野沢正光・追悼エディション

2023.7.14

健康なエンジニアリングへの希求

TEXT=秋山東一

 
 建築家・野沢正光氏が逝ってしまったことを知った。
 
 Facebook への頻繁な投稿、それも社会や建築界への意見、時に激しく、時に啓蒙的な投稿は……、何を生き急ぐんだ、というような感慨を覚えたが、突然の弔報に合点したのであった。
 
 彼は、1942年生れの私の二つ下、1962年に藝大建築に入学した私の二年後輩であった。しかも、それだけでなく都立立川高校でも一緒、同じく二年後輩、私と彼との間に同じく建築家の坂本一成氏がいるという関係だ。 まぁ、1,200人もの生徒がいる高校では、同じ高校にいたとしても会う 機会もなく知りあいになることもなかった。しかし、1年から4年全部 で50人ほどの藝大建築では、そんなわけにいかず、そんなこんな、親しく付き合っていたのだ。
 
 私は卒業後、牧歌的なアトリエ事務所を選び、東孝光事務所に職を求めたが、彼は大高建築設計事務所、ある意味、正統的な設計者の道を歩んできた。
 

 
 その彼が「環境派建築家」とかと言わてきたのには、それなりの歴史的な経緯がある。まず、奥村昭雄(東京藝術大学名誉教授)による「OMソーラー」の関わりの中で学んでいったものだ。OMソーラーは、奥村昭雄の「熱と空気をデザインする」という思想のもと、屋根面で太陽で暖められた空気をファンで床下の蓄熱コンクリートに送り、快適な室内に快適な環境をつくり だす研究よりスタートする。これは奥村昭雄のエンジニア力が作り出したものだったのだ。
 
 1979年には、OMソーラーの技術の基礎ともいえる「空気集熱式ソー ラーシステム」をもつ住宅が設計され、その諸々の検証の為の研究会が組織され、それが「ソーラー研」と言われ、奥村昭雄・まことを中心とし、野沢正光はその中心メンバーとして研究会を牽引していた。
 
 その技術を元に、1987年に「OMソーラー」が誕生した。それも、小池一三を長として「OMソーラー協会」なる組織を設立し、全国的にボランチャイズというのか、フランチャイズというのか地域地域で住宅を設計施行する工務店を募って、OMソーラーの技術を教育し、地域地域でソーラー住宅の普及を則していこうという考えで始まった。
 
 同時に、それをサポートする「オーエム研究所」なる組織が作られ、 奥村昭雄の下に、ソーラー研のメンバーであった野沢正光石田信男丸谷博男、そして、永田昌民秋山東一を加えた五人が研究所スタッフとして活動することとなった。 奥村は「まぁ、君たちは難しいことを考えなくていいんだよ。唯々、 OMのカッコいい家をつくればいいんだよ。」てなことだったのだ。 その後、協会の活動の成果として、日本全国的に「OMソーラーの住宅」の認知が深まっていったのだ。研究所メンバーもソーラーシステムのマニュアル、設計指導、モデルハウス建設等々、「カッコいい家」 を作り出していったのだ。
 
 1994年にはフォルクスハウス登場、その後、協会による建築家・半田 雅俊によるフォルクスEなるプロジェクトから、野沢のドミノ住宅が生み出された。
 

 
 そんなこんな、1992年と思うが、仕事とは関係なく、彼から電話がかかってきた。「秋山さん、何かカッコいい自転車知りませんか」と聞いてきたのだ。 まぁ、私は自転車についてオーソリティと目されていたから、聞かれるのは当然なのだが、何を期待して聞きにきたのか、ルネルス的なランドナーとか……かな。 そこで応えた「あぁ、知ってるよ。レイナー・バンハムが跨がってる自転車なんて、どうだい」
 
 それが、モールトン自転車だったのだ。「第一機械時代のデザイン」で「ブルータリズム」なる著作の高名な英国の建築評論家の乗っている自転車を紹介されて文句があるはずがない。日本の代理店を教えて、すっかり手に入れる方法まで教えたのだ。
 
