雨と生きる。雨を活かす。雨の文化創造を考える。

 
presented by  株式会社タニタハウジングウェア

内藤恒方(ないとう・つねかた)
 
:1934年京都市生まれ。1958年東京藝術大学美術学部建築科卒業、同年 レーモンド設計事務所入所。1966年カリフォルニア大学バークレー校大学院ランドスケープ・アーキテクチャ専門課程修了後、ササキ・ドーソン・ディメイ・アソシエーツ勤務。1972年ニューヨーク州立大学シラキュース校ランドスケープアーキテクチュア科助教授。1972-80年大阪芸術大学芸術学部環境計画学科助教授。1976年建築設計と造園設計をおこなう建築士事務所およびランドスケープコンサルタントのALP(アルプ)設計室設立。1994-2002年長岡造形大学造形学部環境デザイン学科教授。2020年世田谷区・松原の家にて死去。


 

 

16:内藤恒方

Tsunekata Naito

 

内藤恒方さんには、雨のみちデザイン・インタビューとして2012年11月19日に取材をさせていただきました。その後、2020年6月に享年87歳でお亡くなりになりました。大変遅くなりましたが、ご冥福をお祈り申し上げると共に、改めて本号を内藤恒方追悼号と致します。健やかな遺影はカメラマン鈴木愛子さんが別の折りに撮影されたものを拝借しました。ここに内藤恒方さんを偲びたいと思います。(「雨のみちデザイン」企画・監修:真壁智治)

 

ランドスケープから建築と雨に取り組む

2021/12/27
インタビュアー:真壁智治、編集:平塚桂、大西正紀
写真(特記以外はすべて):鈴木愛子

 
 

レーモンドに学んだ、物のない時代のディテール

 
— 本日はこれまでに手がけられたお仕事を振り返りながら、建築およびランドスケープ・デザインに対するお考えと、“雨のみち”をどう捉えられているのかをお伺いしていきたいと思います。内藤さんは東京藝術大学建築科のご出身ですが、同学年に宮脇檀さん、前野嶤さんなどがいて、優秀な学年であったと感じています。
 
内藤:韓国の 金(壽根)さんや“二国”(現在の 新国立劇場)をやった 柳澤孝彦も同級生でした。
 
— 類は友を呼び、刺激し合うのでしょうか。大学は面白いもので学年によって凸凹があるものですね。卒業してからアントニン・レーモンドの事務所に行かれていますが、アルバイトなどの経緯は一切なく新卒で入られたのですか?
 
内藤:ええ。事務所から募集が来たんです。1958年の正月に 吉村順三先生のところに行って就職を相談したら 「募集が来ているからレーモンドの事務所に行ったらどうだ。俺はレーモンドで随分勉強した」という話で。たしか正月の1月2日に伺って、お酒の一滴ももらえない、お茶の一杯も出してくれない。なかなか吉村先生は厳しい人でしたよ(笑)。
 
— 事務所ではどのようなことを学ばれましたか。記憶に残っていることを教えてください。
 
内藤:いろんなことを教わりましてね。学校では何をしていたのだろうと思うくらい、大事なことをいっぱい。特に覚えているのは、トレーシングペーパーを替えないことです。図面を描きますと、だんだん消しても筋が残ってしまいます。でも替えると怒られちゃう。なぜかというとレーモンドは 「建築には歴史がある」と言うんです。ボロボロになっても使いつづけるから、あそこの原図は角が破けてセロテープが縦に貼ってあるようなものが多いんです。
 
— 当時の事務所はどちらにあったのですか。
 
内藤:麻布です。西麻布のちょっと上の方ですけどね(「 笄町の自邸・事務所(1952年)」。住まいと事務所が一緒で、建物の前に庭があってプールもあって、ミセス・レーモンドが毎朝そこで泳ぐんですね(笑)。それからあの人たちは冬でもご飯を外で食べます。僕は入所したばかりの1958年の夏に3か月、軽井沢に連れて行かれました。レーモンド夫妻とセクレタリー、女中さん、運転手さん、コックさんと僕ら入ったばかりのスタッフ2人で。3か月間、朝、昼、晩と一緒なので大変です。でも晩に必ずワインが出ます。昭和33年ですよ。しかもウィークエンドになると必ず、バランタインの16年が1本。
 
