連載

木岡敬雄の

雨が育てた日本建築


 日本の伝統建築に見る「雨のみち」。第6回のテーマは、能舞台とそこで演ぜられる狂言を取り上げます。日本における能舞台の誕生と成り立ち、そして、雨樋が登場する狂言「樋の酒」を通して、当時の人々と雨樋との関係を紐解いていきます。

テキスト・図:木岡敬雄 (2020.04.12)

VOL.6 能舞台の変遷と狂言「樋の酒」

 日本の伝統芸能のひとつに能と狂言があります。現在は、「能」と「狂言」を総称して「能楽」と呼んでいますが、今から700年前の室町時代前期に、その基礎を完成させ現在に伝わる芸能として高く評価され、世界無形遺産にも登録されています。
 

図1 能舞台の構造
能舞台は三間四方の舞台、舞台右手に取付く地謡座、舞台後方の後座、後座から左後方の鏡の間へ延びる橋掛りが主な構成要素です。橋掛りは単なる通路ではなく舞台の一部として使われ演技上重要な役割を果たします。(作図:木岡敬雄)


 そんな能楽が催される 能楽堂へ入ってまず驚くのは、客席に突き出した屋根のある舞台と、左斜め後方に取り付く廊下状の橋掛りの存在です。そこには、舞台と客席を隔てる額縁状の仕切りも幕もありません。観客席も舞台に正対する正面だけでなく側面にもあって左右非対称です (図1)。同様に長い歴史をもつ伝統芸能である歌舞伎の劇場と比べてもその相違は顕著です。能舞台はどのような変遷を経て、今日見る姿に成ったのでしょうか。
 

室町時代の能舞台

 
 能楽も専用の舞台が、最初からあった訳ではありません。はじめは直接地面の上や板や筵などを敷いた舞台で演じられていました。室町時代初めの南北朝の頃になると、多くの観衆が集まる催物として、それに相応しい舞台と見物のための桟敷が造られていたことが当時の記録から伺えます。具体的な姿が明らかになるのは、寛正五年(1464)に京都の鴨川の糺河原(ただすのかわら)で行われた勧進能の例です(図2)
 

図2 糺河原勧進能の図 (『寛正五年糺河原勧進猿楽図』観世文庫蔵より)

 中央の四角い部分が 舞台で、そこから後方の楽屋まで延びる線が 橋掛りを示しています。周囲の丸く描かれている線は見物に訪れた将軍や守護大名などが居並ぶ 桟敷席を表し、舞台と桟敷に挟まれた部分が 「芝居」とも呼ばれ一般の人々の見物席に充てられていました。舞台は四方吹き放しで、笛や鼓を演奏する囃子方や地謡の座る席も舞台周囲に一段低く設けられていました。
 

図3 糺河原勧進能の舞台と桟敷の復元図
桟敷席は皆二階建てで内径は約32mになります。舞台正面が将軍と夫人の桟敷で屋根は杉皮で葺かれていました。その左右の桟敷は貴族や寺院の僧侶の桟敷でそれ以外は有力守護大名たちの桟敷です。(作図:木岡敬雄)


 舞台と楽屋とそれらをつなぐ 橋掛りという能舞台の基本構成がすでにでき上がっていたことが分かりますが、舞台を取り囲むように見物席があることや、舞台の後方に橋掛りが取り付くなど今日とは異なる点も見られます (図3)
 

図4 三好義長邸の図 (『新校群書類従』より)


 能楽を愛好した武士の館の能舞台は、どのようなものであったのでしょう。その様子が分かる史料として室町時代末期の永禄四年( 1561)に将軍の御成があった 三好義興(みよしよしおき) の図があります (図4)。御殿の前庭に設けられた能舞台と、斜め後方に取り付く橋掛りが描かれていますが、よく見ると橋掛りは舞台に直接取り付き、囃子方の座る後座や地謡の座る地謡座もありません。また、主たる見物席となる見所の位置も、舞台正面の 御殿だけでなく 厩侍が充てられており、今日の脇正面とは逆の側が見所になっています。
 
 このように室町時代を通して能舞台が形作られていく過程が伺えますが、当時の能舞台は基本的に仮設で舞台が設営される場の条件に合わせて造られており、定形化されたものではありませんでした (注1)
 

注1:寺社の境内や武士の館の庭など屋外に仮設された能舞台の他に屋内で能楽が行われる場合もありました。その際は御殿内の畳を一部取り外すなどして板敷を舞台に見立てて行われました。

 



安土桃山時代の能舞台

図5 西本願寺北能舞台
西本願寺の書院北庭にある能舞台。書院には南庭にも南能舞台があり、さらに座敷の一部も畳を外して演能が可能なように造られています。多くの能舞台の存在は戦国時代から近世にかけて能楽が盛んであった本願寺の歴史を物語ります。(作図:木岡敬雄)


