雨と生きる。雨を活かす。雨の文化創造を考える。

 
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 建築時評コラム 
 新連載|にわか雨の如く、建築に異議を申し立てる時評 

その不意さ加減の面白さ、深刻さを建築の時評に。建築のここが変だ、ここがオカシイ、建築に声を上げる「驟雨異論」。 にわか雨が上がるのか、豪雨になるのか!?


 
布野修司(ふの・しゅうじ)

 
建築評論家・工学博士。1949年島根県生まれ。東京大学助手、東洋大学助教授、京都大学助教授、滋賀県立大学教授、副学長・理事。2015年より日本大学特任教授。日本建築学会賞論文賞(1991)、著作賞(20132015)、日本都市計画学会論文賞(2006)。『戦後建築論ノート』(1981)『布野修司建築論集ⅠⅡⅢ』(1998)『裸の建築家 タウンアーキテクト論序説』(2000),『曼荼羅都市』(2006)『建築少年たちの夢』(2011)『進撃の建築家たち』(2019)『スラバヤ』(2021)他。

SYUJI FUNO #1     2021.05.20

フェイクとオーセンティシティ:建築の虚偽構造

 

隈研吾の「角川武蔵野ミュージアム」

 

「角川武蔵野ミュージアム」外観。「大地から隆起してきたような」あるいは「大地の深いところに突き刺さっているような」建築にしたかったというが、知恵の象徴ミミズク(ミネルヴァ)の図像は必要だった?


角川武蔵野ミュージアム」のグランドオープンに合わせて、『 建築ジャーナル』誌( 西川直子編集長)が、「隈研吾はなぜもてるのか。……」と「隈研吾と日本社会」( 20211月号)という特集を組んだ(※ 1)。確かに、 隈研吾には次々に仕事が舞い込んでいる。現在進行中のプロジェクトが 22もある。スタッフは、東京 233、北京 24、上海 22、パリ 36314名、スタッフ名を全て公開するのはその初心を示しているが、アトリエ事務所が設計組織事務所に匹敵する規模になるのは、黒川紀章以来であろうか( ※2)
 

※1 2021年1月号。角川武蔵野ミュージアムの竣工を契機とした特集である。石川義正(文芸評論)、阿部潔(社会学)、小笠原博毅(社会学)といったの論客が隈研吾の言説と建築の間(ギャップ)を問い、山中想太郎が加わった座談が行われている。また、香月真大三井嶺山本至といった30歳代の建築家が隈研吾の建築をめぐって議論している。議論は、そのデビュー作「M2ビル」また「新国立競技場」など他の作品に及ぶ。総じて、隈研吾について厳しい。
※2 隈研吾建築都市設計事務所という命名は、黒川紀章建築都市設計事務所を意識したのだと思う。日本版ウィキペディアには「同級生の多くは当時話題の新鋭・安藤忠雄に憧れていたが、隈はその逆を行くことを選択し、アトリエ系事務所ではではなく、社会に揉まれるためにと大手設計事務所の日本設計に就職した。 その後、戸田建設……を経て、1990年に隈研吾建築都市設計事務所を設立する。」とある。

 

痩せ細る公共建築

 

「守山市立図書館」の外観と内観。


 隈研吾には、 『10宅論―10種類の日本人が住む10種類の住宅』1986)以降、多くの著作がある( ※3)。学生の頃から知っているけれど( ※4)、「 ドーリック南青山」「 M2ビル」( 1991)のいささか時代遅れのポストモダン風デビュー作に違和感を抱いたせいであろう、その作品、著作に特に興味抱くことことはなかった( ※5)。改めて興味をもったのは(※ 6)、「 滋賀県新生美術館」(建設白紙中断)( ※7)守山市立図書館」( ※8)2018年竣工)で隈研吾の提案に直接触れて以降である(※ 9)。痛切に感じたのは、公共建築が実に痩せ細っていることである。しかるべくプランニングして、鉄骨の柱梁を組み、外壁に今や隈建築の代名詞となっている木質パネルをルーバー状に取り付ける、それだけである。
 

