建築時評コラム 
 連載|にわか雨の如く、建築に異議を申し立てる時評 

その不意さ加減の面白さ、深刻さを建築の時評に。建築のここが変だ、ここがオカシイ、建築に声を上げる「驟雨異論」。 にわか雨が上がるのか、豪雨になるのか!?


藤原徹平(ふじわら・てっぺい)

 
建築家/横浜国立大学大学院Y-GSA准教授。1975年生まれ。横浜出身。横浜国立大学大学院卒業後、隈研吾建築都市設計事務所にて世界の多様な都市でのプロジェクトを設計チーフ・パートナーアーキテクトとして経験。2009年よりフジワラテッペイアーキテクツラボを主宰。これからの地域社会を支える建築の可能性を探求し続けている。一般社団法人ドリフターズ・インターナショナル理事。
 
主な建築作品として、《京都市立芸術大学》(2023)、《東郷の杜 東郷記念館》(2022)、《チドリテラス》(2022)、《泉大津市立図書館シープラ》(2021)、《クルックフィールズ》(2019)、《那須塩原市まちなか交流センターくるる》(2019)など。 主な受賞として、横浜文化賞文化・芸術奨励賞、JIA新人賞、東京建築賞共同住宅部門最優秀賞など。
 
URL
FUJIWALABO

TEPPEI FUJIWARA #1     2025.6.25

未来のかたちを考える

漂流考

 
 考え事をしたいとき、勤め先の大学から横浜駅まで歩いて帰る事がある。
 
 いつも使う北門ではなく、正門から出て大学の丘を下る。大学の前を流れる国道1号を横切り、人の流れから離れて、谷筋の道に入っていく。さらに枝別れした横道から坂道を登っていくと、斜面には住宅地が広がっている。斜面に人が住む。その不便さと快適性を雄弁に語る風景が断続的に現れる。ヘタ地の小さな農地、コンクリートの基壇を掘り込んだ駐車場、崖にせりだしたテラス、長い階段、崖に残る緑地。坂を登りきると、突然広々とした公園の、その裏側に着く。この場所は1964年のオリンピックで整備された都市公園らしいと聞いたことがある。谷底の沢に近い静かな森の縁に弓道場があって、ここは良いなあといつも感心する。かつての都市行政に残るロマンチシズム的な態度はもっと注目されても良いのではないかと思う。
 
 土地の起伏を感じながら公園を横切っていくと、幹線道路に再びぶつかるが、その道を避けて裏側の静かな住宅地に再び分け入っていく。丘の上の住宅地は空が広くて、気持ちが良い。町の奥まった場所に建つ派手さはないが丁寧に設計された建築物が私は好きだ。突き当たりのT字路にまさにそんな教会が建っていて、そこから坂道の流れに身を任せていくと、クネクネと谷底に降りていく大階段がある。谷底を塞ぐようにさっきみた幹線道路がまた姿を現してくるのだが、幸い道路の下をくぐる隧道がある。
 
 隧道をくぐると、蔵付きの風情のある家が突然目の前に現れる。建ち方に風格があるので気になって調べたことがあるのだが、実はこの辺りはかつての海岸線だったらしい。海辺の名残かもしれない土地の緩勾配に身を任せて歩いていくと、目の前に突然高層ビル群が現れる。1時間も歩いていないはずだが、時空を移動したような感覚を覚えながら、身体は巨大な駅のターミナルに吸い込まれていく。
 
 これはある日の漂流の記憶だ。
 

著者撮影


 1960年代を中心に活躍した思想家・芸術家のグループである アンテルナシオナル・シチュアシオニスト(以下IS)は、高度資本主義社会を「 スペクタクルの社会」( ギィ・ドゥボール)として捉え、その根源的な問題点を指摘しそれを乗り越えるべく「状況の構築」・「漂流」・「転用」・「迷宮」・「心理的地理学」・「統一的都市計画」という各種の理論を提出しその実践を試みた。
 
