建築時評コラム 
 新連載|にわか雨の如く、建築に異議を申し立てる時評 

その不意さ加減の面白さ、深刻さを建築の時評に。建築のここが変だ、ここがオカシイ、建築に声を上げる「驟雨異論」。 にわか雨が上がるのか、豪雨になるのか!?


 
野沢正光(のざわ・まさみつ)

 
1944年東京生まれ。1969年東京藝術大学美術学部建築科卒業。1970年大高建築設計事務所入所。1974年野沢正光建築工房設立。現在、横浜国立大学建築学科非常勤講師など。主な作品として「熊本県和水町立三加和小中学校」「愛農学園農業高等学校本館」「立川市庁舎」「いわむらかずお絵本の丘美術館」など。著書に「環境と共生する建築」「地球と生きる家」「パッシブハウスはゼロエネルギー住宅」「住宅は骨と皮とマシンからできている」など。

MASAMITSU NOZAWA #2     2020.08.20

悪意へ誘導する法とは?

写真・図版提供:野沢正光建築工房

「法」がこの景観を誘導している

 
  鷲田清一氏の朝日新聞朝刊の人気コラム 「折々の言葉」510日は 奥本大三郎氏のエッセイ 「蝶の唆え(おしえ)」からの引用である。 「嫌なことを我慢することはない。今まで通りでよいのだ。第一、お前には、嫌なことなんてできないし、続かないではないか。」そして、外題で引いた部分の後に 「人間の悪意を想定した法律書なんかより美しい文章を読もう」というくだりがあると解説する。改めて気づかされる。奥本氏の指摘によらずとも、一般に法律は人間の「悪意」を想定しているのである。
 
 とすると、 「建築基準法」も人間の悪意を想定しているのかと改めて問うことになる。我々はそう考えて基準法に向き合っているだろうか。これが悪意を想定したものであるとすれば建築基準法に適合しているということはどういうことと考えればいいのであろうか。
 
 確かに基準法は巷間言われるごとく建築のあるべき「最低基準を定めたもの」ということのようだ。つまりこれより一歩先は犯罪である、悪である、だから処罰の対象であり違反する計画は建設が許されないし ことによれば建築物は当然解体を命じられることになる、最低基準を満たす、とはそういうことであろう。基準法適合は塀の一歩向こうは「悪」、処罰の対象となる、そうした状況の意ということになる。苦労した末に確認申請がやっと通過したその後、ほんとうにそう考えたことはあるか。
 
 人間の悪意を想定した法、例えば人と人との争いについて考えてみる。軽微な争いから命にかかる争いまで法律は段階をおって罪を定めている。よく知るわけではないが、この国においては重罪であれば量刑は懲役刑から死刑まである。
 
 もちろん建築基準法はそうではない。この比較はあまりにも稚拙であり単純すぎる話ではある。しかし、基準法準拠が最低基準を定めるものであるとすれば、本当はそこを考えるべきことであるのではないか。確認が下りたということは例えばなんとか死刑を免れた、ということなのかもしれないのではないか。たいてい基準をクリアした当該建築は懲役 15年であるのかもしれないのではないか。建築は最低基準でいいのだろうか、そうであるはずはない。
 
 しかし現実はそうした建築物が巷にあふれる。とすれば実は建築基準法は明らかにその最低基準にすべての建築を誘導している、と考えられるのではないか。そして、それがあきれるほどひどい街を作っている。しかし、それは現行法規に適合していることにより誰一人これを問題としない。私たちの眼前の街は言ってみれば一歩先は犯罪である行為、いわば「寸止めの悪意」が作り出す醜悪な街並みなのではないか。
 
 ご存じの通り、郊外の数十年を経た穏やかな住宅地の中規模の良好な「善意」の戸建住宅が相続等の事情により売却され解体される例はあちこちにみられる。善意の住宅地の敷地は比較的ゆとりがありそこに建つ住宅は決して建蔽率ぎりぎりに建っていたりはしない。それが売却されたのち、そこにはパワービルダーと呼ばれる一群の建売業者の手による「合法狭小建売住宅群」が密集して現れることとなる。隣地との余地はこれも民法の規定する合法最小の離れ距離 50センチ、白い石が敷かれ植物の浸食を阻む。多くの場合道路側は駐車スペースがあるのみだ。
 
 基準法が最低基準とし誘導するこの住宅地の姿は従来住宅地が理想として育んできた「善意」の景観と大きく離反する姿である。死刑は免れてはいる、がしかしこの光景は先ほどの「懲役 15年」の姿と言わざるを得ないのではないか。土地と家で儲けるパワービルダーが合法ギリギリ以上のことをするはずがない。「何がいけないんですか」という声が聞こえる。全く悪びれた様子は全くない。彼らの背後に「経済」が控えている。当然ながら購入者にも「経済」は最も大きな条件である。彼らはこれを 35年のローンを組み取得することとなる。彼らになんの罪はない。今日の社会においてこうした住宅供給以外の供給をだれも担わないからである。
 
 法がおかしい。法の運用は硬直している。現状は法が厳格に運用されるから良好な街並み良好な住宅が作られるということに全くなってない。法が問題を抱えているとすればそれを改正すべきであることは言うまでもない。懲役 15年の景観は現行の法が作り出す景観であるといえるのだ。何としても法そのものを正す、またはその運用を正さねばならないのではないか。
 

