連載

木岡敬雄の

雨が育てた日本建築

(2023.3.10)

VOL.12 合掌造りの成立とその背景


はじめに

 雨に恵まれた日本では建物を雨から守る屋根の果たす役割は昔から重要です。屋根を葺く素材は草木に属するものから瓦や金属板の様な人工的に作られたものまで多くの種類がありますが、その中でも最も普遍的な屋根材として茅などの草葺き屋根が上げられます。今回はその様な屋根のひとつとして合掌造りの屋根を取りあげたいと思います。
 


白川郷と五箇山の合掌造り集落

 北陸の名峰白山の東、飛騨山地を縫うように流れる庄川流域は急峻な地形と冬の豪雪など厳しい気候から人々の往来も困難な秘境ともみられていますが、その様な庄川流域の谷間にも人々の営みがありその住まいとして造られていたのが合掌造りです。茅葺屋根の集落の中でも急勾配の切妻屋根の民家が作り出す景観は他の地域では見られない独特なものです(図1)。平成7年( 1995)には周囲の自然環境と歴史的景観が残された貴重な集落として、またそれらを保存し継承してきた人々の活動が評価され、白川郷にあたる岐阜県白川村の荻町集落と五箇山の地であった富山県南砺市の 相倉集落菅沼集落が世界遺産に登録されています。
 

図1:白川郷荻町集落
戦国時代の城跡から見下ろした荻町の集落。同じ合掌造りながら白川郷の荻町集落は主たる道に沿って合掌造りの特徴である急勾配の切妻屋根が並ぶ姿は壮観です。 (作画:木岡敬雄)


 

白川郷と五箇山の歴史

 白川郷と五箇山は古代から飛騨国と越中国に分かれていましたが、庄川を通して国は異なっていても互いに影響しあう関係でした。山深いこの地域も歴史の大きなうねりと無縁ではありません。古くは平家の落人伝説もありますが、鎌倉時代以降は念仏を唱えれば救われると説く浄土真宗が広まり多くの信者がいました。白川郷の中野には照蓮寺(注1)が、五箇山では庄川を下った先の砺波に瑞泉寺など拠点となる寺院があり、さらに集落には小さなお堂や民家の一部を活用した道場が設けられ人々の信仰の拠り所となっていました。戦国時代に本願寺を中心とした浄土真宗の門徒らによって加賀や越中で度々一揆が起こり、長享2年(1488)には守護大名を滅ぼし加賀国が百姓持ちの国となってからは五箇山と白川郷を通る道は加賀と本願寺の本拠である畿内とを結ぶ回廊として重視されました。織田信長本願寺との合戦においても白川郷の門徒へ派兵の要請が届いておりその影響はこの地にまで及んでいたのです。信長から豊臣秀吉へと戦国の覇者が変わる過程で天正13年(1585)に飛騨国の白川郷は越前国から攻め上がった金森家の支配下に越中国の五箇山は前田家の支配下となり江戸時代を迎えます。五箇山の地は明治維新まで前田家の支配下にありましたが白川郷は元禄5年(1692)に金森家に代わり徳川幕府の直轄領となりました。
 

注1:照蓮寺は現在、御母衣ダムの湖底に沈んでしまった荘川村中野の集落にあった浄土真宗の寺院で戦国時代には多くの末寺を抱えた白川郷における中心的寺院でした。天正15年(1587)には飛騨高山に寺地を与えられて移転し現在は東本願寺派高山別院として知られています。中野の地は寺として永正元年(1504)頃に創建された本堂が残されていましたがダムの建設に伴い高山市城山公園に移築されています。本堂は正面7間に奥行き9間もある建物で白川郷における浄土真宗の繁栄を物語る存在です。唯一残る中世浄土真宗の本堂の遺構として国の重要文化財に指定されています。

 

合掌造りの特徴

 合掌造りの合掌とは屋根の棟木を支える斜材のことで 扠首(さす)とも呼ばれています。日本の民家では傾斜した屋根を形作る棟木を支えるために大きくふたつの方法が見られます。図2-1は柱や棟束など垂直の部材で直接棟木を支える構造ですが、これとは異なる支持の仕方として図2-2のように斜めの合掌で棟木を支える方法があります。茅葺屋根は板葺きや瓦葺の屋根と異なり雨仕舞のため屋根の勾配を急にする必要があり古くは長い柱や梁上に棟束を立てて棟木を支えていましたが、やがて合掌を用いて棟木を支える方法に置き換わっていったと言われています。多くの茅葺屋根の民家は合掌を用いていますが、白川郷や五箇山の民家を敢えて合掌造りと称するのは他の地域の茅葺屋根に見られない特徴にあります。
 

図2 茅葺屋根の小屋組み
図2-1は京都の美山町にある石田家住宅の例で上屋梁上に立てられた棟束で棟木を支え、そこから軸部の桁に向けて垂木を架け屋根を形作っています。この様に柱や棟束で直接棟木を支持する方法は茅葺屋根の古い形式の小屋組みとして知られています。これに対し図2-2はかつて白川村御母衣の集落にあった大戸家住宅で合掌(扠首)によって棟木を支える構造です。合掌を使った小屋組みは小屋内に遮るもののないより新しい構造と言われています。(作図:木岡敬雄)


