連載

木岡敬雄の

雨が育てた日本建築


 日本の伝統建築に見る「雨のみち」。木岡敬雄さんによる新連載第2回目のテーマは法華堂の樋。

(2017.11.20)

VOL.2 法華堂の樋のナゾ

東大寺法華堂
軒裏をのぞくとそこにあるのは...

 
 奈良の東大寺は広大な伽藍を誇ります。有名な大仏殿から東へ歩むと若草山の麓に至ります。急な石段を登り、大きな鐘楼の脇を抜けてさらに石段を登り切った先に瓦屋根の建物が見えてきます。この建物が今回お話しする 東大寺法華堂です〔図1〕。

図1:東大寺法華堂
東大寺法華堂の西面。柱間で数えて左から四間目までが正堂、右から二間目までが礼堂で、その間に挟まれた二間分(相の間)も取り込み一体の建物とした奥行きの深い建物です。屋根も正堂は寄棟屋根、礼堂は南面に破風を見せる入母屋屋根で上から見ると棟がT字形をした複雑な屋根です。(作画:木岡敬雄)


 法華堂のある一画は古くから神聖な地として開け、東大寺創建の歴史とも深く関わる重要な場所と言われています。奈良に春を告げる「お水取り」で有名な 二月堂も法華堂背後の山の中腹にあります。法華堂は三月に行われる法華会の会場となるために 三月堂とも呼ばれています。お堂の中には、奈良時代の大きな仏像が多数安置され、天平文化の息吹を現在でも感じることができる貴重な場となっています。
 
  法華堂の建物を良く見ると左右で形が異なっていることが分かります。向って左側は 奈良時代の正堂(しょうどう)。右側が 鎌倉時代再建の礼堂(らいどう)です。瓦屋根の形状も左右で異なり、左側は 寄棟造りで右側は南面に破風を見せた 入母屋造りです。屋根の形が物語るように法華堂の正面は石段を登り切った西面ではなく南面です。軒裏を見上げた時に目を引くのが正堂と礼堂の間に建物の内部から飛び出している木製の樋です〔図2〕。

  法華堂はひとつの屋根で覆われているため、このような場所に 樋の必要はありません。どうしてここに樋があるのでしょうか。

図2:法華堂の樋
建物から直角方向に飛び出している三枚の板で作られた部材が木樋です。木樋は建物内で切断されており、その姿を留めているのは建物の外側だけです。端部は外部に向って解放されており竪樋は無かったと考えられます。(作画:木岡敬雄)


母屋に庇がつきはじめる 古代の日本建築

 
  奈良時代から平安時代にかけてつくられた古代の日本建築の平面は下の〔図3〕のように極めてシンプルな構造からなっています。
 
 まず、〔図3〕の( a)の様に と、 などの横架材によって構成された架構に、 垂木を掛け 屋根を葺くことによって建物が造られます。この基本の部分を 母屋と言います (青色で示した範囲)。たとえば、奈良時代の都であった平城京の遺跡をみると、母屋だけで構成された建物が実に多くみられます。

図3:伝統建築の架構1(作図:木岡敬雄)

 
 そこから建物を大きくする場合は、母屋の外側に柱を立て、その間を梁で繋ぎ屋根を掛けることで、より広い建物とすることが可能です。この様にして広くなった部分を と言います (赤色で示した部分)。庇の付け方もその場に合わせて色々です。( b)の様に一方向に庇を付けた場合は 一面庇、( c)の様に二方向に庇を付けた場合は 二面庇、( d)の様に四方に庇を付けた場合は 四面庇と言います (注1 )。四面庇の場合は( e)の様に四隅の部分まで建物の中に取り入れた場合も含まれます。平城京の発掘例からも庇を付けた建物は無いものと比べより格上の建物とされ、四面庇の場合は敷地内でも中心的な建物とされています。
 

図4 伝統建築の架構2(作図:木岡敬雄)


