水澤孝彦(みずさわ・たかひこ)
 
<水澤工務店の沿革>
1914年、東京都港区芝琴平町(現在の虎ノ門)にて水澤工務店の名称をもって建設請負業を営む 初代社長水澤文次郎。1944年、水澤工務店株式会社に組織を改め法人として発足。1955年、東京都江東区木場へ本社を移転。1965年、水澤文次郎、黄綬褒章を受賞。1967年、水澤文次郎、勲五等瑞宝章を受賞。1970年、水澤晴彦、代表取締役社長に就任。1993年、第18回吉田五十八賞特別賞受賞。2003年、水澤孝彦、代表取締役社長に就任。2005年、「平山郁夫シルクロード美術館」グッドデザイン賞 受賞。
 


山口逢春記念館(画室)の外観


 

2013.04.05

建築家を支え続ける職人のチカラ

people 04:水澤孝彦 / Takahiko Mizusawa

 

 <山口逢春記念館>は、画家の山口蓬春が1948年から亡くなる1971年までを過ごした邸宅だ。既存の木造2階建て家屋は、昭和初期に建てられたもの。建築家・吉田五十八(1894-1974)の助言を受けた山口蓬春が、当時売りに出されていたこの建物を、ドイツ製カメラ「ライカ」一式を売却することで購入した。その後、画室をはじめとした増改築を吉田五十八が手がけた。
 
 今回のピープル|インタビューのゲストは、水澤孝彦さん(水澤工務店代表取締役)。水澤工務店は、約100年前から、名だたる建築家たちの作品を確かな職人の技術をもって精巧に作り続けてきた数少ない工務店である。今回は、吉田五十八が設計を行い、水澤工務店が施工を手がけ、葉山に今でも残る<山口逢春記念館>を訪ね、その後、インタビューを行った。

(インタビュアー:真壁智治、編集・写真:大西正紀/mosaki)

 
 
 

 
----- 今日は、<山口逢春記念館>(設計:吉田五十八)を一緒に見学させていただきまして、ありがとうございました。あの建物を見ると、建築家や設計者たちが、どんなに詳細に雨仕舞の図面を描こうが、また、防水技術が発達しようが、最後は工務店の力量にかかっているのだ、ということを改めて痛感しました。水澤工務店が、水回りや“雨のみちデザイン”に関わる経験則や知見を、どのようにして受け継いでいるのか、ということも含めて、今日はお話をうかがえればと思います。
 まず、<山口逢春記念館>には、いたるところに水澤工務店の気概のある仕事ぶりを感じたのですが、いかがでしたか。
 

水澤:あの建物が最初に増改築されたのは1953年(昭和28年)ごろなのですが、時が経って、今見ても本当に美しい建物ですね。
 水澤工務店の歴史を紐解いていくと、吉田五十八先生とは、昭和20年代後半からお付き合いがはじまっていたそうです。そういう意味では、水澤工務店にとっては、一番はじめのころの建物だと推測できます。吉田先生は設計する際、いつも職人の方々と会話をしながら設計内容の詳細を決めてこられたそうです。施工が実現できないような無茶なことは、やらせることはない。けれども、職人さんができるであろうことの、もう少し先のレベルのものをつくらせようとする。その時は、あくまでも職人さんと話をしながら、新しい物を詰めていく感じだったそうです。職人さんたちの気持ちや技量すべてに対してリスペクトをしながら、接せられていたと聞いています。
 

山口逢春記念館(画室)の内観。奥のテーブルセットが置かれたスペースは、一段下がっている。段差をつくることで、椅子と座の生活の融合を目指した。当時としては画期的なデザイン。
 
----- <山口逢春記念館>を見ていると、至るところに設計者と施工者(職人)との信頼の強さを感じました。メンテナンスもまた、とてもいいですね。
 
水澤:建物というものは、メンテナンスを行わないと、どうしても崩れてきてしまうものです。もちろん施工するときは、長く保つように考えるわけですが、やはり建物は継続的に手を加えていかなくてはいけません
 
----- 見ていると、この建物には“雨のみち”は無論、建具や左官仕事、内装に見られる木の取り合い、とにかく凄いディテールがたくさんありました。水澤工務店の下には、そのような技術を持つさまざまな職人の層が、厚くあった時代だったのですね。
 
水澤:そうですね。私たちの元にはたくさんの職人がいました。逆に吉田五十八先生や谷口吉郎先生、村野藤吾先生や堀口捨巳先生などに、育てて下さったと言う思いが強いです。
 

山口逢春記念館(画室)の北側のガラス窓のディテール。どの窓枠も華奢で、存在感を感じさせない。
 
----- そもそも吉田五十八さんと水澤工務店は、どのような出会いだったのでしょうか。
 
水澤:何かの縁で巡り合わせがあったとは思うのですが、詳細はわかりません。私もまだ小さいころに、吉田先生の膝に乗せてもらっていたと聞いているのですが、残念ながらまったく記憶がありません(笑)。
 