 現存する能舞台で最古のものと言われるのが 西本願寺の北能舞台です (図5)。本願寺の政務に関わった下間(しもつま)家が元和年間( 161524)寄進した能舞台で、建物の一部に天正九年( 1581)の墨書があり創建はその時と言われています。一見すると現在の能舞台と変わるところはなく、天正中ごろには能舞台が完成された様にも見受けられますが、今見る姿はその後の改修を経た結果ではないかと考えられます。それと言うのも天正十年に 下間仲孝が記した能舞台の図では、先ほどの三好邸と同じく橋掛りが舞台後方に直接取り付き後座も地謡座もありません。同じ仲孝が慶長元年( 1596)に描いた能舞台の図には橋掛りが取り付く 後座が描かれており、この十数年ほどの間に大きな変化が生じたと考えられるからです。この転機に大きな役割を果たしたのが天下人となった 豊臣秀吉です。
 
 秀吉が茶の湯と共に能に夢中であったことはよく知られていることです。宮中において能を披露したり、 明智光秀などを討ち滅ぼした合戦や、母親に対する親孝行を主題としたいわゆる 「太閤能」を作らせ、自身で演ずるなどその傾倒ぶりは尋常ではありません。しかし、秀吉が能に夢中になるのは比較的遅く文禄二年(1593)以降のことです。
 

図6 禁中能の図 (天野文雄著『能に憑かれた権力者』より)


 文禄元年からはじめた朝鮮出兵も行き詰まり、拠点として築いた 肥前名護屋城で無為に過ごしていた秀吉は、年頭の挨拶に訪れた者から能の手ほどきを受け、それ以降、能に熱中するようになります。初めは城内の 山里曲輪で身内のものを相手に始めた能も、二か月も経たぬうちに本丸に能舞台を構えて演ずるまでになりました。これに気を良くした秀吉は京都へ戻ると、早速、宮中での演能を企画します。その時の能舞台の図と言われるものが残されています (図6)紫宸殿の前庭に能舞台と楽屋が造られ、天皇や公家たちは紫宸殿から見物しました。ここに見る能舞台の大きさは 16尺( 4.8m)四方とやや小ぶりの能舞台ですが、舞台後方に幅 9尺( 2.7m)の地謡座を兼ねた後座があって橋掛りはここから楽屋へ延びています。舞台後方を塞ぐ鏡板の存在は図からは不明ですが、この頃ようやく現在の能舞台に近づいたものが、つくられはじめた事が分かります。
 
 秀吉の宮中での演能は能楽の歴史においても大きな転機となりました。それまで能楽を専門に演じていた猿楽座の役者が、宮中で能を演ずることはありませんでした。しかし、その伝統を覆した宮中での演能はその後の能楽の地位を大きく上げる契機ともなりました (注2)。さらに秀吉は能役者に禄を与えて召し抱え、経済的に援助する代わりに自身の居城である大坂城に詰めさせるなど、それまで寺社に属して活動していた能役者たちの生活を根本的に変える政策を実行に移しました。
 
 その後それまで能舞台のなかった 大坂城本丸でも常設の能舞台が整備されたことが記録からも伺えます。本丸の能舞台については史料が乏しく詳しいことは不明ですが、 宣教師ルイス・フロイスの記した報告書に面白い記事があります。そこでは 「千畳敷」と称される新しい御殿と共に、その建物の前の広場に黄金や漆で仕上げた能舞台を造らせたことが記されています。舞台の床面まで漆塗りであった点などはにわかに信じられませんが、今日一般的な白木の能舞台とは異なる華麗な造りの能舞台であったことは確かでしょう。
 

注2:それまで天皇の行幸においても、公の行事として能楽が催されることはありませんでした。秀吉が能に夢中になる前の天正十六年(1588)の聚楽第行幸の際も同様に能楽は行われていません。それが寛永三年(1626)の後水尾天皇の二条城行幸の際は大広間の前に能舞台が設けられ能楽が演ぜられました。

 


江戸時代の能舞台

 
 秀吉の死後、関ケ原の合戦に勝利して新たな天下人となった 徳川家康は、能楽をただ個人的な趣味としてではなく徳川幕府の儀式に用いる公式な芸能となる式楽に位置づけようとしました。慶長八年( 1603)に家康は征夷大将軍の宣下を受けここに徳川幕府が始まりますが、宣下式に合わせて宿所であった二条城で三日間に亘り能楽を催しています。これ以降、将軍宣下式に伴う能楽は徳川幕府にとって欠かせぬ存在となります。また秀吉の政策を引き継いで特定の能役者たちを召し抱え居城に詰めさせました。こうして能楽が式楽となるに伴い能楽の中身もそれに相応しいものへと変化していきます。演技もかつての秀吉のように短期間に習得出来るものからより高度な演技を必要とするものに変わり、演ずる時間も3、4割ほど長くなったと言われています。

図7 当代広間ノ図の能舞台 (『匠明』殿屋集より)


