雨と生きる。雨を活かす。雨の文化創造を考える。

 
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 建築時評コラム 
 新連載|にわか雨の如く、建築に異議を申し立てる時評 

その不意さ加減の面白さ、深刻さを建築の時評に。建築のここが変だ、ここがオカシイ、建築に声を上げる「驟雨異論」。 にわか雨が上がるのか、豪雨になるのか!?


 
山本想太郎(やまもと・そうたろう)

 
1966年東京生まれ。1991年早稲田大学大学院修了後、坂倉建築研究所に勤務。2004年山本想太郎設計アトリエ設立。現在、東洋大学・工学院大学・芝浦工業大学非常勤講師。主な作品として「磯辺行久記念 越後妻有清津倉庫美術館」、「来迎寺」、「南洋堂ルーフラウンジ」(南泰裕、今村創平と共同設計)など。主な著書に「建築家を知る/建築家になる」(王国社)、共著に「みんなの建築コンペ論」(NTT出版)、「異議あり!新国立競技場」(岩波書店)、「現代住居コンセプション――117のキーワード」(INAX出版)など。

SOTARO YAMAMOTO #4     2021.3.20

建築表現と
ノスタルジー

写真提供:山本想太郎設計アトリエ

東京駅(写真右 復元竣工:2012年)。1945年の空襲被災ののち応急改築された形で約60年使われてきた駅舎を、1914年の竣工当時の姿(設計:辰野金吾)に復元。地下を増設して免震装置を設置するなど、現代の技術や建材がふんだんに投入された。国の重要文化財にも指定されているが、これは何年につくられた建築というべきか……。

 
 建築専門家にとって「建築」の少しだけ外側になってしまっている領域を「建築の大気圏」と名付け、そこにある事物から、建築と社会の関係の可能性を探るシリーズ。最終回の今回は、建築に流れる時間について、「ノスタルジー」という言葉を通して考えてみたい。

 

ノスタルジーとどう向き合うか

 
 社寺のような本格的な古建築だけでなく、古い民家、廃墟など、時が刻みこまれた建物やその痕跡には、えもいわれぬ魅力がある。私自身も、いとも簡単にそれらに心ひかれてしまうことは否定できないのだが、その度に、建築設計の職能者として、時間の蓄積などという人の意図を超越したようなものを建築の本質的魅力として認めてしまっていいのか、という警戒心をもやもやと抱いてもいる。
 
 故郷や過去の残像に惹かれながらも少し切なくなるような、複雑な心の動きの叙述によく用いられる言葉として、「ノスタルジー」が挙げられるだろう。そして一般に、建築はノスタルジーの依り代として扱われやすい。建築がかなり長い時間にわたってある場所に姿をとどめる存在であること、その時間のなかで人々や社会の営みを内包し続けるものであること、そしてそれらの結果として、多くの痕跡や破壊をその身に刻んでいくことなどが、人の心情に作用するのだろう。このように建築が時の深まりとともに感覚されるものであることは間違いないにもかかわらず、私がノスタルジーを建築表現と相容れないもののように考えてしまったのは、やはり「建築」と「建築の大気圏」を分離する意識に起因することのように思われる。実はノスタルジーの依り代となっているのは「建築の大気圏」側にあるさまざまな事象であり、ゆえにノスタルジーも建築という表現行為の少し外側で起こっている心理現象である、と考えてしまっていたのではないか。
 
 近頃はリノベーション設計の機会が急増して、必然的に建築のノスタルジーと向き合わざるをえないことも多くなった。少し前にはそれ自体が「建築の大気圏」にあったともいえるリノベーションが建築行為として認識されてきたことで、それまで手が届かなったノスタルジーを建築表現のなかで扱うことができるようになったともいえるだろう。前回のコラムで少し論じた『リノベーショナリズム』(近年の日本のリノベーションにおけるデザイン潮流、という意味の筆者造語)も、もちろんかなり積極的にノスタルジーを取り込んでいるのだが、それがまだ比較的目新しいデザイン要素として機能することもあって、ややもすると安直な古民家カフェのようなものを量産してしまう危うさがある。これから日本でリノベーションが表現文化としての地位を確立していくためには、そこでより多様な新しいノスタルジーを提示していかなくてはならないだろう。
 

