連載

木岡敬雄の

雨が育てた日本建築


 日本の伝統建築に見る「雨のみち」。前回からは、少し視点を広げて伝統建築と雨にまつわる事がらを取り上げています。第5回のテーマは「雨戸」です。少し昔の家には、必ず備え付けられていた雨戸は、どの時代に、どのようにして現れたのでしょうか。話は豊臣秀吉の時代からはじまります。

(2019.08.05)

VOL.5 聚楽第大広間の雨戸
― 雨戸の出現とその時代背景 ―

 日本の伝統建築と“雨のみち”をめぐるお話の第5回目は、「雨戸」を取り上げたいと思います。 縁側のある家に住まわれたことのある方であれば、雨戸の開け閉めの経験をお持ちのことと思います。雨上がりなど敷居が湿って途中で動かなくなったり、丁寧に入れないと戸袋に収まりきれなかったり、といろいろ失敗も思い出されます。それでも雨戸を開ければ、縁側を通して庭まで一体となる開放感を味わうことも可能でした。昨今では住宅の造りも大きく変わり雨戸を見る機会も少なくなりましたが、窓と一体化したシャッターなど形を変えて存在しています。
 

徳川家康を慌てさせた雨戸 

 
 江戸時代末期に記された書物に『家屋雑考』があります。著者は会津藩の国学者であった沢田名垂(さわだなたり)で、日本の住宅建築について通史的に記した当時としては画期的な書物です。書院造について触れた中に、徳川家康が京都の織田信長の館に泊まっていた時に雨戸を閉める音を敵襲と勘違いした逸話が記されています。同様の話は、徳川幕府によって編纂された「豊臣秀吉譜」にも記されており、そこでは天正13年(1585)初めの大坂での出来事として記されています。史実に照らし合わせると、信長の死後、秀吉の要請に屈し臣下の礼を示すため、家康が大坂へ赴いた際の出来事を伝えたものと思われます。いずれにしても雨戸の存在が京都や大坂など一部の地域に限られており、家康の居た東海地方には普及していなかったことが分かります。
 
 雨戸の出現は、日本の伝統建築の長い歴史の中では比較的新しい出来事です(注1)。その事実を裏書きする興味深い史料があります。
 

注1
江戸幕府作事方大棟梁であった平内家に伝わる秘伝書『匠明』にも「昔ハ雨戸ハなく候。当世仕候。」とあって、雨戸の出現は『匠明』の成立した慶長期からさほど遡るものではないことが明らかです。

 


聚楽第大広間

 
 日本建築史の研究者であった 大熊喜邦氏によって紹介された史料の中に 「京聚楽」の図があります 〔図1〕。室町時代末期以来の工匠であった岸上家に伝わっていた指図のひとつですが、関白となった豊臣秀吉が京都における宿館として天正14年から造営に着手し翌年に完成した城郭 「聚楽第(じゅらくてい)」の大広間の指図です。
 

図1:「京聚楽」の図
室町時代末期から工匠の家であった岸上家に伝来していた聚楽第大広間の指図。図は南を上にしており、直角に折れた中段から左端の公卿ノ間(くぎょうのま)までの諸室が対面の儀式に使われていました。座敷の周囲には広縁と落縁が廻り、東南には折中門(おれちゅうもん)が張り出しています。落縁と外との境の建具として雨戸が記されています。


 
大広間は聚楽第のもっとも重要な建物で武将たちとの対面の場として使用されていました 〔図2〕。完成の翌年、秀吉に初めて対面した毛利輝元の行状を記した 『輝元公上洛日記』などによって大広間での対面の様子が良く分かり、指図の平面とも良く対応します。図中には各部屋の建具の種別が記されていますが、その中に「雨戸」の名が見られ、雨戸の使用例として最も古い史料とされています。
 

図2:聚楽第大広間の外観復元図
聚楽第大広間を東南から見た姿。大広間は東西方向に棟を持つ入母屋屋根の建物ですが、東南隅には折中門が張り出しており屋根の形は複雑です。軒先に軒唐破風を備えた車寄せが三か所あるなど従来の御殿にはない特徴ある外観です。
(作図:木岡敬雄)


 
 この雨戸は建物の外周にある落縁の柱間に設けられており、一般的な一本溝の敷居と鴨居を使用した引通しの雨戸とは異なる引違の雨戸です (注2)。このため儀式の際には雨戸は取り外されていたと考えられます。同様の納まりが現存する遺構に見出されます。それは宮城県仙台市の 瑞巌寺本堂です 〔図3〕
 

図3:瑞巌寺本堂の雨戸
瑞巌寺本堂内部の広縁と落縁。座敷と広縁の境には舞良戸や唐戸などの建具が存在しますが、それとは別に落縁の先にも雨戸に相当する板戸が建て込まれています。
(作図:木岡敬雄)


