建築時評コラム 
 連載|にわか雨の如く、建築に異議を申し立てる時評 

その不意さ加減の面白さ、深刻さを建築の時評に。建築のここが変だ、ここがオカシイ、建築に声を上げる「驟雨異論」。 にわか雨が上がるのか、豪雨になるのか!?


 
南後由和(なんご・よしかず)

 
1979年大阪府生まれ。明治大学情報コミュニケーション学部准教授。社会学、都市・建築論。東京大学大学院学際情報学府博士課程単位取得退学。デルフト工科大学、コロンビア大学、UCL客員研究員などを歴任。主な著書に『ひとり空間の都市論』(ちくま新書、2018)、『商業空間は何の夢を見たか』(共著、平凡社、2016)、『建築の際』(編、平凡社、2015)、『文化人とは何か?』(共編、東京書籍、2010)など。
 
URL:個人ウェブサイト
明治大学情報コミュニケーション学部南後ゼミ

YOSHIKAZU NANGO #3     2022.12.23

『サザエさん』にみる「ひとり空間」とカウンターカルチャー

 
 先日、都市の「ひとり空間」について、新聞社からの取材を受けた。マスコミからの取材では、想定の範囲内の質問をされることがしばしばある。想定の範囲内の質問とは、こちらがすでに書いたことや考えたことがあるような事柄についての質問である。
 ところが、先日の取材は長谷川町子『サザエさん』4コマ漫画(『朝日新聞』1968年9月25日朝刊)が資料として送られてきて、この漫画が描かれた当時とコロナ禍の現代都市との比較についてのコメントをもらいたいというユニークな依頼だった。この漫画は1968年に描かれたものである。にもかかわらず、現代都市の人びとのコミュニケーションのあり方を考えるうえで示唆に富み、日本の「ひとり空間」の特徴が凝縮されたような内容ともなっており、触発されるところが多かった。
 実際の記事はリンク先を見ていただくとして、今回は先日の取材の番外編として、この『サザエさん』の漫画をもとに考えたことについて書きたい。

 

 まずは、4コマ漫画の内容を紹介しておこう。舞台は、焼き鳥の屋台のカウンターである。
 

「サザエさん」『朝日新聞』1968年9月25日朝刊 ©︎長谷川町子美術館

 

 1コマ目は、おそらく仕事帰りなのだろう。サザエさんの父親である磯野波平が、屋台へ第一の客として「ひとり」でやって来る。ここでの「ひとり」とは、単に1人という人数のみならず、家族や職場の同僚などの帰属集団から離脱した、匿名的な状態にあることを指す。イギリスの社会学者ジョン・アーリが指摘する、家と学校・職場などの移動の合間にある「中間空間」が、そのような「ひとり」の状態が空間化された「ひとり空間」と相性がよいことは今も昔も変わらないのだろう(ジョン・アーリ『モビリティーズ――移動の社会学』吉原直樹・伊藤嘉高訳、作品社、2015)。
 そもそも屋台と「ひとり空間」には、歴史的に長いつながりがある。東京以前の江戸も、上方などから単身で上京した商人などの多くの「ひとり」が暮らす都市であった。それら多くの「ひとり」が飲食をする場として天ぷらや寿司の屋台、寝泊まりする場として長屋という形態が普及した。屋台は、江戸から続く「ひとり空間」の祖型のひとつである。
 

「サザエさん」『朝日新聞』1968年9月25日朝刊 ©︎長谷川町子美術館

 

 2コマ目は、屋台の店主と波平が会話を交わしているが、店主は視線を合わそうとしない。
 日本では、たとえばエレベーターで見知らぬ人と同乗した際、互いに視線を合わせないことの方が多い。日本人は他者からの視線、他者からどう見られているかを過剰に気にするという語りもクリシェとなっている。
 かつてアメリカの人類学者エドワード・ホールが、「日本人は、視覚的にはいろいろな方法で遮断をおこなう」(エドワード・ホール『かくれた次元』日高敏隆・佐藤信行訳、みすず書房、1970、p.68)と指摘したように、日本では衝立や襖などの視線を巧みに遮断する、可動式の「間仕切り」が昔から取り入れられてきた。
 ただし、いまや遮断する対象となっているのは視覚だけではない。ホールは日本人が視覚の遮断を好む傾向にあることに言及したが、そもそも外界から聴覚を遮断するウォークマンが発明された国も日本である。その延長線上に位置づくものとして、現代ではノイズキャンセリング・イヤフォンの着用によって、聴覚を遮断して周囲から離脱し、より精度高く最適化された「ひとり空間」を持ち運びながら移動する人が増えた。
 

「サザエさん」『朝日新聞』1968年9月25日朝刊 ©︎長谷川町子美術館

 