----- 今日、<山口逢春記念館>を見学している中で、谷田さんは「これはうちのものかもしれないな」とおっしゃっていました。その頃から、水澤工務店とタニタハウジングウェアの付き合いはあったのでしょうか。
 
谷田:その当時はまだ、初代は銅の製品はつくっていませんでしたが、銅の板はつくっていました。だから、それを使って板金屋さんが作っていた可能性はあると思いました。
 
----- 建物が建ってから約60年が経ち、その建物に関わった者の三代目同士が、今こうして会っているということは、凄いことですね。
 

左:雨どいの随所にも職人の手跡が感じられる 右:足下でL字にクランクしている雨どい


 

 

技術の継承を支える技術部は、常に現場へ

 
----- これまでの仕事の中では、雨仕舞にどんな対策を講じてきたのですか。
 
水澤:雨は漏ってしまったら困ります。だから、苦労は毎回、毎回、全ての建物にありますよね。もちろん全ての現場でチェックは行うのですが、それだけではありません。水澤工務店には、社内に技術部という部署もあって、どのプロジェクトも、そこで一度図面を大きくして詳細なチェックをします。ここまでは自分たちの判断で行い、それでも難しい部分があれば、建築家の先生に相談させていただき、必ずお互いが納得していく形で進めていきます。
 
----- 2000年辺りになってから大きな屋根をかけたり、軒を出すことが建築家の中でも必然的なテーマになってきているようです。そして、そもそも建築家たちが好んで使ってきた陸屋根に無理が生じるということが分かりはじめたのでしょう。
 
水澤:建物は基本的には 春夏秋冬がある日本の風土に建っているので、建物周辺にはその土地土地の環境があり、雨風もある自然環境の中にあるものですからね。そういう中で持ちがよく、さらに見栄えもよくなければいけない
 
----- そうですね。気持ちがよく、見栄えもよいというバランスを持った美意識のトレーニングを建築家たちはおこたってきたところもある。見栄え中心でありすぎた。それが変わろうとしているのが今だと思います。そういう意味で、水澤工務店がこれまでの建築家たちとのやりとりで生み出した技術をストックし続けてきたことは貴重だと思うのです。
 
水澤:もちろん現場では、現場が責任をもって施工するわけですが、それをやらしっぱなしにはさせません。先ほどお話した技術部や経験豊富な上司は、机の上だけで考えるのではなく、いくつもの現場を常に巡回しています
 
----- なるほど。そうしたことが、社内全体での施工した作品に対する共通理解や作品の仕組みそのものの継承へとつながっているわけですね。
 
さらにひとつ興味深いのは、1970年、1990年と施工作品集を作られていますよね。実に貴重な活動だと思います。写真と図面によって編集されているのですが、これは先代のときから行っていることなのですか。
 
水澤:そうですね。初代のときにも既に施工作品集はありました。一番最初の作品集は、写真と図面で構成されていましたが父の代は写真のみでした。
 
----- こうやって施工作品を掲載してまとめるというのは、なかなかできることではないと思うのです。例えば、大手のサッシメーカーなどは、かつてはありましたが、今はどうでしょうか。しかし、こうしてつくるものもまた有効に活用されるというわけですね。
 
水澤:そいう風に見ていただければ、大変うれしいです。たまたまですが、昨日は水澤工務店のFacebookのファンページを立ち上げました。これからここに1950年より以前の古い情報もアップしいこうかと考えています。

山口逢春記念館(画室)の外観


 

画室の北側を見る。大きなガラス窓の前に作り付けのソファがある


 

部屋の片隅に設置された小さなテーブル。空間、家具、モノ、すべての関係が緻密に考えられていることを体感できる

保存のポイントは、メンテナンスの仕組みづくり

 
----- 水澤工務店と吉田五十八さんとの関係は、本当に大きかったようですね。
 
水澤:そうですね。もちろん関係が深かったのは初代、先代ですが、私の世代になってからも縁があって、ついこの間も吉田先生が熱海に設計したものを、ある人が欲しいということになり、一度解体をし、また忠実に再現致しました。現場に入っていただいた職人には、吉田先生と御一緒させてもらった職人もいて。こういう機会を得れた事は大変貴重だと思いますし光栄です。
 
----- <山口逢春記念館>は、比較的良質な形で保存・修復がされていますが、あれはJRがメセナ的に行っているようですね。こういうふうに、良いものを良い形で残すということが、もっと増えるべきだと思います。
 