 彼らの問題提起は、ただ単に社会全体が劇場化、見世物化したということへの批判にとどまらず、現代社会が<生産ー消費>の近代的生産の構造に取り込まれることで生が疎外され( マルクス)、その生の疎外を覆い隠すものとして、あるいは分離・断片化した時間、空間を代理表象するものとして、スペクタクル(見世物性)が生活の細部の至るところまで浸透していくことに警鐘を鳴らす。
 
 彼らの論説を読んで、緊張せざるを得ないのは、スペクタクルの社会が進行すると、人間の行為が圧倒的に受動的になり、またその受動性・消費者性を当の本人が積極的に受容し、拡張する形で進行するとした点である。電車の中でスマートフォンを食い入るように覗き込んでいる私たち自身の姿を冷めた視線で観てみると、その問題の根深さを痛感する。SNSが問題なのか、スマートフォンが問題なのか、そもそも電車という移動空間の問題なのか。(そういえば夏目漱石はエッセイで鉄道そのものを批判していたはずだ。)どこまで遡って自問をすべきなのか。その見取り図すら怪しい状況だ。
 
 古い本を読んでいると、にわか雨のように突然の批判的視点に出会うことがある。ISのテキストは、私にとって建築家になる道を選ぶかどうか迷っていた時に出会った。彼らが目指した「 統一的都市計画」とは、都市計画の一学説ではなく、都市計画そのものへの批判である。都市計画は時間や空間を制度的に分割する。そもそもこの分割が「生の疎外」につながるからだ。彼らは都市計画そのものを拒否すべきであると考えた。その意味では、ISの運動は1956年の CIAM近代建築国際会議)崩壊後におきる機能主義的都市計画の批判・乗り越えにおける最も極端な運動であると捉えることができるはずだ。そう思った。
 
 彼らはゾーニングを受け入れないし、施設論的な分節も拒否する。環境のイメージ形成による理解( ケヴィン・リンチ)のような態度はむしろスペクタクルを助長するものとして逆に敵視すらするだろう。彼らの都市計画批判の態度の帰結は、「状況」の集まりとしての都市という理論になっていく。私はこの強烈な出会い以来、この知的な批判こそを現代建築を構築しうる土台と捉えている。
 
  「状況の構築」理論については別の回で詳しく触れたいと思うが、ここで簡単に説明しておくと、「状況」は「時間の中でのまとまった行動」と「生の舞台装置(デコール)」という行為と環境によって構築され得る。「生の舞台装置(デコール)」という語からは、どこか舞台セットのような像をイメージさせるが、行為によって生成される「状況の構築」でもある。
 
 その最も典型的なアプローチが 「漂流」という戦術だ。「漂流」は、簡単に言えば、「都市内の創造的歩行」とでも言えるだろうか。普段の慣習的な移動とは異なった動機から都市内を自由に移動することである。都市を遊戯の舞台としてとらえ、遊牧民的な移動体験をつくる。自分の行動の原理を、自由に、創造的に、非慣習的に設定するものであれば、移動の「動機」はどんなものでもよい。意思を持った移動は、制度的・慣習的に分節されている都市を新しい経路として再編していくことになる。その経路の反復による新しい境界性の出現そのものが「生の舞台装置(デコール)」の構築の方法とした。
 
 「歩行」について、哲学者ミシェル・ド・セルトーの力を借りてさらに考察を進めてみる。セルトーは「歩行」こそを誰もがなし得る日常的な抵抗、空間の創造の実践として重視した。ソシュールの言語学を下敷きに、歩行を一種の発話(パロール)として3つの機能を持つものとして整理する。3つの機能とは
 
