雨と生きる。雨を活かす。雨の文化創造を考える。

 
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連載

木岡敬雄の

雨が
育てた
日本建築

 
 
 


 日本の伝統建築の「雨のみち」を見てみよう! 数々のお城の復元設計や、大河ドラマや映画などでのCGや復元模型の監修にも携わる木岡敬雄さんの新連載がはじまります。

(2017.06.10)

 
— 四季ごとの変化に富む日本列島。夏は季節風により高温多湿に、冬は雪が多い日本海側と晴天続きの太平洋側で対照的な天候になります。雨は肥沃な大地を育み、豊かな森林資源は日本独自の木造建築を生みだしました。大きく勾配のある屋根や深い軒は、どれも雨抜きに考えることはできません。この連載では、「雨」をキーワードとして日本の伝統建築とその背後にある歴史や文化を探っていきます。


VOL.1 日本独自の高層建築 — 天守

 あまり知られていませんが、地震や暴風雨など自然災害が多い日本で木造の高層建築がつくられることはまれでした。えっ!五重塔は?と思う方もいるかもしれません。しかし、お寺の仏塔は一見すると何重にも屋根を重ねた高層建築のように見えますが、実際に内部空間があるのは1階だけで人々が上の階へ上がることは考えられていませんでした。だから、五重塔も1階建てなのです(図1)。
 
 

 

図1:興福寺五重塔と松江城天守の断面図:塔の断面(上左)を見ると内部は繋肘木や桔木が縦横に交差しており人が上がることを考慮した造りになっていません。これに対して天守の断面(上右)を見ると柱と貫に梁を組み合わせた軸部を順次重ねた造りで両者の違いは一目瞭然です。(図面トレース:木岡敬雄)

 奈良時代に成立した法律では高層建築どころか2階建ての建築まで禁じていたくらいですから無理もありません。鎌倉時代以降になってようやく、中国文化の影響で2階建ての楼閣建築がつくられるようになりましたが、4階建て以上の建築となると皆無です。それが突然変わり、戦国時代末期から江戸時代初頭の短い期間に多くの木造高層建築がつくられるようになったのです。それが今回のテーマとして取り上げた天守(※1)です。

※1:現在では「天守閣」という名称がより一般的ですがこれは明治時代以降に広まった呼び名で当時は「てんしゅ」と読まれ「天主」、「天守」、「殿主」、「殿守」の字をもって記されていました。本文では「天守」に統一して表記します。

 
 天守という新たな建築を生み出したのは戦国時代の覇者とも言われる織田信長でした。天正7年(1579) に完成した安土城の天守がそのはじまりで、琵琶湖の東岸にある安土山山頂に外観5重内部7階建ての天守がつくられました。天守の外観は各重ごとにその平面が逓減しピラミッド状の安定した形に特徴があります。幾重にも重なる屋根は意匠の要といって良いでしょう。
 誰もが、お城の屋根は瓦でつくられているイメージを持っているかもしれませんが、信長が安土城の屋根を瓦葺きにしたことはそれまでの城の常識を覆すとても画期的なことでした。瓦そのものは古代から寺院建築などの屋根材としてつくられていたのですが、中世以降は畿内など一部の地域を除いてあまり生産されなくなっていました。新たに天下人として歩みはじめた信長は、耐久性と防火性に優れた瓦に着目し、自身の城の建築に使用したのです。また、材料としての機能面だけではなく、瓦葺きの天守や櫓の存在は、合戦のための城から恒久的な政庁としての城へと時代が転換する様を多くの人々に強く印象付づけたことでしょう。
 安土城天守は天正10年の“本能寺の変”によって失われてしまいますが、天守の造営は信長の後継者たる豊臣秀吉によって引き継がれ、天下人の象徴として新たに大坂城天守が造られました。また天下統一事業の進展に伴い多くの大名たちの居城にも天守がつくられるようになりました。


名古屋城天守の雨仕舞

 
 天守の多くは、高層の上に四方が開けた小高い丘などに建てられているため、雨や風の影響を避けることができません。さらに遠方より目立つ意匠が重視されるので、屋根は千鳥破風や唐破風などを多く据えた複雑なものになりがちです。そのため雨仕舞にはいろいろな対策が施されています。ここでは名古屋城天守を例に見てみたいと思います。
 

 慶長17年(1612)に完成した名古屋城天守は一階の規模が37メートル×33メートル、石垣上の高さが36メートルもある巨大な天守です(写真1)。創建当初1重から4重の屋根は瓦葺きに、最上層の5重は木製の瓦形に銅板を被せた銅瓦葺きでした。天守に軒樋はなく、降った雨は軒先からそのまま階下の屋根へ落ちていきます。しかし四方へ葺き降ろした屋根と千鳥破風や軒唐破風の屋根との間にできた谷には銅製の谷樋をもうけ、さらに谷樋から大量の雨水が階下へ集中して落ちるのを防ぐため、各谷樋を竪樋で繋げて2重の屋根から堀へ向けて排水するようにつくられていました。

写真1:名古屋城天守:名古屋城天守は昭和20年5月、米軍の空襲によって焼失してしまいましたが戦前の実測調査等をもとに昭和34年にSRC造で外観復元されました。屋根は宝暦の修理後の姿に復元されています。徳川幕府による天守の威容を実感できる貴重な存在です。(撮影:木岡敬雄)

