連載|にわか雨の如く、建築に異議を申し立てる時評
その不意さ加減の面白さ、深刻さを建築の時評に。建築のここが変だ、ここがオカシイ、建築に声を上げる「驟雨異論」。 にわか雨が上がるのか、豪雨になるのか!?
建築家/横浜国立大学大学院Y-GSA准教授。1975年生まれ。横浜出身。横浜国立大学大学院卒業後、隈研吾建築都市設計事務所にて世界の多様な都市でのプロジェクトを設計チーフ・パートナーアーキテクトとして経験。2009年よりフジワラテッペイアーキテクツラボを主宰。これからの地域社会を支える建築の可能性を探求し続けている。一般社団法人ドリフターズ・インターナショナル理事。
主な建築作品として、《京都市立芸術大学》(2023)、《東郷の杜 東郷記念館》(2022)、《チドリテラス》(2022)、《泉大津市立図書館シープラ》(2021)、《クルックフィールズ》(2019)、《那須塩原市まちなか交流センターくるる》(2019)など。 主な受賞として、横浜文化賞文化・芸術奨励賞、JIA新人賞、東京建築賞共同住宅部門最優秀賞など。
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TEPPEI FUJIWARA #2 2025.9.27
未来のかたちを考える
土地考
(photo = 筆者提供)
私の母校である横浜市立間門小学校にはなんと「水族館」がある。教室2個分くらいの小さな建物ではあるが、複数の水槽があって一応いろんな生き物がいる。水族館の主はウミガメで、同じ大水槽には小さなサメも同居していた。私が在学しているときに、漁協の網にかかってしまったとか確かそんな理由でマンボウがやってきて、ウミガメとサメと一緒の水槽に入ったが、ストレスからか数週間で死んでしまった。
水族館があるだけでも驚きなのだが、間門小学校には「海岸グラウンド」というサッカー場が2面も取れる広いグラウンドがあり、そのグラウンド脇の山の中腹には「中段運動場」、さらに山の奥に入っていくと「間門の森」という自然公園まであった。公立小学校とは思えない充実ぶりである。「間門の森」は森に、丸太で出来た遊具が複数配置されたアスレチックパークで、私の昼休みのお気に入りの遊びは「間門の森」の奥地を探検することだった。ある時、普段は行かない海側の崖を友人数人とよじ登っていた。よじ登った先で海の雄大な風景が見えるだろう、そう考えていた。本牧独特の、オレンジと黄色の混ざった粘土質の土の崖にしがみつき進んでいく。気分は十五少年漂流記か、グーニーズか。藪が終わる感じになり、くぐり抜け、ひらけた眺望の先、しかしそこには海ではなく、見渡す限りに石油タンクが連なる、そんな風景が広がっていた。
当時のことを想い出すと、夏休みのプール遊びも思い出深い。「本牧市民プール」と「根岸マンモスプール」という巨大な市民プールが近所に二つもあり、今日は本牧、明日は根岸という感じで、プール遊びに興じていたのだが、こういった市民プールはどこにでもあるものではないと気づいたのは大人になって、豊島園や大磯ロングビーチに遊びに行ってからだった。
なぜ公立の小学校に水族館があるのか。なぜ近所に巨大な市民プールが二つもあるのか。大学時代に興味を持って調べてみると、あの時に観た石油タンクの群れ、横浜の海を埋め尽くす、工業地帯こそがその理由だった。
私たちの学校の海岸校庭をコンクリートで埋め固めて、産業道路と工業地帯にする計画が持ち上がったのは1957年のことである。第二次世界対戦後、横浜はGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)に1500haの土地を接収され、街のど真ん中に飛行場の滑走路が造られ、カマボコ兵舎で埋め尽くされ、という感じにやりたい放題に改造されていた。港湾の90%も接収され、ほぼ都市活動は停止状態であった。接収地の返還は実に1960年代まで続いた。都市基盤再生のための土地は不足し、都市の命運をかけた湾岸の埋立計画が起案されていくことになる。