— あるところにはあったんですね。そこではどんな仕事をされていたのでしょうか。
 
内藤: 高崎の音楽堂(「 群馬音楽センター(1961)」)のまわり階段の図面を描いていました。
 

「群馬音楽センター」外観(提供 = 掘 啓二)

 
— レーモンドの代表作でもありますから、それは思い出深い仕事になりましたでしょう。
 
内藤:当時コンピュータがない時代にみんな、ジグザグの折れ壁を手計算でやるわけですから、大変な仕事ですね。私はまわり階段だけだったからましです。でもあれも円形で曲がっていたりして、それをコンクリート打放しでやるわけですからね。
 

「群馬音楽センター」のジグザグの折れ壁(提供 = 掘 啓二)


— 構造と、音響効果も絡んでその形になっているわけですが、きっとあの折れ壁には雨仕舞も苦労されましたよね。
 
内藤:屋根も同じように折れているわけですから大変だったと思います。そもそもレーモンド事務所はサッシも木でつくるような事務所です。引違いのサッシでは雨や風がストレートに入って来ないように、框にわずかな突起をつけて噛み合わせたり、下側に雨返しを付けたりしていました。そういったディテールは、原寸図を描かされるんです。歴代伝わる原寸図があり、たとえば木を2枚で接ぐ場合にどう構造的にもたせられるか、腐らないよう、風が入らないようにどう接ぐか、ものすごくよくできたディテールがありました。木造のディテールはそこで勉強したようなものです。物がない時代なので内装も3mm厚のラワンベニヤです。真鍮の釘が45cm間隔でピッタリ打たれていました。屋根の洋風トラスも、足場丸太を半分に割いてつくるわけです。ディテールも雨仕舞も大変です。
 

 
— 昭和30年代の、本当に物がなかった頃に在籍されていたのですね。とても貴重なお話です。他に思い出深い担当作品としてはどのようなものがありますか。
 
内藤:入った頃にはICU、国際基督教大学の仕事が随分あって、僕は「 国際基督教大学図書館(1960)」を担当しました。3階建でもエレベータなしで過ごせるように地面を半階分掘り、2階からアプローチすることで、移動経路を短くした図書館でした。当時は生コンがないので、現場で 「お前そこでミキサーが何回回ったか数えてろ」と言われ、いちいち数えてました(笑)。それから構造家がときどき来て、鉄筋の径が何mmか計るんです。というのも建設会社の連中が儲けようとして鉄の量を減らし、19mm指定なのに18mmとか17mmしかないものが混ぜてあるんです。そういう時代でしたね。
 
 施工に厳しい事務所なので、絶えずどこかの現場に常駐している施工専門部隊の人たちが2、3人いました。レーモンド事務所に多いコンクリート打放しは、型枠がしっかりしていないと駄目なわけですよ。パンクしてしまったりすると、どうしようもない。だから型枠をつくったらみんなドタ靴で1回、ダン! って蹴飛ばして「これなら大丈夫」て、やっていました。
 
 当時は材料が厳しいので、ミニマムな材料でマキシマムな効果をあげるというのは宿命でした。レーモンドは教会の仕事が多かったのですが、僕は世田谷区若林にある「 聖十字教会(1961)」を担当しました。集成材、ようは偽木材でつくった教会です。当時集成材でこんな大きな建物はなかったんじゃないの? 開口部に色が付いていますが、ステンドグラスじゃないんです。プラスチックの上にスプレーペイントでレーモンド夫人がタッタッタッタッ! てやったんですよ。ばあさんなかなか達者だなと感心しました(笑)。
 
 できて60年にもなるんですが、いまだに個人的な付き合いがあります。ボール形の照明を天井から吊り下げているのですが、先日も電球の交換を相談されたので、扱いやすいように密閉型で熱が出やすい場所でも使えるLED電球を探してあげました。
 