 しかしそれだけでは充分ではなかったのでしょう。創建から140年ほどたった宝暦2年(1752)から行われた大規模な修理に伴って屋根も改められています。2重目から4重目の瓦を取り外して代わりに銅瓦葺きに変更しています。さらに谷樋の末端も2重目から竪樋を石垣に沿わせて堀底まで延長しています。石垣面に落下した雨水による石垣内の湿気が問題とされたようです。天守南面の竪樋の内1本は天守と小天守を結ぶ橋台に当たるので天守の地階にある井戸の排水用の石樋へつなげて本丸内へ排水するようになっています(図2、写真2、写真3)。

図2:名古屋城天守立面図(左:西面 右:南面):赤で示したのが谷樋とそれを繋ぐ竪樋です。宝暦の修理以前は2重目の屋根先から下へ雨水を落としていました。南面の東側の竪樋は小天守へ続く橋台にあたるため写真3のように橋台上の石樋に繋げています。(図面トレース:木岡敬雄)

 

写真2:名古屋城天守の竪樋、写真3:名古屋城天守の竪樋と石樋(撮影:木岡敬雄)

 雨のみちは屋根ばかりとは限りません。『駿府記』の慶長17年7月の記事に、窓から大量の雨漏りのあった駿府城天守の件を引き合いにして、名古屋城天守はこのようにならないように、と記されています。天守の窓をみると「入子水抜」(図3)と称して窓の敷居の溝に銅板で箱を作り、そこに溜まった雨水を銅管で外部へ排水出来るように精巧につくられています。どの窓も一か所に付き2本の銅管を設け、5重の窓ではその数を3本に増やすなど造りも念入りです。雨と天守との関わり合いを示す面白いエピソードです。

図3:天守の窓断面図:名古屋城天守の窓は格子の外側に片引きの土戸、内側に明かり障子が組み合わされていました。土戸の敷居から外へ水抜きの銅管が埋め込まれていました。(作図:木岡敬雄)


天守と金属素材の屋根

 
 工業化が進んだ現代において屋根材として金属を用いることは当たり前のことですが、歴史を振り返ると近世までその事例はほとんど見当たりません。名古屋城天守に見られる金属素材による屋根はいつごろから普及するようになったのでしょうか。
 
 慶長5年(1600)の関ケ原合戦に勝利して実質的に天下人となった徳川家康は慶長11年から居城である江戸城を徳川将軍家の城に相応しいものとするため大規模な改修に着手しました。翌12年に完成したのが慶長の江戸城天守(※2)です。江戸城天守は徳川家の御大工としてさまざまな建築に関わってきた中井正清の子孫である中井家に史料が残されておりその姿を明らかにすることが出来ます(図4)。

図4:江戸城天守立面図:慶長の江戸城天守は現在と位置が異なり本丸中央西寄りにありました。天守台は天守より大きく内側に切石で築いた低い石垣上に天守は立っていました。天守台周辺には複数の櫓や門によって曲輪が形成され厳重な造りになっていました。天守は外観5重、内部は石垣内の地階を入れて6階建でその高さは44メートルに及ぶ歴史上最大級の天守でした。(復元考証:宮上茂隆 作図:木岡敬雄)

 

※2:江戸城天守は将軍の代替わりに合わせて3回建て直されています。1回目が徳川家康による慶長の天守、2回目が2代将軍秀忠による元和の天守、3回目が3代将軍家光による寛永の天守です。寛永の天守は明暦の大火によって焼失しその後再建されることはありませんでした。

 江戸城天守の屋根は鉛瓦で葺かれていました。鉛瓦は木製の瓦形に鉛の板を被せたもので、五重の屋根すべてが鉛瓦で葺かれていました。江戸時代に記された記録には「なまりかはらをふき給へば雪山の如し」と記され当時の人々の驚きを伝えています。白色を主とした江戸城天守のデザインは西国においていまだ権威を有していた豊臣秀頼の大坂城天守を強く意識した結果と考えられます。
 江戸城天守に引き続き、家康は自身の隠居所である駿府城にも天守をつくらせました。天守の大きさは江戸城と比較すると小さいのですが1重目が瓦葺、2重目から4重目までが錫と鉛の合金を被せた瓦で葺かれ、5重は銅瓦で葺かれていました。さらに破風や長押の飾り板は銀で作らせるなど華麗な天守でした。

 さらに慶長15年から東海地方の要として名古屋城の築城に着手し、先に取り上げた名古屋城天守がつくられています。名古屋城天守は高さこそ江戸城天守に劣るものの延べ床面積では江戸城をしのぐ大きさで来る大坂の陣に備えたものでした。
 このように江戸城、駿府城、名古屋城とわずか6年の間に徳川政権の威信をかけた天守が次々と造営され、その屋根に鉛や銅といった金属素材が使われました。他の諸大名の天守が瓦葺きであったことを考えるとその違いはより顕著であったに違いありません。また、日光東照宮などその後の徳川幕府の建築における銅瓦葺きの盛況を考えると、一連の天守の屋根は、その先駆けになったといえるでしょう。

(きおか・たかお)1957年東京生まれ。1982年武蔵野美術大学造形学部建築学科卒業。同年、宮上茂隆の主宰する竹林舎建築研究所に入所。1998年竹林舎建築研究所代表に就任。日本建築の復元と設計に当たる。主な仕事に、掛川城天守復元、大洲城天守復元、建長寺客殿得月楼設計、岐阜市歴史博物館「岐阜城復元模型」監修、東映配給映画「火天の城」建築検証、NHK大河ドラマ「真田丸」大坂城CG監修。主な受賞に、大洲城天守復元で「第1回ものづくり日本大賞内閣総理大臣賞」「日本建築学会賞(業績部門)」など。
 

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雨が育てた日本建築 vo.01


日本独自の高層建築 — 天守