連載

木岡敬雄の

雨が育てた日本建築


 日本の伝統建築に見る「雨のみち」。前回までは、日本の伝統建築の事例から、「雨のみち」は屋根にはじまり、建築のさまざまな部位にかかわっていることを紐解いてきました。第4回からは、少し視点を広げて伝統建築と雨にまつわる事がらを取り上げていきたいと思います。

(2018.12.15)

VOL.4 建長寺にみる雨打(ゆた)の役割

 
鎌倉の建長寺

 
 三方を小高い丘に囲まれ一方を海に面する鎌倉は、夏は海を、秋から春に掛けては紅葉や四季折々の花々などを楽しみに多くの人々が訪れます。また京都や奈良と並び、長い歴史を持つ古都として多くの社寺や史跡が存在します。周囲の丘陵部には海の浸食によってできた谷が複雑に入り込み 「谷戸(やつ)」と呼ばれる鎌倉独特の地形を成しています。鎌倉時代の日記 『とはずがたり』「階(きざはし)などのやうに重々に、袋の中に物を入れたるやうに住まひたる」と記されたように、鎌倉は谷戸を中心に発展し、現在もその姿が引き継がれています。鎌倉を訪れるための道は限られ、鎌倉時代に開削された鎌倉七口と呼ばれる切通しが今日も主要な道路の礎になっています。そのひとつ北鎌倉山ノ内の巨福呂坂に今回取り上げる 「建長寺」があります。
 
 切通しの名前を山号にした 「巨福山建長寺」は、日本におけるはじめての本格的な禅宗寺院として知られています。禅宗は鎌倉時代に中国より伝えられた仏教の宗派のひとつで政治の実権を得た武士たちによって積極的に受け入れられました(注1)。特に北条氏は本拠地である鎌倉に隣接する山ノ内の地に 中国人僧蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)を開祖に迎えて、禅宗専門の寺院として建長寺を創建しました。
 
 禅宗は教義だけでなく僧侶の生活一般にまで細かい決まりごとが存在し、修行の場である建物も中国の禅宗寺院を手本にして造られました。寺は西南から北へ向けて延びる深い谷戸の入口に位置し 総門、三門、仏殿、法堂(はっとう)、方丈といった具合に谷の奥へ向けて建物が建ち並んでいます。現存する建物の多くは近世に再建されたもので鎌倉時代を偲ぶものは少ないのですが、寺を取り囲む谷戸の地形や仏殿前の 柏槇(びゃくしん)の古木は往時の面影を今に伝えています(図1)。
 
 

図1 建長寺の仏殿と柏槙の古木

現在の仏殿は芝増上寺にあった徳川二代将軍秀忠の夫人である崇厳(すうげん)院のお墓の覆屋(御霊屋)を移築したものです。かつての仏殿と比べれば小さな建物ですが禅宗様を取り入れた江戸時代の霊廟建築の遺構として貴重な存在です。
(作画:木岡敬雄)


 

注1
日本の禅宗は鎌倉時代に栄西によって伝えられた臨済宗と道元によって伝えられた曹洞宗、そして時代が下りますが、江戸時代初めに隠元によって伝えられた黄檗宗に分かれます。鎌倉時代に伝えられた二派のうち、臨済宗は当初から京都や鎌倉など政権の中枢の地を活動拠点としていましたが、曹洞宗は越前など地方に活動の拠点をもとめました。建長寺は臨済宗の寺院でもっとも格式の高い寺として崇敬されてきました。

 


建長寺指図

 
 その 「建長寺」に一枚の指図が伝えられています(図2)。
 

図2 建長寺指図の写し


 
 この 「建長寺指図」は、室町時代初期に京都の「東福寺」の再建にあたって「建長寺」を参考にするため、「東福寺」の大工が作った図を江戸時代に「建長寺」の僧侶が模写したものと言われています。指図は墨で各建物の柱配置や開口部の種別を記し、要所には具体的な寸法の記載もあります。
 

