野沢正光・追悼エディション

2023.7.12

複雑な理念
— 野沢正光試論 —

TEXT=難波和彦

 
 野沢正光と初めて顔を合わせたのは、石井和紘を通してだったことをはっきりと記憶している。ロバート・ヴェンチューリ『COMPLEXITY AND CONTRADICTION IN ARCHITECTURE』のMoMa初版は1966年に出版され、日本でも早々と翻訳本『建築の複合と対立』(著:ロバート・ヴェンチューリ/訳:松下一之/美術出版/1969)が出版された。しかしながら、この翻訳本は日本語になっていない悪訳だったので、磯崎新が石井和紘に再訳を指示した。石井は野沢に声をかけて、共訳の作業が始まったのだと野沢から聴いた。野沢は石井と同年齢の1944年生れで、東京芸大と東大と大学は違うが、秀才で名を馳せたらしい。ちなみに僕は2年後輩である。同時期に僕は石井と『ジェームズ・スターリング作品集』(訳:石井和紘+難波和彦/‎A.D.A. EDITA Tokyo 1975)の共訳を続けていたが、僕の場合と同じように、野沢との共訳もほとんど野沢任せだったようだ。この共同作業はうまく進まず、最終的には当時のSD編集長だった鹿島出版会の伊藤公文の訳で、『建築の多様性と対立性』(著:ロバート・ヴェンチューリ/訳:伊藤公文/鹿島出版会/1982)として出版された。
 
 その後、野沢とは何度か対談やシンポジウムで顔を合わせたが、本格的に協働したのは、『都市住宅』誌で連載した特集「仕掛け考」である。この特集は、初代編集長の植田実が退いた後に編集長を任せられた吉田昌弘に頼まれて、テーマの企画、参加メンバーへの呼びかけ、作品データの収集までを野沢と共同で進め、以下のようなラインアップで3回の特集として連載した。
 

1984年9月号「(仕掛け)考・1―人の動きを仕掛ける」
編集:野沢正光 + 難波和彦 + 巴辰一 + 横河健
https://www.kosho.or.jp/products/detail.php?product_id=385969727
1985年1月号「(仕掛け)考・2―力とエネルギーの流れを仕掛ける」
編集:野沢正光 + 難波和彦 + 佐々木睦朗 + 高間三郎
https://www.kosho.or.jp/products/detail.php?product_id=385969713
1985年5月号「(仕掛け)考・3―意味とコンテクストを仕掛ける」
編集:野沢正光 + 難波和彦 + 八束はじめ
https://www.kosho.or.jp/products/detail.php?product_id=385969699
 
 「(仕掛け)考・1」は、 ジェームズ・スターリング事務所で働いた経験がある 日建設計巴辰一を迎えて、スターリングの巧妙な平面計画と動線計画について話し合った。この時、野沢は分析の道具として、ヴェンチューリが『建築の多様性と対立性』で提唱した 〈複雑な全体=Difficult whole〉のコンセプトを適用して、ユニークな議論を展開したことが記憶に残っている。

 「(仕掛け)考・2」は、僕の友人で構造家の 佐々木睦朗と、野沢の友人で 大高正人事務所の同僚の環境デザイナー 高間三郎を迎えた4人で、構造と環境デザインの仕掛けについて議論した。構造デザインについては、当時すでにジャーナリズムでユニークな提案が紹介されていたが、環境デザインについては野沢と高間の独壇場であり、当時としては先駆的な特集だったように思う。

 「(仕掛け)考・3」は、新しい視点で近代建築史の分析を展開していた 八束はじめを招いて、建築デザインに1970年代から興隆していた記号論を適用する試みを展開した。当時、様相論を提唱していた 原広司や、表層のデザインを提唱していた 伊東豊雄にインタビューしたことが記憶に残っている。