アメリカで出会った、ランドスケープ・デザインの可能性

 

 
— レーモンド設計事務所は学ぶことが多く、充実していたようにみえますが、なぜ辞めてアメリカに行かれたのでしょうか。
 
内藤:当時は同じ事務所に7年越えて在籍すると、その事務所に居続けるしかない時代でした。レーモンド事務所で5年経ったので、もう少し広い立場から建築を見てみようとアメリカに行くことにしたわけです。昔レーモンド事務所にいた マイケル・チャヤという先生がカリフォルニア大学バークレー校にいたので、彼の誘いでそこに進むことにしました。都市計画を勉強したかったのですが、アメリカの都市計画とは社会学や行政学に属するもので、日本でいう都市計画、つまり都市のフィジカルな形を勉強するようなところではありませんでした。
 
 そこで1年英語を勉強してから建築を学ぶことにしたのですが、当時の建築科はコンピュータばかり、パソコンができる前なのでみんな巨大な機械でグチャグチャやっていて、これを勉強しにアメリカに来たんじゃないと思いました。
 
 では都市計画はどこで学べるのか。アメリカではどうやらランドスケープの人がフィジカルな都市計画をするのだとわかってきました。19世紀にニューヨークの セントラル・パークを設計した フレデリック・ロー・オルムステッドにはじまる ランドスケープ・アーキテクトという職業が確立されているわけです。バークレー市の道路計画もオルムステッドです。サンフランシスコ湾に沈む夕陽に合わせて道路をつくろうと考えたもので、カリフォルニア大学の中にもオルムステッドが引いた軸線が一部残っています。
 
こうしたことを知ってランドスケープ・アーキテクトという職業は大変なものだし、この大学に来てよかったと思いましたね。入学して2年目に建築とランドスケープ、都市計画、インテリア・デザインが一緒になった環境デザイン学部ができ、3年目に ガレット・エクボというランドスケープ・アーキテクトが教授に着任したので、そこで勉強することにしました。エクボは親日家で何度も来日しましたし、後に彼の日本での仕事( 湘南国際村のコンセプトワーク)を仲介するなど長い付き合いになりました。
 
— まさにそこに見るのは環境デザインの歴史ですね。この分野における当時の体験を語り継ぐ方は、内藤さんを置いては日本にはなかなかいない。
 
内藤:エクボは面倒見のいい人で、卒業してから ササキ・ドーソン・ディメイという事務所に勤めることになったのもエクボが電話で紹介してくれたからです。
 
ササキでは3年間働きましたが面白い仕事が多く、とても勉強になりました。設立者の ヒデオ・ササキは日系二世で、とても温厚で非常に頭がよいのですが決して出しゃばらない、日本人らしい人でした。35歳でハーバード大学ランドスケープ学部のチェアマンになり、48歳で早くもリタイアしたという優秀な人でした。アメリカ人というのは議論になるとありとあらゆることを言いはじめますが、最後すっと上手くまとめてしまうのがササキでした。 ケネディ大統領のブレーンのようなこともしていたので、よくワシントンに行っていました。僕が在籍した頃のササキの事務所は65人くらいしかいませんでした。今は2,000人を越え、世界にブランチがあります。たとえば北京オリンピックの緑のマスタープランなども近年のササキの仕事です。
 
 3年で辞めて帰ろうと思ったところ、 ニューヨーク州立大学で教員を募集していました。日本人の教員を求める声があったようで東大で造園を教えていた 横山(光雄)さん経由で相談があり、3年間勤めました。ニューヨーク州というのは大きくて、日本の国土の3倍くらいあります。僕がいたのは シラキュースというニューヨーク市からかなり離れた田舎です。人口30万人くらいの、運河に船が行き交う物流都市でした。2年目からは同僚の先生が建てた家に住まわせてもらっていたのですが、アパラチア山脈が見えるきれいなところで、敷地が15万坪もあって池が3つもありました。それまでいたところは都会だったので、本当のアメリカの大自然をはじめて目の当たりにして、いっぱい楽しい思いをしましたね。
 
— 帰国はいくつのときですか?
 