 
広縁の先、落縁の柱間に立て込まれ板戸がそれに相当します。瑞巌寺本堂を創建した 伊達政宗は、自身の居城である 仙台城の御殿を造営するにあたって、都から工匠を招き聚楽第を模した大広間を造らせています。そこでも同じように落縁の先に板戸を立て込んでいました。瑞巌寺本堂も同じ工匠達が関わっており、本堂の板戸が聚楽第の雨戸の実態を考えるうえで大いに参考となります。
 

注2
一本溝の敷居と鴨居を用い、戸袋から出し入れする引通しの雨戸が出現するのはもう少し時間を経た慶長年間(1596~1615)頃と見られます。史料上の最初の例は、慶長期の名古屋城本丸御殿の計画図に見られます。現存する二条城二の丸御殿をみると、一筋の敷居鴨居に雨戸と雨戸代わりの障子を同時に納める大きな戸袋が存在しており、寛永年間(1624~1644)には引通しの雨戸が一般化していたことが分かります。


伝統建築の建具

 

図4:建具の変遷
左端が開き戸。中央が蔀戸。右端が舞良戸。
(作図:木岡敬雄)


 
 ここで伝統建築の建具の変遷についてみてみましょう 〔図4〕。古代においては 開き戸が唯一の建具であったと言われています。開き戸は柱と柱の間一杯に開放することができますが、雨や風を防ぐためには閉じるしか方法はありません。当時の建物は一部に格子窓があっても土や板などの壁で囲われており、高床式の建物でも室内は意外に閉鎖的でした。そのかわりとして開放された庇や露台が建物の外に付属していたと言われています。
 
 平安時代になって新たな建具が現れるとこの状況は変わります。 蔀戸(しとみど)内法長押(うちのりなげし)から吊り下げて開閉できる建具で、薄い板の両面を格子で挟み込み周囲に框を廻らしたものから、板と框だけの場合もありました。建物周囲の庇部分に蔀戸を使用することで、屋外へ向けて開放することも、屋内に取り込むことも、自由に行うことができるようになり、室内をより有効に使うことが可能になりました。 屋内の仕切りも、衝立や几帳のような家具から造り付けのものへと、変化していきます。障子は木を組んだ骨の両面に和紙を貼り付けたもので、現在の襖に相当するものですが、衝立状であったものが建て込み式の壁となりさらに十世紀末には引違の障子へと変化したと言われています。
 
 外回りの建具も同様に、引違の 遣戸(やりど)が現れます。遣戸は引違の板戸の総称ですが、その中でも薄い板の両面を細い桟木で挟み込んだ 舞良戸(まいらど)は、鎌倉時代以降あらゆる建物で使用されるようになり、蔀戸にとって代わるようになりました。また障子の中から、薄い紙を片面に貼った採光を目的とした明かり障子も表れます。明かり障子は引違の舞良戸と一緒に用いられ、寒気を遮り且つ採光も得られるなど室内空間をより快適なものへと変化させました。さらに上部は障子で下部は板戸や舞良戸という構成の腰障子も出現し、外回りの建具として普及するようになります。 聚楽第大広間の図を見ると座敷と広縁の境には遣戸や障子など一通りの建具が用いられ、雨戸がなくても建物として問題はありません。それではなぜ広縁や落縁の先に新たな建具である雨戸が必要とされたのでしょうか。その理由を考えるためには少し時間を遡る必要があります。
 

 

室町時代における対面所 

 
 戦国時代より前、室町時代の対面はどのような建物で行われていたのでしょうか。当時の様子がわかる史料は多くはないのですが、8代将軍 足利義政が造営した 東山殿の例を見てみましょう。東山殿は文明十四年(1482)から義政が隠居所として造営した山荘で、義政の死後は寺院( 慈照寺)となり、今日では通称の 銀閣寺の名で知られています。戦国時代に被災し多くの建物が失われてしまいましたが、持仏堂であった東求堂と観音殿(銀閣)は被災を免れ、室町時代の住宅建築の貴重な遺構として現存しています。
 

図5:東山殿会所復元図
会所は幾つもの座敷から構成され、南側中央の広縁に面した九間が主室で対面や仏事の際に主たる会場として使われました。入口に近い西側の座敷は控えの間として、奥の東側の座敷はプライベートな空間として使い分けられています。東側の「石山の間」と「狩の間」には将軍家重代の宝である御物を飾るため床、押板、棚、書院を様々に組み合わせた座敷飾りがみられます。
(復元考証:宮上茂隆 作図:木岡敬雄)


