開されていきました。その後、佐藤淳さんによって 石上純也さんの建築では1メートルスパンを切るような短いスパンで大量の柱が並べられるようになりました。
そのような流れのなかで、 私が設計をはじめた2005年ころは、もはやメガストラクチャーは死語だったわけですが、私としては、今メガストラクチャーを取り上げることで、現代におけるそのシステマチックな側面やその生産性を、改めて取り戻すことができないかと考えていました。そういう意味において、真壁さんの言葉をお借りすると、 「Builiding K」は“構造や設備を建築側から租借する”ことを、まさに考えていたわけです。
事務所の片隅に置かれている「Building K」の模型群。その設計のプロセスが一目にわかる。
再投資すべきニュータウンを問い直す試み
ー「Builiding K」以降、どのような規模の建築を設計されることが多いのですか?
藤村:オフィスビルや集合住宅、住宅などを少しずつ設計していきながら、東日本大震災後には、公共的なものへ興味が移っていきました。東洋大学で教鞭を執らせていただくなかで、 公共建築や都市計画の将来像について、どう合意形成するかというプロジェクトがはじまり、現在まで継続的に行ってきています。
ー 次に白岡ニュータウン「コミュニティーガーデン街区」についてうかがいたいのですが、これはどういうきっかけではじまったのでしょうか。
SE構法を取り入れたそれまでの住宅を見てみると、意匠的にはスパンを飛ばした吹き抜けの大空間があるようなものが多かったのですが、 私は坂本先生や塚本先生の影響もあって、住宅にそもそも大空間や吹き抜けは不要だと考えていました。たとえば6000mm、7200mmの大きなスパンも、その間に柱が1本入っていれば、パーツは3000mmや3600mmとなり、全体の架構がより合理的につくれるようになります。
であればあえて大空間はつくらなくても、その場所に応じて天井が少し高い場所をつくることもあり得ます。こうして 私は必要なパーツを見直して柱と梁の2種類の部材だけでつくられる「柱と梁の家」を提案しました。それに詳細な見積りと環境性能評価を合わせて展示をしたら、白岡ニュータウンのデベロッパーさんが声をかけてくださったのです。
白岡ニュータウン「コミュニティーガーデン街区」の模型。
ー ここでもサーブド、サーバンドの考えが合理的に適用されているのでしょうか。
藤村:そうです。 基本は田の字プランをベースとしつつ、サーブド、サーバンドをきちんと考えて、設備機器などは専用の区画にきちんと集約されています。
ー デベロッパーの方は、田の字プランにより安心感を覚える一方で、道路に対するオープンな構えに多様な風景が生まれるであろうことをポジティブに捉えたのではないでしょうか。
藤村:そうですね。段階を追って提案を重ねていくなかで、理解していただけるようになっていきました。与えられた白岡ニュータウンの今回の敷地は、変形した敷地で、通常であれば5、6戸が建つ状況でした。
最初にデベロッパーの方は、これまでのニュータウンの作り方を問い直したいとおっしゃっていたこともあって、白岡ニュータウンの歩みを調べ始めました。すると担当の方が、そこに30年間勤めている方だったので、いろいろと話をうかがうことができました。白岡ニュータウンは1987年に誕生してから時間をかけ開発をコントロールしながら、少しずつ広げていったそうです。それに貢献したのが、 石原舜介さんという都市計画家。この方が、白岡ニュータウンの軸となる南北軸の街区などのプランニングのアドバイスを行ったそうです。実は私が最初に学んだ東工大の社会工学部をつくった方が関わったニュータウンだとわかり、驚きました。
千葉のユーカリが丘なども有名ですが、 開発のペースを一定に保ち、少しずつ開発を行うと常に新しい世代が定期的に流入してきます。だから、時間が経っても自治会はいつもフレッシュで活発だそうです。まちを歩いていても、ゴミひとつ落ちていませんし。毎日「歩け歩け運動」というものが行われていたり、とにかくニュータウン全体がアクティブなんです。
ー 住戸一つひとつの道路に対するオープンな構えが非常に特徴的です。
