連載
木岡敬雄の
雨が育てた日本建築
VOL.11 高台寺の傘亭と時雨亭
はじめに
四季を通して雨に恵まれた日本では雨を表す言葉も豊富で季節の移ろいや雨の降り方の違いに合わせて様々な呼び名が使われています。今回は雨に由来する呼び名を持つ建物を取り上げたいと思います。それが京都の高台寺にあるふたつの建物です。
高台寺
京都東山、四条通りの突き当りにあたる八坂神社奥の円山公園から少し南へ下ったところに 高台寺があります。 豊臣秀吉の夫人であった ねねが秀吉の死後出家し、亡き夫の菩提を弔うために慶長11年( 1606)に創建された寺院です。寺の正式名は 「鷲峰山高台寿聖禅寺」といいますが、ねねの法号である 「高台院」にちなんだ 「高台寺」の名で親しまれています。
江戸時代を通して幾度か火災にあい、仏殿や大方丈など伽藍中心部は失われてしまいましたが、現在も東山を背景にした庭園部分を中心にして池に映る亭橋や開山堂、竜の背中を思わせる長い廊下の先の霊屋(おたまや)が残されており由緒ある佇まいに包まれています。東南の飛び地には寺の総門であった巨大な藥医門が現存し、かつての広大な寺院の姿を忍ばせています。秀吉とねねが祀られている霊屋の仏壇と厨子は、黒漆塗りの上に金蒔絵で菊や萩などの秋草が繊細に描かれた高台寺蒔絵として知られ、桃山時代の美術工芸の優れた作品としても有名です。その霊屋のある高台からもう少し山を登った先に二棟の茅葺屋根の建物があります。それが傘亭と時雨亭です(図1)。
図1:高台寺傘亭と時雨亭
高台寺境内の東側、山を少し登った先に傘亭と時雨亭が建っています。左側の茅葺方形屋根の建物が傘亭で右側の2階建ての入母屋屋根の建物が時雨亭です。両者の間は杉皮葺きの土間廊下で結ばれその突き当りには時雨亭の2階へ上る階段が設けられています。周囲にはモミジの樹が多く植えられており秋には見事な紅葉がみられます。(作画:木岡敬雄)
傘亭と時雨亭
傘亭は2間四方の茅葺屋根の建物です。内部は8畳の広さがありますが、北西隅には広さ1畳の畳敷きの上段があり、その南隣りは広さ1畳の土間になっていて内開きの突上げ戸と引戸を組み合わせた珍しい戸が出入口になっています。残りの矩折(かねお)りの6畳部分は竹と板を交互に張った床でしたが、現在は全面畳敷きになっています。柱は栗の丸太や杉の皮付き材で壁はほとんどなく内側に明障子を入れた連子窓が周囲を廻っています。上段の背後だけは他と異なり一本の太い丸竹を横格子として渡した肘掛窓です。傘亭の南西隅には杉皮葺きの下屋があって内部には囲炉裏や竈土(くど)があり茶や料理を提供できるように造られています(図2)。
図2:傘亭と時雨亭の平面図
傘亭と時雨亭2階平面を示した図です。傘亭には上段や入口の土間がありさらに西南隅には板敷の下屋が付属していますが間仕切りは無く内部は一体感があります。建物の入り口は西側の土間以外にもが時雨亭に面した南側にも引戸があり下屋へは別に潜戸もあります。時雨亭2階は主に西側の上段と東側の板の間に二分されていますが内部に間仕切りは無く開放的な造りが特徴です。両者を結ぶ土間廊下も柱だけの開放的な造りです。土間には正方形や矩形の切石と自然石を組み合わせた敷石が並んでいますが江戸時代の時雨亭の起絵図では自然石の敷石が描かれており当初から現在の通りであったかどうかは不明です。(作図:木岡敬雄)
傘亭の見どころは何と言っても屋根裏の意匠でしょう。柱の上部に南北方向に櫟(くぬぎ)の皮付きの梁を渡しその中央に束を立て方形(ほうぎょう)の屋根を支えています。束には「安閑窟」(注1)と記された額が架けられ江戸時代前期に傘亭はこの名前で呼ばれていましたが、太い丸竹と細い竹の垂木を交互に放射状に配した姿が和傘の骨の様に見えることからやがて傘亭と呼ばれるようになりました(図3)。
一方、時雨亭は2間半に1間半の広さの2階建ての建物で2階へは屋外の幅半間の階段を使って入るようになっています。屋根は入母屋の茅葺屋根です。1階は階段脇の幅半間の板戸が入口で内部は4畳半大の土間と3畳大の板の間とに分かれ東奥の壁際には竈土が2口設けられています。2階内部は3畳大の板の間と3畳大の上段からなり東端の1畳半は南北に分かれ床と竈土が設けられています(図2)。上段の三方は外部を突上げ戸とした肘掛窓で開け放たれた窓からは西方に広がる京都の街並みが見渡せる眺望に優れた造りです(図4)。傘亭と同じく天井は無く南北に渡した赤松の丸太梁上に束を立て東西方向の棟木を受け、丸太と丸竹の垂木を交互に打ち付けた化粧屋根裏です。このふたつの建物の間には桁行4間、巾1間の杉皮葺きの土間廊下があります。