図3 建長寺伽藍復元図

建長寺の客殿得月楼設計時に制作した復元図に一部修正加筆したもの。
従来から直線状に建物が並ぶ指図の伽藍配置と実際の谷戸の地形との相違が不審に思われていましたが、僧堂と庫院の柱間寸法の違いからも三門が仏殿以下の軸線から傾いて建っていたことは明らかで発掘調査によってもその事実が確認されました。
(復元考証・作図:木岡敬雄)


 
図3は指図を基に作成した 「伽藍復元図」です。赤線は「復元伽藍」、青線は現況の伽藍を示しています。図を見ても分かるように、谷戸の幅一杯に伽藍の建物が配置されていました。伽藍の中心部に関しては、平成の発掘調査結果からも相違は少なく指図の正確性が伺えます。一方で伽藍後方の池を中心にした一帯は発掘結果と合わない所も見られ一考を要するところです。しかし、指図の内容は当時の状況を知る者以外には描けないもので、史料としての価値は揺るぎません。もっとも繁栄した時期の「建長寺」の姿を伝える貴重な指図であることに、変わりはありません。
 

建長寺の雨打

 
 指図には各部の寸法だけでなく多くの書入れがあります。仏殿と法堂の間に 「雨打(ゆた)柱」という記載があります。「雨打」とは何を指し示しているのでしょうか。実は中国語で差し掛け屋根を示す単語から派生した言葉で、日本では中世から近世にかけて裳階の別称としてしばしば使われていました。江戸時代初めに成立した建築の木割書 『匠明』堂記編のなかでも裳階付きの仏堂を 「雨打作堂」と記しています。
 
 裳階といえば 法隆寺金堂五重塔薬師寺三重塔がまず思い起こされるでしょう。法華堂の木樋を取り上げた際に 身舎(もや)庇(ひさし)の関係についてお話ししました。裳階も庇同様に建物の外周に付加される構造物ですが、それ自体に屋根が付属しており主屋の屋根の下に差し掛けの屋根がもう一重付加され、一見すると二重の建物の様に見える所が大きな特徴です。裳階には建物本体の足元が雨に濡れないように保護することや閉鎖的な仏堂の代わりに儀式の場を設けるなどの実用的な意味もあるのですが、重層の建物に見える意匠的な効果も重視され、その後も寺院の中心建物に作例がみられます。有名な「 平等院鳳凰堂中堂」もその一つです。
 

図4 建長寺指図の写し


 
 このように裳階は、必ずしも「禅宗寺院」特有のものではないのですが、「建長寺」では個別の建物の範疇を超えより積極的な使われ方が行われていました。拡大した指図(図4)を見ると、明らかなように仏殿は五間四方もある規模の大きな建物ですが、その周囲を裳階が取巻いています。仏殿正面の裳階は左右に付属する 土地(つち)堂祖師(そし)堂のふたつの建物の正面を成し、さらに左右の回廊へと延長されています。梁間一間の回廊も中庭に面して5尺幅の裳階が付属し、回廊の南端には同じく裳階付きの二階建ての三門が谷戸を塞ぐように聳え建っています。
 
 仏殿と三門による伽藍中心軸に直行して回廊の東西には僧堂と庫院が相対し禅宗独特の伽藍配置を形成していますが、ここにも裳階が見られます。僧堂は雲水たちが共同生活を営み座禅に励む建物で禅宗寺院では最も重要視された建物ですが、僧堂の周囲を裳階が取囲み内堂と外堂のふたつの建物を結ぶ役割を果たしていました。これらの裳階は装飾的な曲線によって縁どられた火灯窓によって開放的に造られており、連続する火灯窓によって大きさや形式の異なる各建物が一体のものと感ぜられたことでしょう(図5)。
 

図5 建長寺の仏殿と中庭を囲む裳階(庭間の樹木は省略)