1963年には「横浜国際港都建設総合基幹計画」が立案される。これが決定的な契機となり、横浜という都市の海岸線の全てを、人工土地化していくという流れが起きる。計画案を読み解くと、事は単なる横浜の戦後復興ということではなくなっていることがわかる。国土総合開発法(1950)、所得倍増計画(1960)という国家的な政策と紐づけられて大規模な土地の改造が正当化されている。計画の序文には、横浜の都市経営構想が持つべき視点として
1、東京に次ぐ大都市として
2、太平洋沿岸ベルト地帯の重要都市として
3、歴史的な国際港湾都市として
4、丘陵地が67%を占める広域都市として
の4つの視点が挙げられ、所得倍増をしていくための経済財政計画、路面電車からバス交通への転換を図る交通計画、260万人までの都市人口の増加に対応した土地利用計画、施設配置計画の方向性など、港湾計画の枠を超えて、市全体計画の改革が提案されている。
計画案の随所に、「商業貿易都市」から「工業港湾都市」への転換を図るものであることが繰り返し述べられているが、これはまさに、都市の人格改造というべき計画であった。
そこにはこれまでの横浜を支えてきた近世からの生活環境、自然環境の豊かさや秩序、生態系保全の観点は、全く語られていない。「商業貿易都市」と「工業港湾都市」という二つの人格の弁証法的な調停を検証する姿勢はなく、まるで白紙に絵を描くが如しの書きぶりである。
(photo = 筆者提供)
間門小学校は尋常小学校として1929年に設立された。当初から全国の虚弱児を集めて健康教育をするという特別な理念を持っていた。海岸や山を遊びの庭として子どもたちは心身を鍛え、癒したのだろう。皇室の訪問も受け、何度も表彰されてきたことが、地域の誇りとして50年経っても語り継がれていた。埋め立て計画に対して、生活の糧そのものが失われる漁師を中心として、反対運動がすさまじかったと伝え聞く。当然、間門尋常小学校の関係者、OB OGも反対した。原三溪の居宅である三溪園も学区に含まれていたので、原家ゆかりの人々も反対したに違いない。
最終的に、地域の将来のためという理由で、市民たちは合意し、埋め立て計画は驚くべき滑らかさと速度で立案され、実行されていった。この時期に、日本中で同時進行で発生していた「工業ベルト地帯化」にちっぽけな海岸グラウンドは飲み込まれていったのである。反対運動をどうにか収めるために出現した、政治的な道具が、本牧と根岸にある「市民プール」「マンモスプール」であり、間門小学校の「水族館」なのである。
埋め立て計画の極めて楽観的な図案と、失われたものとのアンバランス。この歪さはなんなのだろうか。本牧には、 30〜40mの断崖と遠浅の海が広がり、景色の良い場所として知られていた。日本が鎖国を解いた1868年以降、外国人居住者のリゾート地「ミシシッピ・ベイ」として愛され、原三溪の居宅三溪園も、海に面して裏門があった。間門の岬には、間門園という旅館が営まれ、文豪山本周五郎が定宿として居を構えていたことが知られている。そうした、歴史的な環境が、全て一挙に失われてしまったのである。
「本当に海岸線をつぶすことが最良の答えだったのだろうか?」
私の建築家としての問いの原点は、ここから始まっている。建築以前に、土地の姿を変える。そのことによって、建築が建ってしまう。土地の形を変える、その方法に疑いを持たないと、そもそも建築家という職業がおかしなことになるのではないか。この問いを考え続けているなかで、幾度もその後ろ姿を見かける巨人が1人いて、それが大高正人という建築家である。
「物の複雑な陸の世界と、単純な平面の水の世界が接続する見事な空間は島国に住む我々の財産である。埋立地はその財産を食いつぶして来た。うまく造れば、人の住む陸と水、波止場と海の傑作なスペースが造れたのに、戦後の日本はそうしなかった。海岸の開発や海岸に建つ建築も海岸線をうまく使ったものがないといってよい。此の水際に手をつける機会はまれだけれども、我々の財産を忘れるわけにはゆかない。」
大高正人が関わった「東京湾上都市の提案」(1959)という計画がある。丹下健三の「東京計画1960」と類似のユートピア都市というように私は観ていたが、ある時に詳しく見直してみて、思わず唸らされた。大高が東京湾の中に、新しく産業と居住を出島のネットワークとして描いた理由は、当時進んでいた臨海工業地帯の埋め立てに反対するオルタナティブだったのである。