 野沢と協働した編集作業は、僕にとっては後の〈 建築の4層構造〉論を構築する第一歩となった。一方、野沢にとっては建築をシェルターと機械の組み合わせとしてとらえる視点、具体的には OMソーラーシステムの理論化の契機になったのではないかと思う。この特集を通して、野沢が何度も 「建築のデザインはヴェンチューリが提唱する〈複雑な全体〉の統合である」ことをくり返し主張していたことが記憶に刻まれている。野沢の視野は、建築の社会性、コンテクスト、形態に注目するヴェンチューリよりも一回り広かった。それから数年後に、野沢は 自邸〈相模原の家1992〉を完成させた。完成後しばらくして僕も訪問したが、その時の印象は強く記憶に刻まれている。外装は鋼鈑波板とセメント版で、周囲の住宅よりも軒高が低く、閑静な住宅地にひっそりと佇んでいる。FRPグレーチングの門扉やスクリーンが印象的である。既存の樹木を残すために建物全体は前後二棟に分けられ、2階建ての傾斜屋根にはOMソーラーが載せられている。奥の棟1階のLDKの天井にはハブマイヤー・トラスが架け渡されていることから、鉄骨造であることが分かる。野沢によれば、階高は輸入木製サッシの最大サイズで決めたという。短い庇もFRPグレーチングだが、中庭の大木が夏季の日射を制御している。LDKにはモダンデザインの名作椅子が数脚さりげなく置かれている。地下はRC造の作業場で、OMソーラーの蓄熱室である。2階は寝室と書斎で、机の上に小林秀雄の『本居宣長』が置かれているのが眼に留まった。玄関脇の平屋の駐車場の屋上はデッキになっている。裏庭は小さな畑で、野沢は時折そこで農作業をしたそうだ。当時の僕は単純な箱型のデザインを試み始めた頃で 〈箱の家〉のスタートは1994年だが、〈相模原の家〉を見て、〈仕掛け考〉を共同編集した後にも、野沢が〈複雑な全体〉の検証を追求し続けている持続力を痛感し、カルチャーショックを受けるとともに、野沢と僕の距離を改めて痛感し、考え込んでしまった。
 

野沢正光の自邸「相模原の家1992」内観。(photo = 藤塚光政)


 モダニズム建築に対する野沢の視野の広さも忘れることはできない。 レイナー・バンハム『第一機械時代の理論とデザイン』『環境としての建築』は、「(仕掛け)考」を続ける際の参考書として、二人で何度か輪講した。野沢とは数回、海外建築見学ツアーに参加したが、野沢の視線は通常の建築家とはやや異なっていた。野沢と英国の鉄骨の橋を見て回ったことは強く記憶に残っている。2000年後の英国のハイテック建築ツアーに参加した僕の目的は、コーンウォールにある ニコラス・グリムショウ〈エデン・プロジェクト〉を訪ねることだった。野沢のお気に入りは19世紀のエンジニア、イサンバード・キングダム・ブルネルで、ロンドンから小さなプロペラ機に搭乗して西南端のプリマスにある 〈ロイヤル・アルバートブリッジ〉を訪問した時の野沢の興奮ぶりは忘れることはできない。僕は未見だが、エディンバラの 〈フォース橋〉を見ると、僕は必ず野沢のことを思い出す。
 
 野沢は日本の戦後モダニズム建築に関する造詣も深かった。 吉村順三の薫陶を受けたせいもあるだろうが、 清家清広瀬鎌二の鉄骨建築に対する強い思い入れが感じられた。建築会館で数回にわたって開催された広瀬鎌二回顧展ではいつも野沢に遭遇した。戦後モダニズム建築を再評価する雑誌の特集には、野沢は必ずといっていいほど寄稿している。大学院には進まず、学部卒で大高正人の事務所に入ったことも、野沢の建築観に影響を与えているのではないだろうか。大高正人は 前川國男の弟子だが、メタボリズムの一員ではあったけれど、建築家の社会的役割として、単に〈作品〉を造ることに対しては批判的だった。野沢はその影響を正面から受け止め、後の仕事に展開していったように思う。 奥村昭雄と共同開発したOMソーラー・システムが、必ず保守的な傾斜屋根の家型デザインをもたらすことへの抵抗として、鉛直面にOMソーラーシステムを設置した 〈長池ネイチャーセンター〉(2001)のデザインには、野沢の自負を感じた。〈 いわむらかずお絵本の丘美術館〉(1998)は昨今の木造公共建築の先駆的な試みである。野沢には理論的な著作はないけれど、 『住宅は骨と皮とマシンからできている』(OM出版/2003)や 『パッシブハウスはゼロエネルギー住宅―竪穴住居に学ぶ住宅の未来』(農山漁村文化協会/2009)では、彼の建築観が明快に展開されている。
 