奥に見えるのが、新しくつくられた白岡ニュータウン「コミュニティーガーデン街区」。手前は既存街区。
藤村:それはニュータウンの将来に対する私たちの提案です。たとえばアメリカの 「ニューアーバニズム」といった郊外型住宅の運動では、住民間のコミュニケーションが生まれるように、あえてポストを住宅とは少し離れた道路側につくって、新聞を外まで取りに行かせるようにつくっていたりします。当時、郵便物はすべて地域の郵便局にわざわざ取りに行くと言う方法を取っていたそうですが、それによって郵便局がコミュニケーションの場所として機能する。そのように きちんとニュータウンの理念を体現できるものとして、住宅をひらいていったのです。
今回の計画では、まずその考え方を使いたいと思いました。そこで、玄関をできるだけ等間隔に並べ、玄関よりも外の道路側にポストを設置し、ポストに新聞や郵便物を外に取りに出て行くときに、住人同士が声をかけやすいような配置を考えました。
竣工時の白岡ニュータウン「コミュニティー街区」。今は、複数の家族によって、どのような光景がつくられているのだろうか。
藤村:1983年に流行ったドラマ「金曜日の妻たち」で描かれたのは、田園都市線沿線のニュータウンに建つ住宅でした。そこで特徴だったのはリビングの掃き出し窓の先に広がるウッドデッキで、そのころからこのスタイルは定番となり、市民の憧れとなりました。
1階リビングから庭を見る。
しかし、それはまさにひとつの家族のための場所でした。そういった住宅を建てた方々も子育てを終え、年金高齢者となった今、改めて求められているのはそのようなひと家族で完結するような住宅ではありません。ニュータウンの暮らしを見ていても、高齢者の皆さんが活発に活動していると、何かと人が集まる場所が必要になります。もちろんどこかの会議室を借りて10人くらいが集まるのも良いのですが、できるなら住宅そのものが対応できれば良いのではないかと考えました。そこにSE構法の良さをふんだんに使い、リビング空間からテラスや庭にかけて、10〜15人が自然に集まれる場所を設計しました。
ー さらに庭に人が集まれそうな設えがあります。
庭もひと家族が楽しむものではなく、他の家族も招き入れる庭として設計しています。庭の良さは、家の中を片付けなくても人を招くことができるということです。それぞれの住戸の庭が一見バラバラの方向のように見えるのですが、庭同士がつながっていくとひとつの公園のようにもなる。
ニュータウンに建つ住戸の垣根は、高くするとプライバシーは高まるけど、一方で防犯にはよくありません。それであれば、あえて開いていくのもあり得ると考えました。開いていくことで、起こりうるさまざまな問題や課題を住人同士でシェアしていくという住宅地像が、このプロジェクトを考えていく中で、できあがっていきました。
私たちと一緒に話合いを行っていくプロセスは、結果的にデベロッパーが自分たちはどういうまちづくりをやってきたかということを、取り戻すきかっけになっていきました。最初は計画が強い計画指向。この時代は何をつくっても売れていました。やがて消費者に徹底的に寄り添っていく時代を迎えます。吹き抜けはもちろん、ディズニーでも何でも使うモノは使った消費指向の時代です。そして、現代は完全に消費者像が見えなくなったと いうわけです。
リビングの外に設けられたデッキと庭。
ー 石原舜介さんのがこのニュータウンに線を引いた時代から約30年ひとまわりたが経ち、住んでいるひとがより多様な世代となってきました。子育てしている世帯があれば、高齢者の世帯があると。そこにこの庭のようなある種の装置があることが、本当にすばらしいですね。これから温かい季節を迎えると、さまざまなシーンを生み出していきそうです。
藤村:今でも新しい住宅地がつくられていますが、もう新たに外側に拡張してストックを足していくことはやめた方が良いと考えています。新しいインフラをつくれば、またそこに維持費もかかっていってしまう。そうではなく都市全体の中で、ニュータウン然りお金をかけて整備したインフラを単なるイベントにせず運用できる人に行政は再投資して、もう一回人を呼び戻すべきなのです。古いマンションも問題ですが、郊外では大きなお金をかけて建て成しても成功したものがほとんどありません。ところがニュータウンは再生がしやすい。だからこそ積極的にいかすべきだと思うのです。