現在であったことのない過去

 
  2020年から 2021年にかけて、東京都内の鉄道駅舎が次々と改築されている。東京の風景や空間体験を担ってきたそれら駅の「整備事業」に対しては、反対を含めいろいろな反応もあった。そのひとつ、 JR国立駅では市民の保存要望になんとか応えようと、この地のランドマークでもあった三角屋根の木造駅舎を一度解体し、新しい駅舎の前に復元するというプロジェクトが実施された。ガラス張りの新駅舎の目の前に復元新築されたきれいな旧駅舎が建つ風景に対面してみて、私は 2012年に復元された東京駅を見たときの印象を思い出した。文化財にも指定されている両建物の復元・保存が文化的意義の高い成果であることは十分に理解できる一方で、それらは博物館の展示物のようでもあり、私の心にノスタルジーを喚起するものではなかったのである。
 
 このことは、「過去」の保存が必ずしもノスタルジーを生みだすわけではないことを示している。そしてそれはおそらく、私たちの時間認識と関係しているだろう。フランスの哲学者 ジャック・デリダ19302004)はその時間論において、「過去あるいは未来との差異においてのみ現在は現出しうる」としつつ、その概念の矛盾についても思考する。すなわち、差異を認識するためには過去は現在と明確に切り離され失われたものでなくてはならないが、また同時に、現在を構成するために現在に内在していなくてはならない、という矛盾である。デリダはその「現在に内在する過去」を、 「絶対的過去」、あるいは 「現在であったことのない過去」という独特の言い回しで表現し、後にはそれを 「灰」にも例える。「灰」はそこに何かがあったことを示す痕跡であると同時に、その全面的な消失を意味する形象でもある。(※)
 
 ノスタルジーは、時間の認識がなくては成立しえないものだが、私たちは「現在」を起点としてしか時間を認識することができない。つまり、ノスタルジーを喚起するものは「過去」ではなく、 「現在に内在し、現在を構成している過去」なのではないだろうか。実際には生活したことのない里山と茅葺き屋根といった風景、自身が生まれてもいない時代の物品、さらには機能や形状を喪失した廃墟などにもノスタルジーを覚えることがあるのは、それらが抽象的な過去として現在を批評(あるいは否定)するという形で、「現在」という認識と強く関係しているからではないか。
 
 復元された二つの駅舎は、そこに流れていた時間から切り離され、「現在」とは直接結びついていない「過去」そのものの断片として保存されている。東京駅の免震エクスパンション、国立駅の背後にそびえる新駅舎といった、その保存を保障するための大仕掛けが視認できてしまうことも、その不連続性を強調している。そのため私はそれらの姿から時の蓄積を感覚できず、ノスタルジーも発現しなかったように思われる。
 
 

JR国立駅前に復元された旧駅舎(復元竣工:2020年 設計施工:竹中工務店 国立市指定有形文化財)。1926年に建てられた木造駅舎(設計:河野傳)の建て替えにあたり、市民からの要望を受けて保存や曳家なども検討されたが、結局旧建物を解体、その部材を用いて新駅舎の前に復元するという方法がとられた。ファサードに設置されていた「国立駅」という大きな看板は、さすがに紛らわしいためか復元されていない。


 

懐古的ノスタルジーを超えて

 
 ノスタルジーが、「過去」ではなく「現在に内在する過去」によって喚起されるものならば、それは、消失してしまったものに帰還しようとする空虚で閉じた情動ではなく、「現在」を構築し続ける旅ともなりうるものだろう。そしてその旅には、建築に流れる時間と建築表現との新しい関係性を生み出す可能性も秘められているのではないか。そのような可能性を感じた事例として、 『テラス沼田』(改修設計:プランツアソシエイツ)を挙げたい。大型の商業ビルが市庁舎を中心とした複合ビルにリノベーションされた、一見すると新築のようにきれいに仕上げられた建築であるにもかかわらず、私はそこに、古い建物や廃墟に対するような、ノスタルジーにも似た情感を覚えたのである。
 
 リノベーションであるため当然たくさん残されている既存建築の痕跡が、ここではあまり特別なものとしては見えてこない。半分以上が残された既存外壁も、吹き抜けを横断する鉄骨も、穏やかに新しいデザインに組み込まれている。特に印象に残ったのは、接地階にある 『まちの広場』で、ピロティと言うには屋内的、アトリウムと言うには裏方的な、あまり見たことのない半外部のパブリック・スペースとなっている。不思議なことにこの特殊な大空間がそこにあることを、私はあまり不自然には感じなかった。しばらく内部で過ごすとわかるのだが、元々この建築は道路を挟んで建つ駐車場棟や図書館棟とつながるブリッジがメイン・アプローチであり、ブリッジより下の1、2階は動線的にも地下のようなサブ空間というイメージが強い。この場に既にあったその都市空間構造を、 階以下の床や外壁の多くを取り払うという形できわめて率直にデザインに反映した結果が、このパブリック・スペースの自然な存在感なのであった。
 