左:『住宅は骨と皮とマシンからできている』(OM出版/2003)。右:『パッシブハウスはゼロエネルギー住宅―竪穴住居に学ぶ住宅の未来』(農山漁村文化協会/2009)


 かつて僕はグッドデザイン賞住宅部門の審査委員長を務めていたが、野沢の応募作品 〈木造ドミノ住宅〉(2007)を見て愕然としたことがある。一見しただけでは簡単に見過ごしそうなデザインだった。〈木造ドミノ〉と銘打っているが、僕の目にはまったく批評性のないありふれたデザインに見えたのである。同じコンセプトでデザインされた 〈ソーラータウン府中〉(2020)の見学会には、審査員としてではなく一建築家として参加し、細部まで検証した。単純な切妻屋根にOMソーラーシステムを載せた16棟の戸建て住宅の集合で、前作と同様にさりげないデザインだが、外部空間に巧妙な〈仕掛け〉が組み込まれている。戸建て住宅なので、敷地も個別だが、所有者がそれぞれ敷地の1/10を提供し、それを連結して豊かな緑化空間をうみ出している。これこそが野沢が提唱する〈複雑な全体〉としてのデザインの集大成だろう。この集合住宅のデザインに、野沢が考えていた建築家の社会的役割の仕事を見ることができると思う。
 

ソーラータウン府中(2020年8月撮影/Ⓒ相羽建設/Photo = Emotional image)


 

参考リンク
2007グッドデザイン賞「木造ドミノ住宅」
2020グッドデザイン金賞「ソーラータウン府中」


 六本木にある〈全日本海員組合〉の建築がドココモモ・ジャパンに登録されたことを記念して2022年12月19日(日)にシンポジウムが開催された。僕は久しぶりに野沢に会えることを期待して参加したが、リノベーションを担当する野沢は自宅からのリモート参加だった。会場から野沢にメールを送ると、直ちに返礼のメールが届いたが、詳細は書いていなかった。年末から年始にかけて、野沢はfacebookに進行中の現場監理の写真や近況を報告していたので、その度に僕もメッセージを書き込んだが、返答はなかった。春になって、野沢が自邸の中庭の樹の写真や友人との思い出の写真を載せたのを見て、僕はかすかに胸騒ぎを感じた。それが野沢の最後のメッセージだった。
 
 野沢は僕にとって、複雑な理念を体現した尊敬すべき建築家である。
 


難波和彦(なんば・かずひこ)

 
1947年、大阪府生まれ。1969年、東京大学工学部建築学科卒業。1974年、東京大学大学院(東京大学生産技術研究所・池辺陽研究室)博士課程修了。同年、石井和紘とLANDIUM開設。1977年、界工作舎を設立。2000-2003年、大阪市立大学建築学科教授。2003-2010年、東京大学大学院工学系研究科建築学専攻教授。2010年、東京大学名誉教授。放送大学客員教授。
 
主な作品に、「箱の家」シリーズ、なおび幼稚園、アタゴ深谷工場など。主な著書に『箱の家 エコハウスをめざして』(2006/NTT出版)、『建築の4層構造─サステイナ ブル・デザインをめぐる思考』(2009/INAX出版)、『進化する箱─箱の家の20年』(2015/TOTO出版)など。 LINK:難波和彦+界工作舎
 
URL:難波和彦+界工作舎