傘亭も時雨亭も戦前の風水害によって損壊し、修理工事に際し行われた調査によって創建時期が推定されています。簡素な建物にも関わらず、傘亭は高台寺創建以前の16世紀末まで遡ると指摘されています。当初は窓や壁もない柱だけの四阿(あずまや)といった趣の建物であったとされています。一方、時雨亭は傘亭より少し遅れて造られ、納涼や眺望を楽しむ涼台のような建物であったと考えられています。江戸時代初期に高台寺を訪れた僧侶の記録を見ると傘亭には竈土の存在が確認でき現在と同様の建物であったと見られますが時雨亭は現在より高い位置に建てられていたようで、その後に傘亭と相対する位置に移され傘亭の名に合わせて時雨亭と呼ばれるようになったと考えられています。
注1:傘亭は江戸時代初期には「安閑窟」の名で呼ばれ時雨亭は亭と記されるのみで固有の名称は無かったようです。「安閑窟」はもともと高台寺の周辺を含めた景勝の地を選んだ「高台寺十境」のひとつで寺内にあった岩窟を指す名称でしたが、傘亭内に「安閑窟」の額を架けるようになってからは傘亭の名称として使われるようになりました。
図3:傘亭の内部
傘亭内部の化粧屋根裏を見上げたところで放射状に太い竹と細い竹の垂木を交互に配しその上に細い竹小舞を藤蔓で掻いた見事な化粧屋根裏の姿が傘亭という名称のもととなったことがよく分かります。「安閑窟」の額は時雨亭側の南向きに掛けられていますが江戸時代は正式な入り口である土間側の西向きに掛けられていました。四方の壁には格子窓が廻り開口部の多い開放的な造りであることが分かります。(作画:木岡敬雄)
図4:時雨亭2階
時雨亭2階内部の上段側を見たところです。外観の入母屋屋根と異なり内部の化粧屋根裏は寄棟状に造られています。上段の周囲は肘掛窓で周囲の眺望を楽しむ目的に造られていることがよく分かります。現在は樹木が繁茂してあまり見えませんがかつては京都の街並みが一望のもとに見えたことでしょう。絵では床板上に筵が敷かれていますが江戸時代初期の記録では建物を使う際に毛氈を敷いていたようです。(作画:木岡敬雄)
山里の変遷
傘亭と時雨亭はともに秀吉の伏見城から移築された茶室と言われ、その際よく取り上げられるのが城内にあった「学問所」です(注2)。「学問所」は伏見城の南東の丘陵上にあった茶の湯のための建物群で竈土を備えた茶屋や周囲に四つの茶室を付属した二階建て高堂からなり辺りは松や杉の林に囲われ山里を思わす環境でした。
山里という言葉は平安時代の『古今和歌集』などを見ると都に対する鄙(ひな)の意味から物寂しいところで否定的意味合いの方が強く感じられます。山林幽居への憧れは中国の老荘思想の影響から奈良時代まで遡ることが出来ますが山中に隠遁することは知識としては知られていても実際に職を辞して都を離れ山へ分け入ることはよほどの理由がなければ見られませんでした(図5)。
この状況も、平安時代末期に仏教の末法思想の影響により憂世を離れる手段として山中に庵を結び隠れ住む隠遁が理想とされたことにより、大きく変わります。もっとも隠遁の地は人跡未踏の深山よりは都から適度に距離を置いた地に庵を結ぶ例が多かったようで、山間でも集落に近い山里が恰好の地とされ山里に対する認識も変化しました。鎌倉時代初期に成立した『新古今和歌集』をみると山里を肯定的に捉えるように変わってきたことが分かります。身分制度が厳しかった当時、隠遁によって世俗を捨てることにより逆に色々な階層の人々と交流を持てる意義は大きく鴨長明や西行や吉田兼好などの隠遁者が日本文化に与えた影響は決して小さくありません。
しかし室町時代以降、公家や寺家の衰退と武家の専横そして町人など新たな階層の人々の台頭によって隠遁に対する考え方にも変化がみられます。室町時代後半には公家の邸宅内に「山里庵」と称する庵が設けられ、山に居ても心が晴れぬ時には都の松の下の庵が隠れ家に相応しい、と詠った和歌が残されており、かつてとは逆に市中に隠れ住むことに意味を見出している点に時代の変化を感じます。同じ頃、京都の町人の中にも住まいに茶屋を造り、訪ねてきた公家の日記にはその茶屋が山に居るような佇まいで市中の隠そのものであると評価しています(注3)。かつて隠遁は世を捨てることを前提にしていましたがここでは一時的に実生活の煩わしさから離れ趣味などを通して自由な境地に得る手段として位置づけられています。それまで隠遁の地としてあこがれていた山里も山を離れて、都の中に見いだされるように変化したことがこれらの例から伺えます。