 さらに広くする場合はどうなるでしょう。〔図4〕の( a)のように、庇の外側にさらに庇を取り付けることも一つの方法です。この部分を 孫庇と言います。ただ図でも明らかなように、 孫庇の軒は他に比べて高さが低くなるので孫庇の出を大きくするのには限度があります。一方( b)のように別の建物を並列して建てる方法もあります。お互いの屋根が接するところに樋を設けて、ふたつの建物を奥行きの深い一体の建物とする方法も可能です。これらが 双堂(ならびどう)と呼ばれる形式の建物で 東大寺法華堂も創建当初は双堂だったと言われています。
 

注1:建物の平面を示す表記方法として「間面記法」と呼ばれる方法があります。母屋の桁行(長手方向)の柱間数と庇の数で示す方法で平安時代から鎌倉時代にかけて使われていました。図3(d)の場合は「三間に四面庇在り」または略して「三間四面」と記されていました。しかし母屋と庇の関係が崩れてからは使われなくなりました。

 


ふたつの建物を一体化!? 双堂の盛況

 
 東大寺法華堂は 桁行3間梁間2間の母屋の四周に庇を設け た正堂と、その南面に 桁行5間梁間2間礼堂を付属させた奥行きの深い建物です。ふたつの建物に挟まれた相の間には柱が一列に並び、扉などの間仕切りで正堂側と礼堂側とに区切られています〔図5〕。正堂は多数の仏像が安置された仏のための聖なる空間であるのに対して礼堂は人々が仏事に参集し礼拝する場所として使われていました。

図5:法華堂の平面
法華堂の平面は相の間の柱列によって正堂側の土間部分と礼堂側の板敷部分とに分かれていますが創建当初は正堂側も板敷であったと言われています。土間に変更された時期を示す史料はありませんが礼堂再建時ではないかと推定されています。(作画:木岡敬雄)


 法華堂のことを記した平安時代の史料には、すでに「礼堂」が付属していたことが記されているので、創建当初よりふたつの建物が並ぶように建っていたことは確かです。しかも“礼堂は檜皮葺きであった”と記されており、 正堂とは異なる屋根の建物が軒を接して建っていたとみられます。現在、床があるのは礼堂側だけですが、正堂の柱に残された痕跡から創建当初は建物全体に床が張られていたと言われています。 ふたつの屋根によって出来る谷の部分に木樋を設けて雨水を建物の外へ流すことによって、ひとつの建物として使われていたことは間違いないでしょう。
 

図6:法隆寺食堂細殿
法隆寺西院伽藍、百済観音などが収蔵されている大宝蔵院の前にある建物です。奈良時代にお寺の寺務を執り行う建物として造られました。鎌倉時代の記録からは食堂と細殿を一体の建物として扱っており双堂形式の建物を考えるうえで貴重な遺構です。(作画:木岡敬雄)


  奈良時代から平安時代にかけて、ふたつの建物を一体化した「双堂」と称される建物がいくつも見られます。上〔図6〕は、 法隆寺西院の「食堂及び細殿」と呼ばれる建物です。見ての通り、切妻屋根の大小ふたつの建物が、軒を接するように建っています。大きい方は食堂で奈良時代の創建、小さい方の細殿は鎌倉時代の再建と言われていますが、 奈良時代から細殿が付属し一体の建物として使われていました。現存の建物は軒先の高さが異なるため木樋を設けていませんが、奈良時代の双堂の姿を彷彿とさせる建物です。
 
 この他にも奈良の 興福寺薬師寺などでも 双堂の例がみられます。 東大寺に対抗するように奈良時代末に創建された 西大寺では子院の 「四王院」「十一面堂院」の仏堂として規模の大きな双堂が造られていました。寺院に限らず神社でも 「八幡造り」の名で知られる 宇佐神宮石清水八幡宮の本殿も双堂形式の建物として知られています。現存する本殿は近世のものですが、創建当初の形式を踏襲しています。また平城京の 大極殿院では奈良時代後半には幾つもの双堂形式の建物が建ち並んでいたといわれています。 このように奈良時代から平安時代にかけて多く造られた双堂ですが、その後は歴史の表舞台から姿を消していきます。その大きな要因のひとつとして野屋根の誕生が挙げられます。
 

