建築時評コラム 
 連載|にわか雨の如く、建築に異議を申し立てる時評 

その不意さ加減の面白さ、深刻さを建築の時評に。建築のここが変だ、ここがオカシイ、建築に声を上げる「驟雨異論」。 にわか雨が上がるのか、豪雨になるのか!?


photo=Wu Chia-Jung
千葉 学(ちば・まなぶ)

 
1960年東京都生まれ。1985年東京大学工学部建築学科卒業。1987年東京大学大学院工学系研究科建築学専攻修了。1987-1993年日本設計。1993-1996年東京大学工学部建築学科キャンパス計画室助手。1993-2001年ファクターエヌアソシエイツ共同主宰。1998-2001年東京大学工学部建築学科安藤研究室助手。2001年千葉学建築計画事務所設立。2001-2013年東京大学大学院工学系研究科建築学専攻准教授。2009-2010年スイス連邦工科大学客員教授。2013年東京大学大学院工学系研究科建築学専攻教授。2016年東京大学副学長。
 
URL:千葉学建築計画事務所

MANABU CHIBA #3     2022.011.9

How is life?

 
  「How is life? 」という展覧会が、2022年 1020日から2023年3月9日まで ギャラリー間で開催されている。この展覧会は、現在ギャラリー間の運営委員を務めている 塚本由晴田根剛Seng Quanと僕の4人が監修したもので、企画の段階まで遡れば、およそ3年の歳月をかけて練ってきたものである。
 
 議論の初期段階で共有されたのは、従来の展覧会、つまり一人の建築家に焦点を当て、その作品を展示するような展覧会のあり方自体を問い直そうということだった。建築が一つの際立った「作品」とするその捉え方は、「希少性」、つまり他者との差異に価値を置き、それを原動力に消費を加速させてきた 20世紀的な資本主義と重なり合う。限られた地球という資源に過度の負荷をかけている今、僕たちが考えるべきは、 20世紀が前提としてきた成長を追い求めるのではなく、 「成長なき繁栄」を実現するための具体的な仕組みであり、計画であり、デザインなのではないかということだ。この「成長なき繁栄」は、 ティム・ジャクソンの著書からの引用だが、成長を前提にした豊かさに慣れきってしまった生活そのものを見直すことを展覧会のテーマに据え、こうした取り組みの萌芽となるプロジェクトを展示しようということになったのである。
 
 論点は数多く挙がり、取り上げたプロジェクトも世界各地に及んだ。中でも鍵となったテーマの一つは 「当事者性」だった。 20世紀的な消費活動は、単に買い物だけでなく、食事や教育、出産や介護、果ては人の死の扱いに至るまでを貨幣を対価にしたサービスとして提供し、結果的に生きるために必要なスキルを人間から奪ってしまった。このようなサービスの顧客として振る舞う人間ではなく、生きることの当事者である人間を取り戻すために建築は、生活は、どう変わっていくべきなのか、それを問おうとしたのである。
 
 これは日本の高度経済成長を支えてきた建築業についても重ね合わせることができる。請負というかたちで産業に絡み取られてしまった建築は、建てるという行為が本来担っていたコミュニティにおけるスキルの遣り取りや共有、地域資源の循環といった側面を極小化し続けてきた。こうした状況への批評として塚本さんから提示されたのが社会基盤を地域住民で作り上げていく「普請」であった。こうした試みは、 「小さな地球」「石積み学校」「茅葺普請」「藤村記念堂」などの実践に見て取ることができる。ここでは、地域や資源、人との「連関」を炙り出すことこそがデザインなのだ。
 
 都市を消費の場ではなく生産の場として捉え直そうとする 「Capital Agricole」「La Ferme du Rail」「都市林業」「Floating Farm」「How to settle on Earth」なども、同じ地平にあるプロジェクトだと言っていいだろう。これらに共通するのは、自然がコントロール可能な対象として位置付けられてきた 19世紀から 20世紀にかけての思想、つまり都市対田園、都市対自然という対立的概念を越え、人間が作り上げてきた社会や都市空間自体を一つの大きな生態系と捉えていることだ。そこに見るのは、自然の有限性への危機感と、作るのではなく使うことへの貪欲な想像力だ。
 