内藤:38歳です。1972年に帰ってきました。だからデビューは遅いですよ。
 
— 帰国してすぐにALP(アルプ)を創設されたのでしょうか。
 
内藤:すぐつくりました。
 
— ALPという名前からは、建築(Architecture)と景観デザイン(Landscape Planning)をきちんとやろうという当時の内藤さんの強い意思が感じられます。1970年代初頭というのは「環境」という言葉をつければ都市的なことができるんじゃないかという漠然とした時代潮流がありました。技術的、理論的な裏付けがあやふやなまま都市スケールの計画が進んでしまう危うさもある中で、建築とランドスケープをプランニングするオフィスだと示す事務所名を付けたわけですから。
 
内藤:環境という言葉は、特にデザインという言葉を組み合わせると曖昧模糊としてしまうので使い方が難しいんですね。ササキも ランドスケープ・アーキテクチュア(Landscape Architecture)ランドスケープ・デザインという言葉が好きで、かつそういうことに一生懸命取り組んだ人ですが、 環境(Environment)という言葉を使うことは避けていました。
 
 日本に戻ってきて特に意識したのは、アメリカとの風土の違いです。カリフォルニアでは1年に降る雨の量は30cmしかないわけです。それに対して日本は2mから2m50cmくらい降るわけですよ。日本の雨というのは只者ではない。だから造成する場合にも、みんなひな壇にするわけですよ。雨が他人の敷地に入ると具合が悪いので。しかも必ず法(のり)の上で雨を受けるガーターを取ります。
 
— なるほど。造成上の基本ですね。
 
内藤:和辻哲郎は『風土』で、モンスーン、砂漠、ヨーロッパの気候の3つに分類して、気候による風土の違いを述べています。僕はこの本を、いつも手に取れる場所に大事に置いています。ヨーロッパでは雨が少なく、また表土がものすごく少ないので木がなかなか成長せず、草もあまり生えません。一度芝を貼ったら永遠に芝生です。それに対して日本ではあっという間に雑草が生えます。だから和辻さんもそのようなことを言っていましたが、ヨーロッパでは何事も計画通りに進みます。
 
— ヨーロッパでは計画が有効ですが、日本では計画はいつも参照すべきモデルでしかない。
 
内藤:日本では計画通りにはならないよね。突然のことがいっぱい起こるわけです。そういった風土は、人間の性格にも影響します。だから“雨のみち”を考えるというのは大変なことです。
 
— 手強いテーマですね。
 

 

日本のシビアな雨に対応するデザインの実践

 
— ここからは具体的な仕事について教えてください。「東京国際フォーラム(1996年)」のプロジェクトには、どのような関わり方をされたのでしょうか。
 
内藤:東京国際フォーラム」を紹介する記事では「植栽」というところに私の名前が出てくるのですが、実際のところは思い描く広場を実現するためにどうしたらよいのかと設計者の ラファエル・ヴィニオリから相談を受けていましたね。
 
—「東京国際フォーラム」のはじまりはコンペでしたが、内藤さんはどのタイミングで呼ばれたのですか?
 
内藤:ヴィニオリがコンペを取った時点で ダン・カイリーというランドスケープ・アーキテクトが入っていたのですが、彼とはカリフォルニア大学で知り合った、仲の良い友達でした。 ガレット・エクボのハーバード時代からの盟友でもあります。何度か日本にも来ていて、僕の家でマティーニをつくってくれたこともありましたね。
 
 ラファエル・ヴィニオリがダン・カイリーを指名したのだけど、ダンは病気であまり動けなくなっていてね。それでダンが内藤と一緒にやりたいと言ったので、ヴィニオリが私のところに仕事を頼みに来たわけです。僕は東京都との間に入って、折衝をしてあげていました。
 

photo = ayustety


 たとえばあの広場ではケヤキが建物の下に植わっています。すると日が当たりにくいですね。あの当時、ケヤキは1本150万円くらいしました。それが何十本とあるから、東京都は枯れたら酷い損失だと言うわけです。そこで僕が行って、ケヤキを植えたいと建築家が言っているし、元々スペックとして入れてあったものなのだから今更変えられない。人工照明を入れるとか近代技術を持ってすれば枯らさないようにできるだろうと言ったのです。
 
— 実際に、人工照明が入ったのですか?
 