あえて海岸から離れた位置で埋め立てを行い、海際の生態系を保全することを狙っている。大高は丹下の東京計画をル・コルビュジエの「輝ける都市」であるとして自身との違いを整理しているが、大高は、自然環境という宝を守り抜きながら、同時に産業化の要請にも応えるような、複数の近代性を抱いた都市の未来像を描こうとしていたのだということに気付かされる。1959年は、横浜の埋め立てが社会的に議論され始める1957年とその計画が議会で承認される1963年のちょうど中間である。横浜にも縁があった大高正人の想いが伝わってくる。
注意深く大高の業績を紐解いていくと、みなとみらいの臨港パークの海際線の苦闘、多摩ニュータウンの自然地形案の提案、ライフワークとしての宇部の彫刻まちづくりへの参画、広島基町の1000人/haという超高密居住による都市環境の実現、坂出人工土地における都市の複層多機能化の試み、福島県三春町の地に足をおいたまちの言語づくりの試みなど、他のモダニストとは異なる極めて独自のアプローチを感じる。またそれらの活動の原点として、小さな土地所有に区分される状況への批評から、建築の群理論を提唱するなど、「土地」に対する独特の視座と挑戦がある。
大高の精緻な研究は歴史家に譲るとして、私としてはその意思を実践的に継承する上で、建築という営みを=「土地の形質の変更の技」というように創造的に定義し直したいと思う。
土地の形や質を計画者としてどのように変えていくべきのか、あるいは歴史の中でどのように変わってきたのか。建築や土木やランドスケープという枠組みを超えて、土地の上に乗る建築物すらも土地の形質の一部として捉えることができたのなら、新たな建築的視座を獲得することが可能になるのではないか。大高の足跡を追う中で、私の考えが変わりはじめている。
ところで、私は長いこと、間門小学校の「水族館」をある種の近代都市計画の負の記念碑のようなものとして捉えていた。しかし、このエッセイを書いていてそうではなかったということがよくわかった。
私が通っていた1980年代、間門小学校には、依然として、自然環境で遊び学ぶという思想が強く残っていた。そしてその影響を当然ながら私も色濃く受けている。
あれから40年以上が経った。海岸線という環境の形を失い続け、今では海岸グラウンドの先には高速道路が在るのだという。小学校教育の制度が変わり続け、過度な受験戦争、デジタル教育というような社会圧力は増すばかりだ。自然の中から学ぶ哲学が継承されているのだとしたら、それはとんでもない無形の宝であるということだ。
その無形の宝が継承されていく上で、「水族館」という具体的な「もの」が記念碑として存在していたことの意味は大きいのではないかというように考えている。日本唯一の小学校水族館。これは近代都市計画への抵抗の記念碑であり、本当にささやかな施設にすぎないが、子供達の興味を促す異物である。
あの小さな建築物は、海という土地の形質が凝縮してできた存在だったのだ。機会を見つけて、何十年ぶりかに「水族館」に再訪したいと思っている。
(photo = 筆者提供)
|ごあいさつ
2024年度 5期「驟雨異論」も無事予定通り配信することが出来ました。レビューする力を示した貝島桃代、難波和彦、山道拓人の各三氏には熱く御礼申し上げます。昨年は、ポストモダニズムを切り拓いてきた建築のイデオローグが相次いで亡くなりました。一つの時代の終焉を象徴的に示すものではありますが、時代は益々「困難な全体(Difficult Whole)」(R・ベンチュリー)の度を増し、建築の危機を色濃く映し出しています。この事態に立ち向かうにはむしろ硬直したイデオロギーにとらわれることのない自在な発想と、そこに生まれる共感こそが強く求められるのではないでしょうか。レビューの場を通して少しでも声を上げていきましょう。2025年度6期「驟雨異論」は樫村芙実、藤村龍至、藤原徹平の各三氏が一年間を順繰りにレビューを展開してゆきます。ご期待ください。
2025/04/10
真壁智治(雨のみちデザイン 企画・監修)
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