建築時評コラム 
 連載|にわか雨の如く、建築に異議を申し立てる時評 

その不意さ加減の面白さ、深刻さを建築の時評に。建築のここが変だ、ここがオカシイ、建築に声を上げる「驟雨異論」。 にわか雨が上がるのか、豪雨になるのか!?


 
南後由和(なんご・よしかず)

 
1979年大阪府生まれ。明治大学情報コミュニケーション学部准教授。社会学、都市・建築論。東京大学大学院学際情報学府博士課程単位取得退学。デルフト工科大学、コロンビア大学、UCL客員研究員などを歴任。主な著書に『ひとり空間の都市論』(ちくま新書、2018)、『商業空間は何の夢を見たか』(共著、平凡社、2016)、『建築の際』(編、平凡社、2015)、『文化人とは何か?』(共編、東京書籍、2010)など。
 
URL:個人ウェブサイト
明治大学情報コミュニケーション学部南後ゼミ

YOSHIKAZU NANGO #1     2022.06.21

立体交差する空間の表象—映画『ジオラマボーイ・パノラマガール』

 

『ジオラマボーイ・パノラマガール』のDVDジャケット。


  東京オリンピック・パラリンピック2020の会期終了約2ヶ月後、会期中は 東京ベイゾーンと呼ばれていた有明や晴海などの会場跡地を歩いた。 国立競技場代々木体育館のあるヘリテッジゾーンを大きく上回る数の競技施設が新設された東京ベイゾーンでは、仮設は早くも解体工事が終えつつあった。常設はそのままでは継続使用が難しいため、文化イベントなどにも活用できるよう改修工事中であった。至るところに工事壁がはりめぐらされ、クレーンが稼働し、ダンプカーが行き交っていた。
 東京オリンピック・パラリンピック2020は、バブル崩壊と 世界都市博覧会の中止などによって頓挫していた東京ベイゾーンの大掛かりな再開発に着手する恰好の政治的な機会とされた。ヘリテッジゾーンと異なり、東京ベイゾーンの競技施設は仮設が多くを占めていた。むろん、このことは大会予算や会期後の維持費などを考慮しての判断によるものだが、オリンピック以前・以後の変化は、会期終了約2ヶ月後の時点ですでに把握しがたいものとしてあり、オリンピックの「レガシー」とは何かを問いただしたくなるような状況であった。
 たえず工事中であるスクラップ・アンド・ビルドの風景は、オリンピック以前から見られたものである。タワーマンションをはじめとする巨大建築物が次々と建設され、道路や埋立地が拡張される東京ベイゾーンは、垂直方向と水平方向のどちらにおいても、輪郭がたえず書き替えられ続けている特異な場所である。
 

 
 連載1回目は、このような東京ベイゾーンを舞台とし、オリンピックに向けて街並みが変わりゆく2019年に撮影された瀬田なつき監督・脚本の映画『ジオラマボーイ・パノラマガール』(2020)における都市表象について書くことにしたい。原作は、バブル期の1988年に連載し、翌年に単行本化された岡崎京子の同名の漫画だ。
 『ジオラマボーイ・パノラマガール』は、主人公で16歳の高校生・渋谷ハルコ(山田杏奈)と神奈川ケンイチ(鈴木仁)による橋の上での偶然の出会いからはじまる視線の交錯、その後のお互いのすれ違いや平行線をたどる恋の行方を描いた「ボーイ・ミーツ・ガール」の物語となっている。原作は80年代の郊外を舞台としていたが、映画は2019年の東京湾岸エリアに舞台を移している。
 都市および文化の「中心と周縁」の図式からすれば、東京湾岸エリアは周縁に位置するものとして語られがちであった。しかし、ハルコたちにとって東京湾岸エリアは自分たちの家があり、日常生活が営まれる場にほかならない。映画ではハルコが住む家や高校までの通学路に、有明アリーナをはじめ、東京オリンピック・パラリンピック2020に向けて工事中の競技施設が映り込んでいる。誰かにとっての非日常は誰かにとっての日常であり、その逆もしかりである。日常と非日常は隣り合わせであり、日常のなかに非日常的の契機が潜んでいるともいえるだろう。
 