 
 世界遺産登録に当たり合掌造りは 「小屋内を積極的に利用するため扠首構造の切妻造り屋根とした茅葺の家屋」と定義されています。白川郷や五箇山の合掌造りは図2-2で見るように2本の合掌とその底辺となる 「ウスバリ」と称される梁で三角形のフレームを成し、小屋裏は柱や桁梁で構成された軸部とは完全に分離されています。三角形のフレームは同一面上の力に対しては丈夫な構造ですが前後からの力に対しては脆弱です。このため合掌を用いた茅葺屋根の多くは前後の力に対応した寄棟屋根や入母屋屋根が一般的で切妻屋根のものは限られています。数少ない切妻屋根の例を見ても妻面の壁を重量のある土壁にするなど前後の力に抵抗するように造られています。これに対して白川郷や五箇山の合掌造りの妻壁は板壁で塞がれ採光のために設けられた障子窓が印象的ですが、かつては茅の束で塞ぐなど構造的には何もないに等しい造りでした。この様な合掌造りが成り立つのは 「ハネガイ」と呼ばれる合掌間にある筋違状の斜材の存在です(図3)。「ハネガイ」によって合掌は安定した構造となり、その内部空間は遮るものもなく、妻壁も換気や採光のため自由に開放できるようになりました(注2)。
 

図3 合掌造りの小屋裏
茅葺屋根葺替え後の「アマ」と称される小屋裏。黒く煤けた合掌と母屋にあたる「ヤナカ」で組まれた骨組みに垂木に相当する「クダリ」を架け茅葺の下地となる葦簀で覆われた小屋裏の様子がよく分かります。小屋組みを構成する各部材は「ネソ」と呼ばれる捻ったマンサクの若木や縄で編まれており村人の共同作業だけで大きな内部空間が造られていることがよく分かります。左右の合掌間に入れられた筋違状の斜材が「ハネガイ」と称される部材で合掌が前後から押されても倒れないように造られています。合掌の中央に見える横材は「ガッショウバリ」と称される部材でここに簀子並べることでもう一段床を増やすことが可能です。(作画:木岡敬雄)


 

注2:同じ合掌造りといっても白川郷と五箇山では幾つか違いが見られます。白川郷の合掌造りは平入の建物が多いのに対し五箇山では妻入りの建物が多く、入口のある妻側に茅葺の庇を設けるため一見すると入母屋屋根風に見えることがあります。また入口の位置に伴い間取り自体にも違いが見られます。これらは白川郷と五箇山とが越中国と飛騨国に分かれ、辿ってきた歴史の相違も大きく影響しているでしょう。その一方で地域の違いを超えて合掌造りという同じ原理を用いた点に飛騨山地を南北に流れる庄川を中心とした人々の繋がりの深さを感じます。

 

合掌造りの成立

 合掌造りの成立について従来この地で養蚕が盛んになった元禄期( 16881704)頃と言われています。養蚕のためには蚕を育てるための広いスペースと蚕の生育に適した環境の維持ため採光と換気が必要で、茅葺屋根の小屋裏を最大限活用できる合掌造りが成立したと言われてきました。炭素年代法などによる最新の研究でも合掌造りの合掌材の年代をみると17世紀末より前のものは見いだせず従来の推測が正しいことが証明されています。その一方で柱や特徴的な形の 釿梁(ちょうなばり)など軸部の部材により古い時代のものが見いだされており、すでにあった家屋の軸部を再利用して比較的短期間に生み出され普及した可能性が指摘されています。合掌造り成立以前の屋根はどの様なものであったのでしょう。
 
 五箇山から越中の平野部へ抜ける道筋のひとつ、小瀬(おぜ)峠の途中にある羽馬(はば)家は村の肝煎(きもいり)も兼ねる家柄で現在の住まいは5間半に13間もある合掌造りで富山県の文化財に指定されています。江戸時代を通して3回建て直されていますが、江戸時代初期の正保5年(1644)に家を新築するために必要な部材の長さや本数を記し加賀藩の奉行宛に差し出した願書が残されています。そこに記された値からは梁間3間に対し合掌材の長さが2間とあり現在の急勾配な合掌造りと異なりより緩い勾配の屋根であったことが分かります。また垂木と思われる材の本数の多さから切妻屋根でなく寄棟屋根か入母屋屋根であった可能性があります。
 
 狭隘な山間部である白川郷と五箇山は耕地に適した土地に乏しく稲作や畑作の収穫は限られており年貢も金銭による収納に頼らざるを得ませんでした。このため換金作物として養蚕や火薬の原料となる煙硝や和紙の生産が重視され民家の屋内がその目的のために用いられてきました。合掌造りの成立以前に釿梁が見られるのも屋内空間を広げ有効活用するためと思われます(図4)。しかしこの段階ではまだ屋根裏を全面的に活用するには至らなかったのでしょう。元禄期になって合掌造りが出現するには別の要因があったと考えざるを得ません。
 