 一方この議論が、コロナの感染拡大と同時進行であったがために、「移動」はもう一つの重要な切り口となった。 20世紀的グローバリゼーションを牽引した車や鉄道、飛行機などの大量/高速の移動手段は、地球規模で資源を搾取し続けるだけでなく、感染拡大を加速させ、矛盾に満ちたことだが、人間の自由の源でもある「移動」に制限を課すことになってしまったのである。コロナ禍はその意味で、自然からのしっぺ返しである。こうした生活基盤を見直す上で、移動様態の再考は、要となる。 「Bicycle Urbanism」「Bikeable」「15-Minute City」は、車や歩行者に最適化された都市を、小さくゆっくりしたモビリティから捉え直す試みだ。既存の都市を自転車の目線で「診断」し、重厚長大なインフラではなく、むしろ都市を使い倒す想像力豊かな視点の獲得によって作り変えていこうとする、それは生態学でいうところの「ニッチ」を発見し、「動的平衡」状態を見極めるという、静的で俯瞰的な都市計画とは対極の新たな計画論を導き、都市を自らの身体に取り戻すきっかけにもなるだろう。
 
 興味深いのは、こうした議論の過程で「道具」が一つの重要な概念として浮上したことだ。道具については、すでにこのコラムでも一度書いている。人間の身体の延長としての道具、その道具を介して自然を知り、逆に自分の体をも知り、そして自らも変化していく、その双方向的な関係性こそが道具の本質だと書いたが、ここに取り上げたプロジェクトはいずれも、その道具が重要な役割を担っている。普請の現場で樹を伐り、草を刈り、屋根を葺き、石を積む。あるいは農場で、土を耕し、草をむしり、野菜を収穫する。そのいずれの場面においても固有の道具があり、その道具を介して土壌を知り、樹木の特性を知り、また動物や昆虫の営みに触れ、そこかしこに生起している生態系を解像度高く理解することになるのである。それは、見ているだけでは決して会得できない豊かな体験だ。移動において取り上げた自転車も、都市空間を理解するための道具という点では同様だ。都市の微地形や地面のテクスチャ、さらには数多くの障害や、逆に自転車だからこそ通行可能な都市のネットワークなど、車を運転するだけでは決して感知できない数多くの情報が身体に飛び込んでくる。こうして身体化された情報こそが、生活の当事者であることの出発点になるだろうし、この経験の蓄積は、生活を大きく方向転換していくに違いない。
 
 考えてみれば、現代の都市生活者が道具に触れる機会はほんどないのではないか。日常的に手にしているのは、せいぜいパソコンとスマホくらいだろう。そこから得られる身体的な情報は、皆無と言ってもいい。今改めて道具を取り戻し、そこから生活を切り開いていく、そんな実践が必要なのだ。展覧会では、他にも数多くのプロジェクト、議論にのぼった書籍などが展示されている。ぜひこの3年間の濃密な議論を共有してもらえればと思う。

 

|ごあいさつ

 2021年度の建築・都市時評「驟雨異論」を予定通りに配信することができました。太田佳代子、布野修司、連勇太郎の執筆者各3氏に改めて御礼申し上げます。それぞれの関わる分野、立ち位置、キャリア、そして世代の違いから見えてくる問題意識の多彩さと語り口に興味を抱かされた一年間でした。本当にご苦労様でした。
 
 2022年度では新たな執筆者の陣容として、千葉学、黒石いずみ、南後由和の3氏が登場します。3氏のシナジーがどのような批評空間を生み出すのか大変楽しみなところです。
 
 これまで建築・都市時評を通して、広く「問題」(批評)の所在を共有することを狙いにウェブマガジン「雨のみちデザイン」に新たなコンテンツとして「驟雨異論」がスタートしたのが2020年。
 
 次のステップとして、そこから多くの思考や批評が反応・応答としてつながることを望みたい。そのためにも、建築系コンテンツのレビュー空間に加わるべく、2022年度より「驟雨異論」をnoteからも配信していきます。noteでの「驟雨異論」ではレビューアー別に時評が構成され、アーカイブ性を保つことで、レビューアーの持ち味に出会えるものとしていきます。
 

2022/03/18

真壁智治(雨のみちデザイン 企画・監修)
 

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