ソーシャルアーキテクトを社会に根付かせるために
ー 最後に2016年に着任された東京藝術大学の話を聞かせてください。
実は、今回のインタビューには理由がありました。私には、藤村龍至さんの藝大着任には無関心ではいられなかったのです。かつて藝大に吉村順三がいた時代、外部から天野太郎や山本学治といった人たちが教師の布陣に招聘されました。その後、トム・ヘネガンさんが外部から加わることもありました。このように藝大には、その時代時代に外部から人材を登用して学科運営を図ってきた歴史があります。そうした意味からも藤村さんの作品や思想、さらには藝大での教育の抱負をうかがいたかったのです。
東工大を出て、設計活動をはじめ、東洋大で教鞭を執られて、今回藝大の先生となった藤村さんのミッションは、まさに「設計」と「計画」を藝大に定着させることだと思います。どちらにも身を寄せられることを伝えることが、今の藝大には求められていると思うのですが。
藤村:仰るとおりだと思います。まさにそういう人材を社会に供給していかなくてはいけないと考えています。前職の東洋大にいた際も、そういった目標を持って学生たちと接していました。ですので、建築業界だけではなく、たとえば自治体やコンサルの会社に就職する学生を輩出できたのはひとつの成果でした。
それでもまだまだ「ソーシャルアーキテクト」というものは、社会にも大学の中にも定着がされていません。あくまでベースは建築にあるのだけど、その上で都市的な考えをもとに建築を設計していく。丹下健三さんは、まさにそういう姿勢で設計されていたと思います。たとえば、工業出荷額が多いエリアにインフラ投資を集中すべきだと提案した「東海道メガロポリス」のような提案をしながら、一方で「代々木第一体育館」のようなものを設計していました。それがセットとなって、ひとつの建築家像がつくられていたわけです。それが、この現代でどう得るかを私はこれから考えていきたいのです。
ー 具体的にこれから藝大の中では、どのようなことを実践していきたいとお考えでしょうか。
藤村:これから藝大で自分が行っていきたいことが大きくふたつあります。
藝大で教えはじめて最初に興味深かったのは、学生たちは常に絵を描きながら設計をするということでした。当たり前のことのように思うかもしれませんが、東工大ではそのようなことはしません。それよりも前に分類をしたり、意味を整理したりしながら設計を行っていきます。つまり図式的に設計していくのです。藝大の学生たちは、図式というよりは形態そのものを設計していく。個別のシーンをつくり出し、そこに物語を与えていくような設計は、とにかく新鮮でした。ですから、私自身もそういうことに対して、自分のスキルを磨いていきたいということがひとつ。
もうひとつは、藝大の他の先生や他大の方も引き込みながら、「理論の議論」をきちんとしていきたいと考えています。これまでも、思想的な建築は、デコンからアルゴリズミックデザインへとさまざまな建築の潮流が出るなかで、時代時代のニーズに建築は応えてきました。しかし、そういう流れも行き詰まり、今は、コミュニケーションに寄り添って、それに応えていくのが良いとなりかけています。しかし、それでは無批判になってしまうので、その対極としてどういう流れを次に生み出すべきかを考えていきたいのです。
京都市立芸術大学の砂山太一さんや東京大学の木内俊彦さん、それに若い世代も一緒になって、建築だけではなく美術や情報の世界の動きもきちんと捉えながら、今、これから建築にすべきことを考える試みをすでにはじめています。藝大は小さいがゆえに、このようなことがやりやすいと感じています。
ー 藝大の学生の資質を見極め、さらに時代に不足する「理論の議論」がしっかりできる学生の下地を育成していく。その先に「ソーシャルアーキテクト」を輩出することができる建築環境にしていきたいと語る藤村さんに、これからも注目していきます。今日はどうもありがとうございました。
取材日:2016年8月3日 インタビュアー:真壁智治 編集:大西正紀 / mosaki |