「建長寺指図」をもとに復元した最盛期の建長寺の姿。建長寺の仏殿は正面92尺奥行き86尺の大建築で薬師寺や興福寺など奈良時代の大寺院の金堂に匹敵する巨大な建物でした。仏殿から三門まで中庭を囲むように造られた裳階は建長寺を特徴づける存在です。発掘調査によって多く出土する小型の瓦は裳階の屋根に葺かれていた瓦です。
(作画:木岡敬雄)


 
 建物の正面を裳階や廊下によって繋ぎ一体化させた事例は日本の伝統建築ではほとんどありませんが中国では同様の例が見られます。図6は浙江省寧波(にんぽう)郊外にある 「天童寺」の仏殿ですが、連続した火灯窓の様は往時の「建長寺」の姿を彷彿とさせます。中国の中でも浙江省などの江南地方は雨も多く、これらの裳階や廊下の存在は仏事や人々の往来にとって必要不可欠なものであった考えられます。
 

図6 天童寺仏殿

中国浙江省寧波の郊外ある天童寺仏殿。日本に禅宗が伝わった南宋の時代には最も重要な寺院の一つとして多くの日本人僧が修行のため訪れました。現在の建物は後の時代の再建によるもので反りの強い屋根など南宋の頃とは異なる点が見られますが、仏殿の裳階の姿に最盛期の建長寺の面影が伺えます。
(作画:木岡敬雄)


 

 

建長寺の創建が果たした役割

 
 平安時代以降、中国の建築動向が日本に影響することはほとんどなかったのですが、鎌倉時代になって、中国の最新の宗教や文化が伝えられるとともに建築も新たな様式を生み出していきます。主に禅宗寺院の建物に取り入れられたため、禅宗様と呼ばれているこの様式の誕生によって日本の伝統建築は飛躍的に発展するとともに、奈良時代に中国から伝えられ日本で独自に発展した和様とふたつの様式の並立により、変化のあるものとなりました(注2)。その様な歴史の流れの中でも鎌倉の地に創建された「建長寺」は旧来の宗教や文化的な制約も少なく中国式の建築様式をそのまま取り入れた画期的なものでした。
 
 「建長寺」の存在意義は時代が変わっても揺るぐことはありませんでした。その後、京都においても「南禅寺」や「天竜寺」といった大規模な禅宗寺院が造られていきますが、「建長寺」の影響が色濃くみられます。室町時代の武士や貴族たちの教養をうかがい知る書物の中で「雨打」という言葉が方丈や宝塔などと並び記されており、裳階が単なる建物の付加物としてではなく伽藍を構成する重要な要素のひとつとして認識されていたことがわかります。
 
 

注2
鎌倉時代に日本にもたらされた様式として禅宗様とは別に大仏様があります。勧進僧重源が東大寺再興のために用いた様式で「東大寺南大門」が有名な遺構です。ただその様式は重源自身の発案によるところが多く、重源の死後は急速に衰え、細部意匠として残る以外は様式として定着することはありませんでした。しかし、大規模な仏殿の造営に際してはその後も同様の手法が用いられ、徳川時代に再建された「東大寺大仏殿」などがその例です。

 


(きおか・たかお)1957年東京生まれ。1982年武蔵野美術大学造形学部建築学科卒業。同年、宮上茂隆の主宰する竹林舎建築研究所に入所。1998年竹林舎建築研究所代表に就任。日本建築の復元と設計に当たる。主な仕事に、掛川城天守復元、大洲城天守復元、建長寺客殿得月楼設計、岐阜市歴史博物館「岐阜城復元模型」監修、東映配給映画「火天の城」建築検証、NHK大河ドラマ「真田丸」大坂城CG監修。主な受賞に、大洲城天守復元で「第1回ものづくり日本大賞内閣総理大臣賞」「日本建築学会賞(業績部門)」など。