建蔽率を60%とした場合の敷地規模による比較


 建蔽率について考えてみよう。現実には錯綜する複雑な条件に支配されるものではあるがここではごく話を単純化して示す。建蔽率 60パーセントとして敷地規模が狭小化することで何が起きるのか、簡単に検証してみる。以前の郊外住宅地の敷地規模は少なくとも概ね 200平米ほどであったと考えておく。約 60坪である。この国の度量衡、一反が 300坪でありこの習慣が基準となる。それをどれほどに分割するか、という規範である。60坪は5分割ということになる。このケース、6割の建蔽率が許容する建坪は 36坪、仮に敷地が図のようなものと仮定しこれも仮定だが周辺に例の 50センチメートルの余地をとる、すると前面には18坪、 60平米ほどの空地が現れる。車を置いたとしてもある程度の庭が取れよう。
 
 事情によりこの土地が2分割されたと考えてみる。 100平米、ここに許される建坪は 60平米18坪ほどである。同様に境界の余地を 50センチメートル、すると前面の空地は3メートル弱の奥行、 30平米8坪に満たず、にしかならぬ。車一台を平行に止めるのがやっとである。庭は消滅する。念の為付言すればこのケース旗竿状の敷地になることすらある。こうなると周囲はすべて 50センチメートル、余地は旗竿部となる。
 
 狭小宅地は規制すべきである。できないなら敷地面積に応じ建蔽率を変動する、このままでは住宅地は滅びる。この基準をより緩めていこうとする動きすらある。経済が優先することによる誘惑である。
 

建物周辺に庭がある敷地が細分化される前の住宅


 この状況はなにも住宅地に限らない。都市部でより顕著である。容積率のボーナスなどにより極端に肥大化し醜悪でアナーキーな景観を作り出している。都市計画不在の経済と商業が作る景観である。
 
 なんとも難しい状況だが、現況でもやれることはもちろんある。住宅を単体でなく「住宅地」とし何棟かをまとめて計画することである。私たちの計画した住宅地を見てもらおう。経済優先の分譲住宅地に幾分でも今までにない豊かさ、快適さを提案できたらと考えたのが 16戸の戸建住宅からなる 「ソーラータウン府中」である。東京都の公営住宅跡地の区画に建つ。敷地は都が条件付きで売却したものだ。相羽建設と協働し、私が設計に携わった。
 
 住宅と住宅の境界には緑があふれる。ここは共有の園路になっているが、これは古い蔵から引き出してきたような「法」、「地役権」により担保される園路である。このコモン、通常なら戸境の白い砂敷きの無用な隙間にしかならないところを長い緑地に変えたのである。今、ここは緑に覆われ、安全で穏やかな場となって我々の思いをはるかに超え住む人々を穏やかにつなぐ役割を果たしている。「地役権」、こんな「法」があるのである。悪意からほど遠いいわば善意を保護する「法」である。住宅は緑に向かって開かれ住む人々を繋いでいる。建築家、デベロッパーのやることはまだまだある。最初に引いた「嫌なことを仕事にしない、第一嫌なことは続かないではないか」という奥本さんの言葉に倣えば、この仕事は決して「嫌なこと」としてやってはならないのだ。この仕事は社会的任務と責任を伴うはずであろう。
 

竣工から7年ほど経過し緑が繁茂するソーラータウン府中(2020年8月撮影/©相羽建設/Photo = Emotional image)


 
 詳細は次回に回すが基準法の厳格な運用にも問題がある。
 
 基準法の文面が犯さざるものとして存在している。金科玉条のものとして。主事はこれに従うことのみを職能と自らを律している。果たしてそれでいいのであろうか。
 
 もうひとつより重要と考えるべき問題がある。「基準法」の基準は本当に正しいのだろうか、否である。もちろん法は刻々と改正されている。ただ必ずしもそれがよりよい環境へ向かっているのか、と考えると必ずしもそうは言えまい。さまざまな利害の力学の中にそれはあり、無理無体な都合に振り回されている。
 
 状況はなかなかきつい。法を順守しない限り計画は進捗しない。計画が進捗しなければビジネスとしての職務は果たせぬ。まあこんなもんだと思い、なんでそれ以上のことを考えなくてはいけないのか、と居直ればこの仕事は実につまらないものになる。 前川國男が理想とした社会的職能は一寸も果たせない。
 
 確認を通す、現場で私たちが遭遇する状況は、一字一字を追い精密に基準法適合するかをチェックする作業である。そこに書かれた文書を念入りに読み解き計画と微に入り際にわたって照合を審査し適法に照合し実に煩瑣で複雑な作業である。
 
 そうであれば認定することがそれほど意義深いことなのかを考えたいのである。昨今の確認機関の審査のあまりにも仔細にこだわることを体験しつつ考える。

|ごあいさつ

 2022年度3期の建築・都市 時評「驟雨異論」を予定通りに配信することができました。これも偏にレビュアー千葉学黒石いずみ南後由和、三氏の真摯な問題意識からの発言に緊張感がこもるからこそのものです。執筆者三氏に改めて御礼申し上げます。建築・都市への眼差しが自在・闊達になることを念頭に「驟雨異論」では益々の面白さと熱気を帯びた発言を引き出してゆきたい。2023年度4期では、小野田泰明中島直人寺田真理子、各氏のレビュアーが登場します。
 

2023/04/6

真壁智治(雨のみちデザイン 企画・監修)
 

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