雨と生きる。雨を活かす。雨の文化創造を考える。

 
presented by  株式会社タニタハウジングウェア
 建築時評コラム 
 新連載|にわか雨の如く、建築に異議を申し立てる時評 

その不意さ加減の面白さ、深刻さを建築の時評に。建築のここが変だ、ここがオカシイ、建築に声を上げる「驟雨異論」。 にわか雨が上がるのか、豪雨になるのか!?


 
山本想太郎(やまもと・そうたろう)

 
1966年東京生まれ。1991年早稲田大学大学院修了後、坂倉建築研究所に勤務。2004年山本想太郎設計アトリエ設立。現在、東洋大学・工学院大学・芝浦工業大学非常勤講師。主な作品として「磯辺行久記念 越後妻有清津倉庫美術館」、「来迎寺」、「南洋堂ルーフラウンジ」(南泰裕、今村創平と共同設計)など。主な著書に「建築家を知る/建築家になる」(王国社)、共著に「異議あり!新国立競技場」(岩波書店)、「現代住居コンセプション――117のキーワード」(INAX出版)など。

SOTARO YAMAMOTO #1     2020.06.20

バルコニック
カルチャー

写真提供・作図:山本想太郎設計アトリエ
 
 

南面に並ぶ後付けバルコニー。明らかに建物とは違う周期で更新されている

連載テーマ「建築の大気圏」

 戸建て住宅の改修計画の際によく問題となるもののひとつに、後付けバルコニーがある。鉄やアルミ製のフレームでできていて、外壁にとりついている、あれである。特に、新築時ではなく後から設置されたと思われるようなものの場合、その違法性や危険性ゆえに撤去したり改修したりせざるを得ないこともあるのだが、そんな時にはいつも、もやもやとした感覚が心に残る。専門技術者の責任としてはそうすべきなのかもしれないが、今まで何十年も毎日使っていて何の問題も不満もないものを解体することを、私の中の一般人としての感覚は完全には納得できない。いやそれ以上に、あのバルコニーがつくる空間の自由さに、実はこれこそが建築なのではないか、というくらいの魅力を感じてしまっているのである。
 
 後付けバルコニーははたして「建築」なのか。ここで法的に厳密なことを論じるつもりはないが、住まい手にとって、生活空間として家の一部であることは間違いない。ところがどうも私たち、建築をつくる専門家たちは、そのような曖昧な領域に口や手を出すことが苦手で、それらを「建築」の少しだけ外側にあるかのように意識してしまいがちである。
 
 この連載では、そういった、専門家からすると「建築」の少しだけ外側だが、住まい手にとっては建築の概念に含まれているような部分を「建築の大気圏」と名付け、そこにあるいくつかの事象をとりあげて考察してみたい。大気圏は地球の外側を薄く包む領域だが、そこに生息する人類は自分が「地球」にいると認識している。「建築の大気圏」も人の生と強いつながりをもつ建築そのものの一部であるはずなのだが、どうも専門家も、住まい手も、いまひとつ上手くアプローチできていない。そしてその空白地帯は、建築と社会とのコミュニケーション基盤として、多くの可能性を秘めているように思えるのである。
 
 「建築の大気圏」は物理的にも概念的にも存在する。物理的な大気圏にあるものとしては、後付けバルコニーやカーポートのような建築付属製品や、建築デザインが見て見ぬふりをしている設備機器などが挙げられよう。概念的な大気圏とは、専門家が参画していない時間そのものであり、たとえば建築家やハウスメーカーを選ぶというプロセスや、過去・未来における時間の蓄積としてのノスタルジーなどがそこにある。それらを「よそ者」とせず、社会との関わりのなかで成立する建築という表現形式の文脈として意識することを通して、「建築」の枠組みのゆらぎを観測してみたい。
 


東京の木造住宅密集地では、しばしば後付けバルコニーが風景の主役となる


 住宅地を歩いていると、ほとんどの家がバルコニーを備えていることに気づかされる。比較的新しい家では、手すり壁に囲まれて建築外壁と一体となったバルコニーが多いが、古めの家での主流は鉄やアルミ製のフレームでできた後付けバルコニーである。とりわけ東京の下町のような古い木造住宅の密集地では、そのような後付けバルコニーが、一番周囲が開けている道路側、つまり建築のファサード面に並び、街の風景のかなりの部分を占めていたりもする。そしてこれらは建築の一部であると同時に、その外面にはりついた独立物としての自由さも示す、まさに「建築の大気圏」を象徴するような存在である。その自由さを観察してみよう。
 