※3 石川義正は、専ら、隈の住宅論の問題を「住宅を純然たる消費の対象とみなすことで、住宅の設計と建築、そして「住まう」という行為そのものから主体性を剝奪する隈の論理構成である」と批判している(「隈研吾のパラドックス」同特集)。隈研吾が、2007年3月に提出した学位請求論文は「建築設計・生産の実践に基づく20世紀建築デザインと大衆社会の関係性についての考察」(慶應義塾大学博士(学術))である。
※4 隈研吾は、竹山聖と同級生で、僕も出入りしていた原広司研究室の一期生である。竹山聖は、1992年からずっと京都大学で同僚であったから、隈の動静はそれなりに知っていたし、僕が座長を務めた「建築文化・景観問題研究会」(19921995/建築技術教育普及センター/建設省)では一緒したこともあった。
※5 磯崎新、原広司以下、9人の建築家の軌跡、建築理論、設計方法をめぐって『建築少年たちの夢 現代建築水滸伝』(2011)を書いたのであるが、1950年生まれ以後の内藤廣以下、妹島和世、隈研吾、竹山聖といった建築家は他日を期すつもりだった。
※6 斎場(東京メモリードホール)にリノヴェーションされた「M2ビル」は、義理の父母2人の葬儀に参列してよく知っているがー乗用車用のエレベーターが柩用に絶妙に転用されているー、また、「アオーレ長岡」は、共に日本建築学会業績賞を得た森民夫前市長が僕の同級生ということもあってじっくり見る機会があったけれど、他に、特に隈の作品を見て回る機会はなかった。その後、2018年に東京ステーションギャラリーで開催された「くまのもの」は観たし、守山図書館の竣工式で、隈自身が自らの作品を語る講演を聞く機会はあった。
※7 設計者選定委員会は、布野修司(委員長)、伊東豊雄(副委員長)他。第二次審査に残ったのは、山本理顕、隈研吾、青木淳日建設計SANAAが実施決定者に決定したけれど。入札不調で設計変更。コンペで選定された設計趣旨を事務局と設計者で勝手に変更したと県議会で追及され、新知事が白紙撤回を決定した。この過程にも、日本の建築界の不明朗な構造が浮かびあがった。当事者として忸怩たるものがある。
※8 設計者選定委員会は、布野修司(委員長)、平尾和洋他。
※9 「守山市立図書館」の設計コンペに隈研吾案を決定した後、ソフィー・ウダール+港千尋『小さなリズム 人類学者による「隈研吾」論』(2016)を隈研吾から送ってもらったのであるが、その時には「新国立競技場」の設計者は決まっていなかった。この『小さなリズム』には、東京ミッドタウンの企画設計過程が扱われるが、新国立競技場の設計施工過程の記録が欲しいと思う。

 

ファサード職人

 
 隈研吾を建築学生たちは「ファサード職人」と呼んでいるという( ※10)「ポストモダン建築に巻き込まれた後、自然素材や日本建築のなかで伝統的に用いられてきた素材(石、竹、紙……)の哲学を主張する建築家として、その後の隈は知られるようになる」(ソフィー・ウダール( ※11))というが果たしてそうか。花崗板の外壁は分厚い、しかし、あくまで外装材である。外壁全体は大地に突き刺さったマッシブなオブジェクトに見えるが、「石の建築」といえるのか。内部は無窓の空間で、鉄の骨組と空調ダクトは剥き出しにされている。三角形に分割された陰影を生む壁面が構成されるが、隙間から内部に光が取り込まれることはない。「スキン」と「ボディ」が分離されている。
 

「角川武蔵野ミュージアム」外装の花崗岩。


 「角川武蔵野ミュージアム」は「 ところざわサクラタウン」( ※12)の構成要素であるが、他の施設をつなぐ階段や外部通路を三角形の鉄製パネルで覆い隠すのは隈の監修であろう、表層デザインと躯体を切り離す基本は同じである。 「私にとって、木の建築の集大成が国立競技場なら、石の建築の集大成が角川武蔵野ミュージアムだ。2つの巨大プロジェクトがほぼ同時に進み、2019年と2020年にそれぞれ完成したことは非常に感慨深い」(川又英紀、日経クロステック)と言うが、新国立競技場は「木の建築」と言えるのか、「角川武蔵野ミュージアム」は「石の建築」と言えるのか。フェイクである。
 

※10 山本至の発言。「僕ら建築学生の間では隈さんを「ファサード職人」と呼んでいました」(「隈建築を巡る旅」同特集)。
※11 小さなリズム 人類学者による「隈研吾」論』(2016)。
※12 このプロジェクト全体については別稿が必要であるが、神社にはいささか驚いた。松岡正剛赤坂憲雄荒俣宏といった当代の文化人の参加を得て議論が積み重ねられた、所沢市と角川グループの共同によるユニークなプロジェクトであるが、その成否はいずれはっきりするであろう。座談会「建築の意義を問い直す」(同特集)は、隈研吾とポピュリズム、メディアとの関係、ライトノベル、アニメといったサブカル・コンテンツを問うている。日本のリーディングアーキテクトとなった安藤忠雄の仕事について、「日本社会」の内側を透視するという視点が成り立つであろうか。独学で建築を学び、東大教授になり、文化勲章を授与されたそうした履歴は、あくまで個人の仕事であり、サクセスストーリーである。しかし、東京オリンピックのための「新国立競技場」建設をめぐる経緯において、結果として設計者に決まった隈研吾の立ち位置は、日本社会の政界と建設業界の内側を垣間見させていた筈である。