 
 ハルコたちが暮らす東京湾岸エリアは、陸海空が交差する場所である。空は飛行機、川は船、橋は車が行き交い、高架の上ではゆりかもが走っている。東京湾岸エリアでは、さまざまな速度を持った交通の動きを支えるインフラが縦横無尽に立体交差している。
 『ジオラマボーイ・パノラマガール』は、この「第二の自然」としての地形である立体交差を活かした、都市をめぐる空間論的な舞台設定がとても興味深い。ここでいう空間論的な舞台設定とは、主に階段・陸橋・歩道橋といった立体交差する空間、高さと低さの対比などを指す。
 主人公のハルコとケンイチは、それぞれ学校に出かける朝の場面から登場する。この登場の場面から空間論的な舞台設定は明快になされており、まずはハルコ家族とケンイチ家族の住む家が対比的に描かれている。ハルコはマンションの最上階に住んでおり、窓の先には東京湾岸の風景が広がっている。それに対し、ケンイチは東京の下町にある縁側付きの木造一軒家に住んでいる。
 通学の場面では、ハルコは玄関を出て外廊下を駆け足で”まっすぐ“進み(実は2階下の外廊下を歩く人とお互い気づかぬかたちですれ違っている光景がカメラに捉えられている)、ゆりかもめの最寄り駅までの平坦な道を走っていくのに対し、ケンイチは1階の窓から少し空を見上げ、次に身をかがめながら梁をくぐり抜けて部屋の中を歩き、家を出てからは自転車で坂道を“のらりくらり”と蛇行しながら上る。この“まっすぐ”と“のらりくらり”という対比は、ハルコのケンイチへの想いの寄せ方と、ケンイチの女性との向き合い方や生き方とも重なり合っている。
 ハルコの住むマンションは、近年の東京湾岸エリアの景観を象徴するようなタワーマンションではない。東京湾岸エリアの風景を見渡し、見下ろせるような高さには位置していない。マンションの下層階はスクリーンのフレームの外にあるため、何階建のマンションかはわからず、観客は宙吊りの状態におかれる――エンドロールのクレジットから14階建ての門前仲町スカイハイツであろうことがわかる。ハルコ家族が暮らすマンションの住戸は最上階といえど、低層でも高層でもない「中層」と呼ばざるをえない。その位置は独特の浮遊感をまとっている。
 この映画が捉える「中層」は、マンションだけではない。橋もそうである。ハルコとケンイチは有明北橋で何度もすれ違う。有明北橋は、ゆりかもめと東雲運河のあいだの「中層」に位置している。2人が最初に偶然出会って会話を交わす中央大橋は、隅田川にかかる斜張橋であり、川と空の「中層」にある。
 この場面では、ハルコは立ったままであるのに対し、ケンイチは地面に伏せている。身長はハルコが低く、ケンイチが高いが、垂直と水平の姿勢の対比により、お互いの高低差が反転する。そしてハルコがケンイチを見下ろし、ケンイチがハルコを見上げるかたちで、視線は斜めに交差する。物理的な立体交差である橋の上で、2人の高低差によって視線が交差するという二重の立体交差が生まれている。
 この映画が捉える「中層」の特徴は、それが単に高さのみを指し示しているのではなく、歩道橋や渡り廊下など、斜めや複数の動線によって立体交差している点にある。たとえば、下記の場面などが挙げられる。
 
・ハルコが通う高校の4層回廊型のガラス張りの渡り廊下
・ハルコが同級生2人と地上でスケートボードに乗るケンイチを見下ろし、ケンイチがハルコたちを見上げるかのように見える歩道橋
・クラブイベントから逃げ出したハルコが佇む渋谷の雑居ビルの階段
 
 これら立体交差する空間は、何かが始まる予感に満ちているとともに、そこでは主人公たちの紆余曲折やすれ違いが展開する。
 立体交差する空間は、高低差があり、そこを歩く人の視線の向きや進路も異なる。それぞれが同じものを見ているかもしれないし、別のものを見ているかもしれないという、視線が交錯する場でもある。
 また立体交差する空間は、図式的な明瞭さを持っているが、視覚的には不連続な場所や見えない場所がある。これら立体交差する空間が映画のフレームで切り取られることで、観客は期待あるいは不安とともに、フレームで途切れた動線の先から入ってくるものと出ていくもの、互いの距離を伸び縮みさせながら無関係に動いているもの同士を同時に知覚することになる。
 映画において、主人公たち自身はすれ違っていることに気づいているわけではない。その場面がフレームで切り取られることによって、登場人物たちのすれ違いが成立する。なかでも、上述の歩道橋の場面は、実はハルコたちとケンイチがいる場所および時間は異なるが、それぞれのカットがつなげられることで、時空を超えたすれ違いが生じているように見えるのが面白い。
 