 当時の能舞台の実態を物語る史料として慶長十三年( 1608) 頃に纏められたと言われる大工の木割書の 『匠明』があります。 「殿屋集」の舞台に関する記述と 「当代広間ノ図」からその姿が伺えます (図7)。能舞台は三間(約 6m)四方で幅九尺の後座が設けられそこに長さ五間(約 10m)または七間(約 14m)で幅七尺( 2.1m)の橋掛りが掛かっています。『匠明』の能舞台は特定の能舞台を記したものではありませんが、大名の屋敷の典型例として常設の能舞台が必須の存在であったことを伝えている点で貴重です。ただし図からも地謡座が無かったことは明らかで、地謡座が設けられる様になるのはこれ以降と考えられます。
 

図8 江戸城本丸能舞台 (『温故 東能図』都立中央図書館蔵より)
絵は明治時代になってから描かれたものですが、畏まっている武士たちと比べ自由奔放な町人たちの姿が描かれ、武士にとって式楽であった能楽も町人たちには純粋に娯楽であった実態がよく示されています。


 幕府の拠点として築かれた江戸城本丸には式学となった能楽に相応しい常設の能舞台が造られました (注3)。寛永十七年 (1640)に完成した江戸城本丸の指図を見ると、本丸大広間の前庭に後座と地謡座を備えた完成された能舞台の姿が見られます。将軍や大名たちの見所は大広間が充てられ、 町入能(注4)では舞台脇の白州が町人たちの見所に充てられていました (図8)。江戸城本丸御殿は江戸時代を通して何回も焼失していますが、能舞台はその都度再建されています。江戸城本丸の能舞台はあらゆる能舞台の規範となるものとして位置づけられていたことは間違いないでしょう。
 

注3:江戸城本丸には表舞台と奥舞台がありました。表舞台では将軍宣下祝賀能など公の行事に用いられ、奥舞台は将軍の私的な能舞台として使い分けられていました。能楽への接し方は将軍によって異なっていましたが、五代将軍綱吉などは能に夢中で、この頃の江戸城本丸を描いた絵図の中には奥舞台が二つも描かれたものがあります。
注4:江戸の町人たちにとって式楽とされた能楽を見る機会は限られたものでしたが、将軍宣下祝いなど特別な演能に際し町ごとに限られた人数でしたが、本丸大広間前の白州にて能を見ることが出来ました。登城した町人たちには不意の雨に備えて傘が配られたほか帰りには酒や菓子だけでなく金銭も配られたようです。

 


狂言「樋の酒」の台本にみる雨樋の普及

 
 能と対になって演ぜられる狂言は、中世から近世にかけて人々の営みや思考が滑稽な話の中に表現されており、当時の世相を知る手がかりを与えてくれる貴重な存在でもあります。その中に雨樋が登場する話があります。それが狂言「樋の酒」です。
 
 あらすじは、留守の間に宴会を催して酒を盗み飲みする二人の従者に手を焼いた主人が、一計を案じて別々の蔵へ両人を閉じ込めて出かけていくのですが、目論見に反して蔵の軒先にある雨樋を利用して酒を飲み交わし、酔いつぶれたところを主人に見つかり追い回される話です。狂言の流派によって演出が異なりますが、雨樋に見立てた竹筒を使って酒を呑み交わし宴に興ずる様子を面白おかしく演ずるところが見どころの一つです。
 
 現行の内容は以上の様なものですが、狂言の台本をいくつか見ていくと面白い相違が見られます。江戸時代も後半の寛政四年(1792)成立の大蔵流の『大蔵虎寛本能狂言』では現行の内容とほぼ同じですが、『狂言記』に収められている「狂言記拾遺」では番を言い付けられるのは蔵ではなく、屋敷内の異なる座敷で塀越しに水を引く筧(かけひ)を用いて酒を飲みかわす内容になっています。『狂言記』は畿内を中心とした幕府に召し抱えられなかった狂言役者達の間に伝えられた台本といわれています。「狂言記拾遺」の出版は江戸時代の中頃享保十五年(1730)ですが、その内容はより古い時代の形を伝えている可能性があります。
 
 狂言も当初は簡単なあらすじがあるだけで、台詞や演技は役者の即興に任されていたとされています。幕府の式楽とされる過程で台本化が求められ台詞や演技が固定化されていったと言われています。台本の中で筧が雨樋にとって代わる様は、雨樋の存在が人々にとって当たり前のものと認識されるようになった結果を示しています。日本の伝統建築の歴史において、雨樋の存在が一般的になるのは江戸時代になってからと言われていますが、狂言「樋の酒」はその時期を考える上でひとつの指標となるのではないでしょうか。 
 


(きおか・たかお)1957年東京生まれ。1982年武蔵野美術大学造形学部建築学科卒業。同年、宮上茂隆の主宰する竹林舎建築研究所に入所。1998年竹林舎建築研究所代表に就任。日本建築の復元と設計に当たる。主な仕事に、掛川城天守復元、大洲城天守復元、建長寺客殿得月楼設計、岐阜市歴史博物館「岐阜城復元模型」監修、東映配給映画「火天の城」建築検証、NHK大河ドラマ「真田丸」大坂城CG監修。主な受賞に、大洲城天守復元で「第1回ものづくり日本大賞内閣総理大臣賞」「日本建築学会賞(業績部門)」など。