 

シャム・コンストラクション

 

「とこざわサクラタウン」外観。

 
 かつて、『 建築雑誌』誌上で「 虚偽論争」と呼ばれるやりとりがあった。明治末から大正にかけて、木骨被覆構造、すなわち構造は木造、被覆材は煉瓦、石または漆喰といった洋風の外観をもつ建物が多く建てられた。これを「 虚偽構造Sham Construction」としたのが 山崎静太郎である。
 
 論争は、中村達太郎が「虚偽建築なりや否」( 19159月号)を書き、これに対して山崎が反論( ※13)、さらに中村が応じた( ※14)のが発端である。この間には、 野田俊彦が「 建築非芸術論」(1915年10月号)を書き、 後藤慶二松井貫太郎らが参戦、建築の本質をめぐる議論が展開されていった。山崎は全く建築構造と無縁のファサード建築を「 泥棒建築」とまでいう。中村はそれは「虚偽建築」であるが、山崎の「虚偽建築」は「被覆建築」であって虚偽ではないという。 後藤慶二も、虚偽構造は意匠の問題で構造自体は虚偽ではないとする( ※15)。ただ外観を立派に見せたいという虚偽の目的による「 被覆建築」には反対する。さらに、建築に虚偽が施されていたとしても,使用者がその虚偽を虚偽だと認識しなければ,問題がないとする( ※16)
 

※13 山崎静太郎「虚偽建築に就いて中村先生へ」(1915年11月号)
※14 中村達太郎「再び虚偽建築に就いて」(1916年1月号)
※15 後藤慶二「虚偽意匠に就いて」(1916年3月号)
※16 後藤慶二「形而下の構造に対する形而上の批判」(1916年7月号)

オーセンティシティとは?

 

「角川武蔵野ミュージアム」内部の巨大な吹き抜け。水浸しの本棚。


 山崎の立場すなわちモダニズム建築あるいは構造デザインの立場からみれば、「角川武蔵野ミュージアム」は明らかに「虚偽建築」である。そして、中村達太郎、後藤慶二の立場でも、フェイクということになるだろう。
 
 巨大な吹き抜け空間は、プロジェクションマッピングのためで、本も本棚も内装材として使われているかのようである。何万点もの本もその多くが手の届かない空中に浮かぶだけで手に取ることができない、カヴァーだけのフェイクだとしても変わりがない。隈研吾は、大きく転換したというけれど、「ドーリック南青山」「 M2ビル」( 1991)からより、むしろ一貫していると見た方がいいのではないか。しかし、今日、建築のオーセンティシティとは何か?
 
 今や、日本社会全体がフェイクで充たされつつある。後藤慶二に言わせれば、フェイクも使用者がそうと認識しなければフェイクではない。隈研吾の建築がもてはやされているのだとすれば、日本社会がフェイクと化しつつあることを象徴しているのであろう。 

|ごあいさつ

 建築・都市の批評を共有する新しい場づくりを、との主旨から企画された「驟雨異論」。無事、初年度(2020年)分のWEB発信が果たせました。
 
 「驟雨異論」は分野・世代の出自を横超する3氏の執筆者が1年間に渡り、順繰りに時評をリレー式に各4本ずつ連載します。執筆者3氏のシナジーも楽しみで、建築・都市への骨太な時評が期待されるものです。
 
 2020年度の執筆にあたって頂いた北山恒、野沢正光、山本想太郎の各氏には、改めて御礼申し上げます。どれもが期待に違わぬ視点の定まった批評性を示すものでした。大変お疲れ様でした。
 
 遡って考えれば、「驟雨異論」の船出は、コロナ禍での緊急事態宣言発出の最中でした。それはウィズコロナ社会の事態が一気に社会の矛盾をあぶり出す気配と眺めとを示す契機となるものでもあり、建築・都市への批評に大きな問題意識を共有するチャンスでもあります。私は、こんな折からの「驟雨異論」の船出をまさに、時機を得たものと想っているのです。
 
 新年度2021年の新たな執筆者の陣容は、太田佳代子、布野修司、連勇太朗の各3氏となります。一層の批評の多彩さと面白さとが炸裂するはずです。ご期待ください。
 

2021/03/19

真壁智治(雨のみちデザイン 企画・監修)
 

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