 3コマ目は、波平の右隣に第二の客が座っている。コマ割りの場面展開から、この第二の客も「ひとり」で屋台を訪れていることがわかる。そして、波平がカウンターの左にある「間仕切り」は何のためにあるのかと店主に尋ねると、「こどくを愛するお客のちゅうもんで」という返事が返ってくる。
 この店主の返事には、現代まで続く日本の「お客様至上主義」の一端が垣間見られる。「お客様は神様」という言説に見られるように、日本の接客業の手厚さ、時に過剰なまでのへりくだりは国内外で広く知られている。コンビニやスーパーへ行けば、単身者の増加に対応した、「ひとり」用に包装された惣菜や菓子類の商品が並んでいる。コロナ禍では、自宅にいる時間が増え、飲食店での会合が「自粛」されたことにより、リモート飲み会の機会が増えた。そこで自宅のPCやスマートフォンの前で、焼き鳥を焼いたり、熱燗を温めることのできる「ひとり飲みキット」が発売された。新築マンションでは、リモートワークに対応した書斎スペースを設けた間取りが素早く取り入れられた。
 こういった日本社会における「お客様」のニーズを敏感かつ迅速に察知し、商品化するスピードの速さには目を見張るものがある。日本の都市の「ひとり空間」の多くが、カプセルホテル、漫画喫茶、ひとりカラオケ店、ひとり焼肉店のように有料の商業空間であることも、「ひとり」向けのサービスをパッケージ化した空間を商品として提供しようとする「お客様至上主義」と無縁ではない。
 

「サザエさん」『朝日新聞』1968年9月25日朝刊 ©︎長谷川町子美術館

 

 そして4コマ目は、これまた「ひとり」でやって来た第三の客が「間仕切り」の中に身を置き、周囲からの視線を遮断しながら酒を頼む。「間仕切り」は、他の客からの視線を遮断する装置であると同時に、話しかけないでほしいというサインにもなっている。
 屋台は、都市社会学者の磯村英一の言葉を借りれば、「第一空間」である家、「第二空間」である職場や学校とは異なり、家族や同僚などの帰属集団から離脱し、匿名性もしくは半匿名性の確保された「第三空間」といえる(磯村英一『人間にとって都市とは何かNHKブックス、1968)。ただし、屋台のような狭小で、店主と客、客同士の距離が近い「第三空間」では、必ずしも「ひとり」になれるわけではない。そこでは店員と客、客同士の会話、常連と新規客の間のヒエラルキー、客に求められる作法など、独特の規範や慣習、いわば屋台のカウンターならではの“カウンターカルチャー”がある。

 
 ところで、この漫画が描かれた1968年は、パリの五月革命に代表されるような学生運動、組織からの離反を唱え、異議申し立てを繰り広げる反体制の“カウンターカルチャー”が日本でも盛んだった時期である。建築の分野では、個人に焦点を当て、そのライフスタイルの変化に応じて取り替えることを想定したカプセル建築に象徴される、メタボリズムが台頭していた。
 これらの時代背景を踏まえるなら、少し飛躍した見方かもしれないが、漫画に登場する屋台の「間仕切り」は、まるで出前の食べ物を持ち運ぶ桶である岡持ちを転用した形をした、バリケードの派生形のように見えてくる。すると、この『サザエさん』の4コマ漫画は、屋台のカウンターで見られる独特の規範や慣習という“カウンターカルチャー”と、既存の体制や組織に対する抵抗という“カウンターカルチャーが掛け合わされたものとして前景化してくる。しかも、「間仕切り」はカウンターの左(左翼)に置かれているではないか。
 第三の客が何に鬱屈を感じ、何の憂さ晴らしにこの屋台へやって来たのかは謎だが、「間仕切り」によって、屋台の客同士のコミュニケーションを拒否しており、屋台の“カウンターカルチャー”への抵抗の意思表示をしていることはたしかだろう。
 ただし、そのバリケード風の「間仕切り」も、お店側から用意されたもの、言い換えるなら、「囲い込まれたもの」であるという点は、1970年代以降、“カウンターカルチャー(対抗文化)が消費の対象として資本主義に取り込まれていくことの予見にもなっているし、日本の「ひとり空間」とお客様至上主義との結びつきの根深さを見てとれる。

|ごあいさつ

 2022年度3期の建築・都市 時評「驟雨異論」を予定通りに配信することができました。これも偏にレビュアー千葉学黒石いずみ南後由和、三氏の真摯な問題意識からの発言に緊張感がこもるからこそのものです。執筆者三氏に改めて御礼申し上げます。建築・都市への眼差しが自在・闊達になることを念頭に「驟雨異論」では益々の面白さと熱気を帯びた発言を引き出してゆきたい。2023年度4期では、小野田泰明中島直人寺田真理子、各氏のレビュアーが登場します。
 

2023/04/6

真壁智治(雨のみちデザイン 企画・監修)
 

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