図4 合掌造りの屋内
合掌造りの屋内で居間にあたる「オエ」の様子。正面奥は寝室にあたる「チョンダ」で左手の板戸の向こうは客間にあたる「デエ」です。天井下を横切って右手の下屋まで延びる端が曲がった梁が釿梁です。雪深いこの地域では雪の重みで根元から曲がって生える樹木が多く、それらを巧みに使い上屋(身舎)と下屋の境の柱を省略しより広い内部空間を造っています。煙硝の生産は居間の床下に掘った大きな穴を用いて煙硝土を作ることから始まり、そのためにもより大きな室内が必要だったのでしょう。(作画:木岡敬雄)


 
 養蚕は古代より行われ奈良時代には国家に収める税のひとつに位置づけられていましたがその後衰退し、江戸時代初期にかけて絹織物に用いられる生糸は専ら中国からの輸入品が主でした。輸入の対価として多くの銀が支払われており、銀の流出を抑制するため貞享2年 (1685)から中国産の生糸の輸入制限が行われました。この結果、国内の需要を満たすために国産の生糸の増産が奨励されるようになります。従来は屋内で行われていた養蚕も生産量の拡大に対応する必要から従来あまり活用されていなかった屋根裏を利用するため合掌造りが一挙に広まったと考えられます。
 

合掌造り成立の背景

 合掌に「ハネガイ」を用いて安定した構造を造り出す手法はこの地域の人々が換金手段のひとつとして従事してきた木々の伐採や運搬(注3)など山での仕事を通して得た知恵によるのではないでしょうか(図5、6)。合掌造りの民家が軸部と屋根裏が別構造であったことも専門の大工の手を借りて軸部から建て直す必要もなく、村の人々の共同作業で合掌を組むことが可能だった点も大きく作用していたことでしょう。合掌造りが庄川流域の限られた地域のみで他へ波及することが無かったのもそうした背景によるのかもしれません。
 

図5 「官材図絵」に見る運材施設
江戸時代末に幕府の直轄領であった飛騨国における木材運搬の過程を表した「宮材図絵」に描かれた中網場(なかづなば)。図は飛騨川に設けられた中綱場の様子ですが庄川流域では白川村の荻町に中綱場が設けられここで幕府の役人によって木材の種類や本数を改め伐採を請け負った商人から税金にあたる運上金の徴収が行われていました。(画:木岡敬雄)


図6 「官材図絵」に見る運材施設
中綱場は図5に見える太い留綱を川の両岸から張り渡し、流れて来る木材を溜めるため図6の様な工作物が造られています。図は幕末の例ですが伐採した木材と蔓や縄など手直に入手出来るものだけで仮設の工作物を造る条件は時代を通して変わることはなくその巧みな造りに驚きます。これ以外にも伐採した木材を道もない山奥から谷まで運び出すために様々な工作物が必要ですが、これらの設営には流域の住民たちが日雇いとして雇われており貴重な現金収入の場でもありました。(作画:木岡敬雄)


 
 養蚕の普及によって民家の屋根に様々な形式が生み出されたことはよく知られていることです。「かぶと造」など多くの形式が生み出され民家の屋根の多様な意匠を造り出してきました。その中でも合掌造りは屋根裏を最大限に利用することの出来る画期的な構造です。養蚕が盛んになり始めるその転換点にこの様な屋根を造り出した五箇山や白川郷の人々の創意工夫には驚くばかりです。
 

注3:江戸時代以降、城下町の建設や河川の改修などのため大量の木材が必要とされ森林面積の大きい飛騨国でも山々の荒廃が進んでいました。木材資源の保護のため桧など有用な樹木を中心に伐採規制が行われ飛騨国の白川郷も越中国の五箇山も許可なく樹木を切ることは出来ませんでした。その一方で頻繁に起きる都市部の大火など木材の需要は常にあり、樹種に制限を設けるなどして木材の切り出しは行われていました。伐採に適した地はすでに切りつくされており搬出が困難な山奥などが対象となり木材運搬のための工作物の設置は重要でした。

(きおか・たかお)1957年東京生まれ。1982年武蔵野美術大学造形学部建築学科卒業。同年、宮上茂隆の主宰する竹林舎建築研究所に入所。1998年竹林舎建築研究所代表に就任。日本建築の復元と設計に当たる。主な仕事に、掛川城天守復元、大洲城天守復元、建長寺客殿得月楼設計、岐阜市歴史博物館「岐阜城復元模型」監修、東映配給映画「火天の城」建築検証、NHK大河ドラマ「真田丸」大坂城CG監修。主な受賞に、大洲城天守復元で「第1回ものづくり日本大賞内閣総理大臣賞」「日本建築学会賞(業績部門)」など。