 このように『テラス沼田』における過去の痕跡は、あたかも建築に対する地形のように、デザインのなかで肯定も否定もされていない。積極的な対比も隠蔽もされていない。ただ精妙な違和感として現在の構成に内在させられている。このような「現在に内在する過去」によって、この建築は、懐古的ノスタルジーを超えた、独自のノスタルジー表現を生みだしているように感じた。
 

『テラス沼田』(群馬県沼田市 改修竣工:2019年 設計:プランツアソシエイツ)。元は1993年につくられた大型商業ビル。街並みのなかでその大きさが際立つ。市庁舎を中心とした複合ビルへの減築リノベーションで、外観も新築のように様変わりしたが、実は既存外壁が半分以上残されている。写真右端は駐車場棟へのブリッジ。


『テラス沼田』1~2階の『まちの広場』(左写真)は、既存建物の床と外壁を撤去してつくられた、インフラ感のある半外部空間。ほとんどの来庁者は駐車場からブリッジで3階の市役所(右写真)に直接入るため、接地階とはいえ上から降りてくるアプローチが主となる。エレベーターによる上下の場面転換は印象深い。


 

「建築」の輪郭の更新

 
 以上のようなノスタルジーの考察は、「建築」と「建築の大気圏」との関係性にも示唆を与えてくれる。デリダ風に矛盾をはらんだ言い方をするならば、「建築の大気圏」は本質的に「建築」と切り離されていなくてはならず、また同時に、「建築」の概念構成に内在するものでなくてはならない。そのような存在同士を安易に関係させようとする行為は、通俗の沼にも陥りかねないだろう。「建築の大気圏」が生み出し続ける痕跡と、ただ真摯に関係し続けることこそが、社会を基盤とした表現形式である「建築」の輪郭を更新していく確かな力となるのではないだろうか。
 
 本シリーズでは、「後付けバルコニー」「設計者を選ぶプロセス」「建築設備」「ノスタルジー」と、あえて毛色の違う4つのテーマをピックアップしてきたが、当初つくった構想メモには「植物、ペット、自動車、家具、スマートフォン、建築解体、セルフビルド、健康、経済、メディア、ツーリズム・・」等々、まだたくさん「建築の大気圏」の言葉が並んでいる。それらについてもまた別の機会に論じてみたい。
 
 ひとまずは、1年間のおつきあい、ありがとうございました。
 

※ ジャック・デリダ著『グラマトロジーについて』(現代思潮社)、『哲学の余白』(法政大学出版局)、『火ここになき灰』(松籟社)等を参照。なお、デリダの時間論の影響もみられる重要なノスタルジー論として、ウラジミール・ジャンケレヴィッチ著『還らぬ時と郷愁』(国文社〉が挙げられる。 

|ごあいさつ

 建築・都市の批評を共有する新しい場づくりを、との主旨から企画された「驟雨異論」。無事、初年度(2020年)分のWEB発信が果たせました。
 
 「驟雨異論」は分野・世代の出自を横超する3氏の執筆者が1年間に渡り、順繰りに時評をリレー式に各4本ずつ連載します。執筆者3氏のシナジーも楽しみで、建築・都市への骨太な時評が期待されるものです。
 
 2020年度の執筆にあたって頂いた北山恒、野沢正光、山本想太郎の各氏には、改めて御礼申し上げます。どれもが期待に違わぬ視点の定まった批評性を示すものでした。大変お疲れ様でした。
 
 遡って考えれば、「驟雨異論」の船出は、コロナ禍での緊急事態宣言発出の最中でした。それはウィズコロナ社会の事態が一気に社会の矛盾をあぶり出す気配と眺めとを示す契機となるものでもあり、建築・都市への批評に大きな問題意識を共有するチャンスでもあります。私は、こんな折からの「驟雨異論」の船出をまさに、時機を得たものと想っているのです。
 
 新年度2021年の新たな執筆者の陣容は、太田佳代子、布野修司、連勇太郎の各3氏となります。一層の批評の多彩さと面白さとが炸裂するはずです。ご期待ください。
 

2021/03/19

真壁智治(雨のみちデザイン 企画・監修)
 

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