(1)地理システム(構造)を自分のものとするプロセス
(2)場所の空間的実現
(3)動きという形態をとった言語行為的な「契約」
 
であり私が注目するのは(2)場所の空間的実現、である。
 
 「場所の空間的実現」という言葉の面白さは、一読して理解するのは困難である。
 
 理解のための補助線をさらに引いてみることとする。
 
 現象学的地理学を提唱した イーフー・トゥアンは、「空間」と「場所」というごくありふれたこの二つの言葉に思いもかけない意味の違い、性質の違いが潜んでいることを発見し、詳細に考察を重ねた。トゥアンの理路に乗れば、生物学的な事実として、いかにして人間の身体の成長に伴って周囲の空間に身体的な基準がうめこまれていくか、ということを考えた上で、たとえば<「空間」は「場所」より抽象的である>というように「空間」と「場所」とは相互に補完的に定義し合う観念である。その過程で、「空間」が「場所」に変容していく過程を詳述している。トゥアンは、迷路を体験するときの人間の認識が、最初は(A)入口とその先に広がる空間という抽象的な段階から、(B)徐々に良く知っている場所(目印)や経路が出現し、最終的には(C)良く知っている場所(目印)と経路の集合へと変容していくことの再現性に着目し、未知で混沌として抽象的な存在である「空間」が「場所」的になっていく構造を説明する。
 
 それに比して、セルトーの「歩行」の定義では、むしろ逆の状態が起こり得ることを説明する。セルトーは「空間」を「動くものの交錯するところ」「そこで繰りひろげられる運動によって活気づけられる」ものとして定義し、場所のような一義的な安定性がない状態であることを指摘する。「たとえば都市計画によって幾何学的にできあがった都市は、そこを歩く者たちによって空間に転換させられてしまう。」(セルトー)のである。
 
 人間たちが「歩行」することで、複数の実存的空間が交錯する。この交錯という運動状態が「空間なるものの実践」であるというように理解される。
 
 また、セルトーが人間が抱く物語によって「場所は空間に、空間は場所に」現象学的に変化していくことも説明していることを追記しておく。つまりセルトーの「空間/場所の定義」では、ある同じ領域が、場所としても空間としても変容されうるものと捉えることになる。
 
建築に関わる読者が多いので注記しておくと、トゥアン、セルトーのように都市や地理学から考えていく「空間」概念の理解は、ジークフリード・ギーディオンが用いた建築空間論とは異なるものであり、注意が必要である。
 
まとめてみる。
1、都市内を遊戯的に歩行する「漂流」とは、誰もが日常的に実践可能な「状況の構築」である。
2、「漂流」は、物語という駆動原理を用いた<場所の空間化、空間の場所化>という質転換的な創造行為である。
3、「漂流」によって創造される境界や経路や目印は、空間の受容者が為しうる空間の生産であり、都市計画への批判的実践である。
 
 「漂流」とは、端的に言えば、ただ歩くだけである。その技芸としての単純さ、平易さは言うまでもない。しかし、「漂流」的実践は「都市の場所←→空間」という物語化を歩行者の体内に意識的に宿す。個の実践の重層は、いつの時代のいかなる社会状況おいても実現可能である。スペクタクルによる過剰と混乱によって生の疎外と分断が進み、あるいはスペクタクルを助長する旧来の都市計画手法や政治によってますます未来が見えない、という絶望的な現在という地点においても見出せる、一つの希望なのである。

著者撮影

|ごあいさつ

 
2025年度6期「驟雨異論」も樫村芙美、藤村龍至、藤原徹平の三氏によるレビューを示すことができました。有難うございました。毎回私は、レビューアたちの日常性から把握される建築時評を楽しみにしています。それは、建築の現場性や状況性がよく分かるからです。ここで、新しい読み手の方も多いかと思うので、改めて「驟雨異論」レビューの仕組みを解説しておきます。1年に3名のレビューアーが、4回の連載を順繰りに展開して執筆するもので、3名のレビューアたちとのシナジー効果も読み手からは興味深いことになります。レビューには、4回の連載のテーマ性が貴重になり、これも読み手が納得して連載の推移を楽しみにするものでもあります。レビューのテーマ性が批評を持ってこそ、論理の展開が面白くなってゆくものです。「驟雨異論」のレビューのユニークさにも書き手の多彩さが見られ、ベテランから中堅、更に若手などによるレビューのテーマ性にもうかがうことができます。2026年度7期の「驟雨異論」は飯田善彦、平田晃久、中川エリカの三氏が1年間を順繰りにレビューを展開していきます。ご期待ください。
 

2026/04/10

真壁智治(雨のみちデザイン 企画・監修)
 

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