 アレックス・モールトンは1920年生れ、家業のゴム製造業を引き継いだエンジニアであった。英国を代表する車、BMC MINI ミニのサスペンション、それもゴムによるサスペンションを作り出した。
 
 モールトンはそれにあきたらず、1956年のスエズ動乱で端を発した、 自動車燃料逼迫……というような社会問題に対して、一エンジニアとして燃料要らずの乗物、新しい自転車を考えてみようと決意することに なったのだ。
 
 1962年に、大きな径を持つ通常の自転車と同じホイールベースであり ながら、小径のホイールと高圧タイヤでゴム製コーンのサスペンションを備えるという画期的な自転車であった。
 
 その後、1980年代に入ると、モデルは通常自転車のホイールベース、 小径・高圧タイヤ、ゴムサスペンションという部分は同じだが、フレームは以前のモデルと大幅に異なる画期的なトラスフレームを採用した。
 
 そのフレームは溶接等の手作業部分を多く含むもので、モールトンの居城に付属する元馬小屋の工房で手作りされることとなった。
 
 まぁ、バンハムが跨がっていたモールトンは旧型だったが、野沢のモールトンはスペースフレーム、スティールグレイの塗色の時代だ。
 
 ほどなく、彼は AM-9 なるものをゲットすることになる。ここで、彼は、アレックス・モールトンのエンジニア力の成果たるモールトン自転車を手に入れたのだ。
 
 その後、彼と自転車自体について語った記憶はないが、環境問題と都市における移動手段についてと、英国のエンジニアリングについて考えを深める契機になったことは間違いない。
 

イギリス・スコットランドのエディンバラ近郊のフォース湾に架かる鉄道橋「フォースブリッジ」(photo = David Dixon)

 
 2015年6月、町田の鈴木工務店の可喜庵で開かれた野沢正光の「旅とデザイン」と題する講演会があった。 まぁ、諸々の自慢話の中にスコットランどの巨大鉄道橋フォースブリッジの話が出てきて、彼は列車に乗車して上り下り、二回もフォース橋を通過したことを自慢していた。
 
 このフォースブリッジも、英国エンジニアリングの成果、アレックス・ モールトンの先輩エンジニア達が作り出してきたものだ。
 
 その時、気がついたのだ、彼が希求してやまなかったのは「健康なエンジニアリング」ではなかったのではないか……、建築家が忘れてはならないのはそこではないのか。
 
 彼が病床より、松本近郊の治水施設、牛伏川フランス式階段工を思い巡らす時、そこにまさしく、そこにある健康なエンジニアリングを皆に伝えておきたいと思ったのだ。
 

 
 まぁ、OMソーラーなるパッシブソーラーシステムを皆で構築してから、早半世紀……。 奥村まこと永田昌民石田信男は既に故人、ここにきて、野沢正光までいなくなってしまった。

 
 まだ、残されている Facebookの投稿を検証しながら、彼が構築した世界、住宅遺産トラスト、大規模な木造施設、個人的なエンジニアリングの世界、健康なエンジニアリングを確認している。 それは野沢正光のキングダム……、深く深く……ご冥福を祈る。
 
 追伸:なんだか、自転車の話になってしまったが、このウェブマガジン 「雨のみち」という題名に則していえば、野沢のアレックモールトンの自転車には、ちゃんと泥除けが標準装備されていたことを書いておかねばならないな。

秋山東一(あきやま・とういち)

 
1942年東京生まれ、東京芸術大学美術学部建築科を卒業後、東孝光建築研究所に入所。その後独立してランド計画研究所を設立、OMソーラー協会とOM研究所の設立に伴い、研究所設立メンバーとなり、OMソーラーの住宅を数多く設計する。OMソーラーシステムを組込んだ木造軸組パネル工法のフォルクスハウスを開発、続いてその進化系であるBe-h@usをインターネットのネットワークを使い公開する。現在、コスモホーム鈴木岳紀氏と共に秋山設計道場を立ち上げ、設計手法「パタン・メソッド」を設計者に伝えるべく活動中。
 
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