日本の雨が生み出した野屋根の誕生

 

図7:野屋根の誕生
左は野屋根の誕生以前の屋根です。垂木の勾配がそのまま屋根の形に反映されるため、瓦屋根を葺く場合は垂木上に土を厚く盛るなど屋根の形を整える必要がありました。野屋根の誕生によって思い通りの屋根曲線を造ることが可能となりました。(作図:木岡敬雄)


 日本の伝統建築の屋根は、先ほど説明したように基本の架構に垂木を掛け屋根葺材を葺くことで造られています。下から見上げた時に見える垂木がそのまま屋根を形作っていました。 ところが平安時代の中頃から、この垂木の上に屋根面を形作る別の垂木を用いて屋根を造るようになりました。下からは隠れて見えないこの垂木を 野垂木といい、こうして造られた屋根を 野屋根いいます。下から見える垂木は 化粧垂木と称して区別しています 〔図7〕。
 
  野屋根は日本独自の屋根構造で、 このような屋根構造が考案された理由として雨の多い日本の風土にあったことは間違いありません。勾配のある野屋根によって雨仕舞は飛躍的に向上したことでしょう。さらにそれまでの屋根が建物の架構を反映して造られていたのに対し、野屋根によって母屋と庇の関係に縛られることなく自由に屋根を掛けることも可能となりました。このことは逆に建物内部の間取りを変えることに繋がり、 母屋庇の関係から自由な間取りへと変化する契機ともなりました(注2)。やがて化粧垂木と野垂木の間の隙間を利用して 桔木を入れるようになり、軒にかかる荷重を桔木で支持することによって 深い軒を容易く造ることも可能となりました。日本の伝統建築の特徴である深い軒の出や大きな屋根は野屋根の誕生によってもたらされたといっても過言ではないでしょう。
 
 法華堂は平安時代を通して双堂形式の建物として維持されていたようです。東大寺に大きな被害を与えた治承4年( 1180)の兵火の際も被災を免れました。しかし、礼堂だけは、鎌倉時代にると再建を余儀なくされます。現存する礼堂の再建時期には諸説がありますが、現在は鎌倉時代の文永元年(1264)に再建されたと見ることが有力のようです。つまり、この時初めて、双堂形式の屋根から現在見る寄棟の屋根に入母屋の屋根が取付く形に直されたのです。
 
  木樋は、この時点で谷樋としての役目は失われてしまいましたが、その後も残され現在に至っています。木樋は、かつて双堂であった経緯を伝えようとしたのでしょうか、それとも下から見上げた時の納まりを考慮したのでしょうか。その真相は分かりませんが、日本の伝統建築の大きな変遷を物語る貴重な生き証人であることは、間違いありません。
 

注2:野屋根の誕生は単に屋根構造の変化だけでなく建物の平面にも大きな影響を与えました。母屋と庇の関係に縛られることなく母屋相当する部分をふたつ並べてその周囲を庇とするなどより自由な平面が可能となり、中世密教本堂の成立に少なからず影響を与えました。仏堂だけではなく住宅建築においても母屋と庇の関係からなる寝殿造りから書院造へと発展する過程においても野屋根の果たした役割は大きいといえます。

 


(きおか・たかお)1957年東京生まれ。1982年武蔵野美術大学造形学部建築学科卒業。同年、宮上茂隆の主宰する竹林舎建築研究所に入所。1998年竹林舎建築研究所代表に就任。日本建築の復元と設計に当たる。主な仕事に、掛川城天守復元、大洲城天守復元、建長寺客殿得月楼設計、岐阜市歴史博物館「岐阜城復元模型」監修、東映配給映画「火天の城」建築検証、NHK大河ドラマ「真田丸」大坂城CG監修。主な受賞に、大洲城天守復元で「第1回ものづくり日本大賞内閣総理大臣賞」「日本建築学会賞(業績部門)」など。