 
〔図5〕は東山殿内にかつてあった会所の復元図です。会所は室町時代に文芸などの寄り合いや対面などのために盛んに造られた建物で、ここ東山殿でも中心となる建物でした。会所の主たる部屋は南の広縁に面した 九間(ここのま)で対面はこの部屋で行われていました。西隣の部屋は対面の際の控えの間として扱われ、押板や床、棚、書院といった座敷飾りをもつ東側の部屋は義政が衣服を調えたり休息したりする部屋で対面の際には使われていません。東山殿は出家した義政の隠居所のため特殊な例ではないかと思われるかもしれませんが、義政が将軍職であった頃の史料からも、将軍邸での対面の儀式は主室と次の間を中心に行われており、大きな空間を必要としていません。当時の対面は一人ないし少人数で行われるのを通例とし大勢の家臣を一堂に集めて広い部屋で対面を行うようなことはなかったのです。
 

 

秀吉の大坂城本丸御殿

 

図6:大坂城本丸御殿対面所復元図
宮上茂隆の復元図を基に描いた透視図。聚楽第大広間の指図「図1」と比較すると間取りは単純で、多くの家臣を参集させることを重視した造りになっています。対面所の西には遠侍も併設され武家社会の頂点を極めた秀吉の立場が伺えます。これに対し聚楽第大広間は公家社会の頂点に立つ立場から伝統的な要素も取り入れた造りになっています。いずれにせよ秀吉の大坂城と聚楽第のふたつの建物が中世から近世への分岐点を表していることは間違いありません。
(作図:木岡敬雄)


 
 これに対して戦国時代を経た秀吉の時代に入ると様相は一変します。 〔図6〕は、聚楽第大広間に先立って天正13年(1585)に完成した大坂城表御殿の対面所の復元図です。後に徳川家の御大工となる中井家に伝わる指図の中に、秀吉創建当初の大坂城本丸の指図が含まれており、当時の御殿の様子が良く分かります。
 
 大坂城本丸は秀吉と正室である 寧(ねい)の住まいである 奥御殿と政務を執り行う 表御殿に分かれ多くの建物が建ち並んでいましたが、対面所は表御殿の主殿にあたる建物でした。南側の東西に並ぶ三つの座敷が対面座敷で、さらにその周囲を巾一間から一間半もある広縁が廻っていました。義政の東山殿会所と比較すると、床面積は3倍以上もあり、御殿の規模が格段に大きくなったことが分かります。個々の部屋の広さもそうですが広縁が座敷の周囲を取り巻いていることも大きな違いです。 幸いなことに九州の戦国大名やイエズス会の宣教師と対面した際の記録が残されており、この巨大な御殿がどの様に使われていたかその一端を伺う事ができます。大坂城での対面儀式は南側の三つの座敷の間仕切りを取り払い一室扱いとして、そこに複数の大名が列席した中で行われていました。大名たちの座る席は身分に応じて定められており、秀吉の座る東端の座敷を頂点として豊臣政権内での序列を視覚的に示す舞台ともなっていました。そこでは広縁までもが座敷間の移動の際だけでなく控えの間としても使われており、対面座敷の一部として利用されていた様子が伺えます。
 
 指図には記されていませんが、大坂城対面所の外回りに雨戸が使用されていたことは間違いありません。
 

 

雨戸が語る新たな時代の到来

 
 外回りの建具は雨や風など自然の脅威に対し建物内部を守る重要な役割があります。その一方で居住の快適性のため開放しやすさや採光など相反する要素も求められます。建具の変遷を見ると蔀戸から遣戸と明かり障子へそして腰障子へとより開放的で使い勝手の良いものへと変化しており、建具のもうひとつの役割である雨や風から建物内部を守るために新たな建具が求められたのはある意味で必然でしょう。しかし、その時期が社会的に大きな変貌を遂げた天正時代と重なることは、ただ単に雨仕舞や戸締りの改善という理由だけでは説明できません。
 
 戦国時代を経た秀吉の時代には室町時代とは異なり対面儀式もまたその会場となる対面所のあり様も大きく変化しました。多人数を参集させる儀式へと変化した結果より大きな空間を確保するため、従来は建物の外に位置していた広縁や落縁までも屋内に取り込む仕掛けとして雨戸が導入されたのでしょう。
 
 雨戸は開放的な日本の伝統建築の形成に大きな役割を果たしただけでなく、中世から近世へと武家社会の変化を物語る建具でもあるのです。
 


(きおか・たかお)1957年東京生まれ。1982年武蔵野美術大学造形学部建築学科卒業。同年、宮上茂隆の主宰する竹林舎建築研究所に入所。1998年竹林舎建築研究所代表に就任。日本建築の復元と設計に当たる。主な仕事に、掛川城天守復元、大洲城天守復元、建長寺客殿得月楼設計、岐阜市歴史博物館「岐阜城復元模型」監修、東映配給映画「火天の城」建築検証、NHK大河ドラマ「真田丸」大坂城CG監修。主な受賞に、大洲城天守復元で「第1回ものづくり日本大賞内閣総理大臣賞」「日本建築学会賞(業績部門)」など。