①構造の自由
 後付けバルコニーは鉄やアルミ製の、ともすれば住宅本体よりよほどしっかりした構造体であることも多い。それが険しい地形に建つ懸造りの投入堂のごとく勇敢に設置されている。下屋の上に脚をのせて設置されたものなどはよくあるが、それどころかブロック塀と一体になっていたり、越境どころか隣家に寄りかかっていたり、まさに自由自在。これを構造計算しようとしたらなかなか大変だろう。逆にいえば、普通の「建築」というものは実に構造計算に都合よく造られているものだと気づかされる。
 
②位置の自由
 これらのバルコニー上に出てみると、風景の印象が家の中からとは結構違うことがある。バルコニーの床面が、そこに出るための窓の高さに合わせられるなどして、家の中とは視点の高さが違うのである。また平面的にも、下部の駐車スペースを覆うように、建物から大きく張り出していることなどもある。敷地のどこにもバルコニーをつける余地がないような場合には、二階の屋根の上に据えられていることもあり、隣家との隙間にある階段でそこに上ることになる。空中に架けられる足場のように、後付けバルコニーは都市空間を三次元的に使いこなす。
 
③時間の自由
 幾年月もの風雪に耐えてきた痕跡も色濃い建築と、ピカピカのブロンズ色アルミのバルコニーの取り合わせには、世代を超えたコラボレーションの頼もしさを感じてしまう。もちろん新築時に取り付けられた後付けバルコニーもあるだろうが、多くは外壁や屋根の修繕のタイミングで更新されたり、増設されたりしたと思われる。そしてそれは今後も繰り返されていく。その場にある様々な事物や人が、それぞれ独自の時を刻み変化するという当たり前のことすらも、「建築」だけを見る視界では失念されがちである。
 

屋根の上に軽やかに置かれたバルコニー


 建築家ル・コルビュジェが「新しい建築の 5つの要点」で、建築の「自由」を声高に主張してから約 100年。現代日本の住宅地を見渡しても、自由に溢れているとは残念ながら思えない。そのような風景のなかで後付けバルコニーを見ると、それを建築のルールから外れた「よそ者」とみなそうとする自らの専門性に対して疑念を覚えてしまうのである。観察してきたような、住まい手の日常感覚を柔軟に反映する自由度こそ、ル・コルビュジエが主張する「機能」だったのではないか。建築の作り手が「建築の大気圏」に目を向けていないことによって、そこに表出している批評や可能性も放置されてしまっているのではないか。
 
 そのようなよそよそしい関係性の結果として、一見自由奔放にみえる後付けバルコニーも、形や配置において本当に柔軟に生活の可能性を表現できているとはいえないまま、半製品として熟成してしまっている。たとえばバルコニー形状にもう少し、不整形や段差といった変化があるだけでも様々な動作を誘発するだろう。あるいは上下や水平の移動機能を積極的に備えれば、生活動線に多様性を与えうるだろう。「時間の自由」を活かすため、いつでも足し引きができるシステム・バルコニーのような製品があってもいいだろう。さらには、敷地境界線の制約を越えることで、空中に新しい専有スペースや共有スペースをつくることもできるかもしれない。
 
 もちろん法基準を含め様々なハードルがあるので、これらはかならずしも現時点ですぐに一般化できるアイデアではない。また基準の整備などによって、それらを即座に「建築」に取り込んだり、排除したりすることも本意ではない。「建築の大気圏」は「建築」の枠組みの不確定性領域であるがゆえに、それらのハードル自体を検証する批評空間ともなりうるのである。そしてそのような批評が設計や生活のなかでおこなわれるならば、それは建築と社会とのコミュニケーション基盤となる。社会における建築表現の価値が危機にさらされている現在、私たち専門家こそが、「建築の大気圏」にある事象に対して意識的であるべきではないだろうか。
 

後付けバルコニーの可能性。これらも制度上絶対に不可能というわけではない


 次回は概念的な大気圏にある、「設計者を選ぶというプロセス」について論じたい。

|ごあいさつ

 建築・都市への批評の場が少なくなって久しい。場の消失は、さらに批評の衰退を加速させてきました。
 しかし今、批評を必要としている時代だからこそ、批評を共有する機会をつくり出さなければなりません。
 そこで『雨のみちデザイン』では、細やかながら建築時評の場を設けました。
 2020年度の1年間は、北山恒、野沢正光、山本想太郎の3氏の執筆者が、順繰りに3ヵ月おき各4本の建築時評を連載します。
真壁智治(雨のみちデザイン 企画・監修)
 

|Archives

北山恒 #1

野沢正光 #1

山本想太郎 #1