秀吉の山里
市中の隠ならぬ城中の隠として山里を積極的に取り入れたのがほかならぬ豊臣秀吉です。秀吉はまだ天下人でない姫路城主の時代から山里を城内に設けていました。姫路城の本丸にあたる備前丸の南下にある曲輪が山里丸と呼ばれ一帯の石垣は城内でも最も古い時期の石垣です。秀吉は信長の死後、天正11年(1583)末に大坂城築城にあたってまだ本丸御殿さえ出来上がっていない段階で山里を整備しそこに設けた茶室で茶会を行っています。大坂城以降、京都の聚楽第、九州の肥前名護屋城、そして京都の伏見城と築城に合わせ城内に山里を設けています。山里は城の防御に直接役に立つものではありませんが、秀吉にとって山里は趣味の世界を楽しむ一方で諸大名をもてなし統制する重要な場所として存在していました。
傘亭や時雨亭に見える茅葺の詫びた姿は山里に相応しい建物と言えるでしょう。現存する高台寺の開山堂や霊屋の調査からは寺の創建以前の古い部材が転用されていることが明らかにされ、寺伝にある秀吉とねねが生前に愛用した乗り物などの部材が転用された可能性も大いにあります。秀吉が伏見城に限らず趣向を凝らした茶室や茶屋などを様々な機会に造り山里の風情を楽しんでいた事実を考えると傘亭と時雨亭が秀吉とねねに何らかのゆかりある建物として移築されたと考えてもおかしくはないのでしょう。
図5 山水(せんずい)屏風に描かれた庵
京都の東寺に伝わり現在は京都国立博物館に所蔵されている「山水屏風」の一部分。屏風は六曲一双で幅2.56メートル高さ1.47メートルの大きさで平安時代の数少ない屏風絵のひとつとして有名です。画面中央の樹々の下に丸太や竹で造られ屋根を草で葺いた庵の姿が描かれています。庵の前の土間には敷物上に座して詩作に耽る隠者の姿が描かれており、中国は唐時代の詩人白楽天を描いたと言われています。白楽天は『白氏文集』(白楽天の詩文集)などを通じて平安時代以降、日本文化に大きな影響を与えた詩人です。白楽天は晩年に江西省の廬山の麓に隠遁し住まいとして草堂を営み、その草堂について記した「草堂記」は隠者の住まいの理想のひとつとされました。(作画:木岡敬雄)
注2:伏見城は豊臣秀吉が天正20年(1592)から築城に取り掛かった城で、慶長元年(1596)の京都大地震で大きな被害を受けた後、背後の木幡山に再度築城された城です。「学問所」は二度目の築城に際し城の東南の舟入の入江の背後にある丘陵を中心に造られた山里で眼下に京都の南にかつてあった広大な巨椋池と宇治川の流れを見下ろす景勝の地でした。伏見城は秀吉の死後、関ケ原の合戦の前哨戦で落城炎上し、城の中心部分であった本丸や二の丸などの建物群は焼失してしましたが、学問所のあった一帯は類焼を免れたと見られ、学問所に対峙した丘陵上にあった三重塔は、合戦の後に滋賀県大津市の園城寺に移築され現存しています。
注3:茶屋を造った村田宗珠(そうしゅ)は侘び茶の始祖と見なされる村田珠光(じゅこう)の跡継ぎと言われています。当時の記録からは「数寄の上手」とか「数寄の張本」と見なされ京都の町衆たちの間で下京茶湯と称して四畳半や六畳の座敷で盛んに開かれた茶の湯の中心人物のひとりでした。茶屋の具体的な姿は不明ですが宗珠の住まいである「午松庵」には大きな松や杉がありそこに建つ茶屋は山中にあるが如き姿で隠者の庵を彷彿とさせる建物であったのでしょう。後の時代の草庵茶室の成立に農家など民家の影響がよく指摘されますが、山里の存在を通して見ると隠者の草庵の存在も大きな影響を与えていたことが伺えます。
(きおか・たかお)1957年東京生まれ。1982年武蔵野美術大学造形学部建築学科卒業。同年、宮上茂隆の主宰する竹林舎建築研究所に入所。1998年竹林舎建築研究所代表に就任。日本建築の復元と設計に当たる。主な仕事に、掛川城天守復元、大洲城天守復元、建長寺客殿得月楼設計、岐阜市歴史博物館「岐阜城復元模型」監修、東映配給映画「火天の城」建築検証、NHK大河ドラマ「真田丸」大坂城CG監修。主な受賞に、大洲城天守復元で「第1回ものづくり日本大賞内閣総理大臣賞」「日本建築学会賞(業績部門)」など。