 
 興味深いことに、「中層」という物理的な位置が醸し出す宙吊り感は、ハルコたちの人物描写にも一役買っている。「中層」の宙吊り感が、高校生という人生の輪郭や道筋が見えない10代の中途半端などっちつかずの状態、恋愛に翻弄される浮遊感などと呼応しているのだ。社会学者のゲオルグ・ジンメルが論じたように、橋には「結合」と「分離」という両義性がある(ゲオルグ・ジンメル『橋と扉』酒田健一ほか訳、白水社、2020)。出会いと別れといった恋愛の駆け引きが展開される場としても相性がよい。
 映画『ジオラマボーイ・パノラマガール』の「中層」が醸し出す宙吊り感や浮遊感は、地面のあり方とも関係している。たとえば、ハルコとケンイチがゴキブリの群れに遭遇し、あたふた飛び跳ねる道路や、ハルコが同級生と寝転がって明け方の空を見上げる埠頭などだ。そもそも東京湾岸エリアの土地は、埋立てによって造成された人工の土地である。大地とは似て非なる、東京湾岸エリアの地面の不確かさも、ハルコたちの「ボーイ・ミーツ・ガール」の物語をめぐる地に足がつかない宙吊り感や浮遊感と結びついている。
 

 
 最後に、映画のタイトルにある「ジオラマ」と「パノラマ」が、オープニングとエンディングで鮮やかに切り取られていることにも触れておこう。オープニングでは、カメラのパン(横移動)によるカットが、東京湾岸エリアの複数の場所を切り替えてつなげられている。これによりカメラが周回しているかのような効果を生みながら、「パノラマ」的風景が映し出されている。具体的には、お台場の潮風公園や首都高速湾岸線の換気塔付近から始まり、選手村が建設途中の晴海や豊洲を経由して、ハルコの住むマンションの窓からの眺めに至り、カメラは固定する。凹凸のスカイライン、大小さまざまなサイズの建築物に加え、カメラの距離と被写体である高層建築群との距離が近いカットが混在することで、東京湾岸エリアの人工的な印象が強まり、「パノラマ」的風景は「ジオラマ」のようにも見えてくる。
 またそれぞれのカットは、撮影された場所のみならず、時間帯も異なる。そのため、時間の移り変わりという要素を含んだ「パノラマ」的風景には、朝昼夜のサイクルという日常の反復と同時に、映画の物語における昼(子ども)の世界から夜(大人)の世界への移行という非日常的な出来事の成り行きが暗示されていると見ることもできるだろう。
 エンディングでは、オープニングとは対照的にカメラは長時間固定されたままで、東京オリンピック・パラリンピック2020に合わせて開通した環状2号線の豊洲大橋付近から、都心を臨む「パノラマ」が映し出されている。建物屋上の柵の手前にはハルコの妹をはじめとする少年少女たち、奥には都心の巨大な高層建築群がほぼ同じサイズで映っている。「動いている車とか人とか、全部おもちゃみたいや」という台詞にも表れているように、カメラが距離をとって遠くから都心を対象化することで、巨大な高層建築群のスケールが縮小している。少年少女たちと高層建築群のスケールの組み合わせが、東京という都市の「ジオラマ」感を醸し出している。
 さらにエンディングのカットは、運河、高層建築群、空それぞれの輪郭線を際立たせている。そして、これらの輪郭線が形作る都市の多層性の「中層」には、工事現場のクレーンが見える。「中層」は何かが終わり、別の何かが始まろうとする契機をはらんでいる。

|ごあいさつ

 2021年度の建築・都市時評「驟雨異論」を予定通りに配信することができました。太田佳代子、布野修司、連勇太郎の執筆者各3氏に改めて御礼申し上げます。それぞれの関わる分野、立ち位置、キャリア、そして世代の違いから見えてくる問題意識の多彩さと語り口に興味を抱かされた一年間でした。本当にご苦労様でした。
 
 2022年度では新たな執筆者の陣容として、千葉学、黒石いずみ、南後由和の3氏が登場します。3氏のシナジーがどのような批評空間を生み出すのか大変楽しみなところです。
 
 これまで建築・都市時評を通して、広く「問題」(批評)の所在を共有することを狙いにウェブマガジン「雨のみちデザイン」に新たなコンテンツとして「驟雨異論」がスタートしたのが2020年。
 
 次のステップとして、そこから多くの思考や批評が反応・応答としてつながることを望みたい。そのためにも、建築系コンテンツのレビュー空間に加わるべく、2022年度より「驟雨異論」をnoteからも配信していきます。noteでの「驟雨異論」ではレビューアー別に時評が構成され、アーカイブ性を保つことで、レビューアーの持ち味に出会えるものとしていきます。
 

2022/03/18

真壁智治(雨のみちデザイン 企画・監修)
 

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