内藤:入っています。お金がある時期とはいえ、大変な話ですよね。またあそこは人工地盤なので、幅が2mもあろうかという土もたっぷり入った植え溜めにケヤキを植えて、それを4本の柱でもたせて、さらに水の処理もするという難しいことをしています。
 
— 植栽を入れたことによる水仕舞は、どのように対応されたのでしょうか。
 
内藤:あの広場は面が二重になっていて、上の面のジョイントから雨を流し、下の面で水を受ける仕組みになっています。なぜならば水勾配を取ると建物の影がきれいに映らないので、地面を真っ平らにするためです。
 

photo = Boyd159


 実は「 シドニー・オペラハウス(1973)」も広場の地面が真っ平らです。やはり屋根の形が大事な建物なので、影をきれいに出す必要があるわけですが、あの建物の場合は特徴的な屋根の部分から二重にして水を受ける仕組みになっています。芸大で僕の2年先輩にあたる 三上祐三さんが考えた方法です。三上さんはとても面白い方で、あの屋根の形を16種類のプレファブのピースでつくることを考案しました。シドニーで平らな床を実現しているこのやり方はどうだとヴィニオリに提案したところ、採用されました。
 
 あの建物で難しかったのは、床に長さ何十メートルもあるガラス面が嵌っている部分です。しかも設計を見てみたら、庇がついてなかった。ヴィニオリは日本で雨がどれだけ降るのかを知らずに設計していました。少しでいいから庇を付けろと伝えて、付けてもらいました。
 
— “雨のみちデザイン”として重要で、核心的な部分ですね。竪樋も横樋も付けないやり方がなされている。最後、三重県の「専修寺 高田会館ホール(2012)」について教えてください。屋根のデザインが素晴らしく、まさに建築とランドスケープが融合した、ALP(アルプ)の理想の体現だと感じられた建物です。
 
内藤:専修寺は三重県の津市にある1600年代創建という古いお寺で、浄土真宗の10派あるうちの高田流の本山です。その集会所をつくってくれという依頼でした。親鸞の死後750年にあたる大御遠忌を記念して建てられました。現地に伺うと、屋根のきれいなこと。ありとあらゆる建物に屋根がかかっていました。だから屋根を大事にしながら設計しました。このお寺には檀家がないためゆとりある経済状況ではなく、資金が限られていました。建設費を抑えるために既存の建物を一部残すなどしていますが、象徴的な屋根だけは初期案で実現できました。
 
— 屋根はガリバリウムですか?
 
内藤:そうです。色がきれいなんですよ。瓦の色と合わせることを意識してつくった屋根です。これもほとんど樋がない建物なので、難しかったです。
 
— ひとつの大屋根で覆っているのではなく、異なる勾配の屋根で分節されているところが絶妙ですね。
 
内藤:表から見える部分は大屋根にして、蓮池に面した内側は勾配を緩めて柔らかい屋根にしました。
 
— 内藤さんらしい、“ランドスケープ・アーキテクチュア”ならではの発想だと思いました。
 
内藤:建築の中だけで考えるのではなく、庭を通じて考えていくと、こういった屋根の形が自然とできることはありますよね。これ、非常に大事なことだと思いますよ。
 
— 内藤恒方さんの話をうかがって、戦後の建設物資が不足している時代、建築家たちの建築設計に対する「ミニマムな材料でマキシムな効果を上げる」本質的で真剣な態度をうかがうことができました。
 
そして、改めて「建築の中だけで考えるのではなく、庭を通じて考えていく」ランドスケープ・アーキテクトの専門的総合性を考えさせられる機会にもなりました。今日の建築・ランドスケープ・都市の情勢を想うと、力のあるランドスケープ・アーキテクトが待望されるところでもあります。今日はありがとうございました。
 

 
2012年11月19日 収録

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