水澤:最近、住宅の保存・修復などに関わっていますが、例えば、前川國男さんの品川の自邸や村野藤吾さんの建物などは、存続の危機になっているようですね。ル・コルビジェの建物は、財団があるからきちんと残っているものが多いですよね。A・アアルトも財団があり、建物を売買する場合には、ファンデーションを通じて、きちんと一筆交わすのだそうです。そこでは基本的に増改築をしたり、壊したり、手を加えてはいけないとあるのだそうです。だから、もちろんその物件を購入する方の守って行きたい気持ちと御理解があってこそだと思います。こういったシステムや気持ちが日本にもあれば、名建物、名住宅はずっと残せますよね。
 
----- そうした視点を持った志を、メーカーも含めてもてるとよいですよね。
 
水澤:そうですよね。名住宅を残すときに一番の問題は、相続問題が大きいと思います。例えば、名建築を相続する場合は建物土地の相続を無税にする事で建物を残しやすい環境を作る必要性があるかもしれませんね。
 
----- 確かに家を継承していくことに税金が多大にかかってしまうことは、とても大きな問題ですね。一方では、家の継承に際しては、やはり工務店のその家との関わり方は、まず基本にあって、相当、重要性を持っているように思います。そういう意味では、今回の<山口逢春記念館>は、残せる仕組みができていたわけです。
 
水澤:メンテナンスできる仕組みを作っておくことが重要です。そういう形で、存続できる名建築が増えていくといいのですが。
 
----- 工務店がつくりあげた建物が、わずか50年で終わってしまうのは、文化としてもったいないです。

 
水澤:ヨーロッパの人にとっては100年ではまだ若いというくらいですからね。日本の建築ももっと寿命を延ばすことができればいいですね。
 



画室の南側を見る。ガラス戸、雨戸、網戸9枚のすべてが壁に引き込まれている。


 
 

画室とヴェランダを区切る大障子は、障子そのものに欄間を取り付けるという発想でつくられていて、欄間鴨居の影が映らないようになっている。障子の最後には隠し板が取り付けられていて、引き出した後の壁の空間が自動的にふさがるようになっている。


 
 
 

 

木造の復権と技術の継承

 

※ここで建築家の伊礼智さんが合流

 
----- 先ほどの吉田五十八は職人の技量のちょっと先を目指すというお話は、面白かった。
 
水澤:職人さんも、それが面白くなっていくのだそうです。さて今度はどうしようかと。ご本人たちは、それは楽しいでしょうね。
 
----- 実は、現代の建築家の中では、伊礼さんもそのように現場の職人さんとディテールに至るまで詳細に詰め合っていくタイプだと思うのですが。
 
伊礼:吉田先生は昔から常に脅かすような普通ではない納まりをされていたのですね。数寄屋や茶室などを設計する建築家は、他にもたくさんいますが、あそこまで確立化、普遍化した人はいなかったのではないでしょうか。それには、吉田五十八という人の育ちの良さということも、大きく影響していると思います。どれを見ても僕らからすると、勇気のいる納まりで、かつ優雅です。日本建築のある世界、優雅さを、誰もマネができない水準でつくっていたわけです。
 
 先日、新潟へ行って、吉田先生設計の<小林古径記念美術館>を見せていただいたんです。僕が独立する前に10年間勤めていた事務所の所長、丸谷博男さんは、吉田先生が大好きで、その建物のディテールをよく真似ていたんです。勤めていたときは、木村工務店さんと一緒に仕事をさせていただいていて、吉田五十八風の納まりや職人技を勉強させていただきました。また、独立してからも職人さんたちとフラットに付き合いながら、ものづくりをしていきたいと思っていました。
 
 だからこそ、今日の建物を見ていても、図面を描いてすぐできるものでないことは分かります。職人たちが木を読み込んで、そして彼らの経験値があってこそできるものだと。最近では、ちゃんと図面を描いても、職人からは、これはどうつくるのか?教えてくれと言われることも少なくないのです。これはもう地方にいっても木建てをやったことのない工務店も多いですからね。今は、一般的にはそういう状況なんです。だから、今日は改めて凄いと思ったんです。
 


作り付けの家具や収納も、無数のアイデアで埋め尽くされている。写真は収納の開き戸のディテール。
 
----- しかし、今日<山口逢春記念館>を見ていて不思議だと思ったのは、吉田五十八のもっているスタイルが、非常に収まっているのですね。全く奇異に見えない。その奇異に見えないからこそ、伊礼さんがおっしゃったように脅かすほどと感じるのだけどね。ひとつひとつの木の吟味だけ見ても、すごいですよね。
 
水澤:吉田先生は、いつも本当に現場へべったり付いていたそうです。だから、現場の変更も多かったようです(笑)
 先日、再現した熱海の物件でも解体時に分かったのですが、一度施工した居間の天井を壊し、天高を下げた痕跡が見つかったり、化粧で見せるつもりだったであろう磨き丸太の柱が便所の壁の中から発見されたり(笑)。
 
伊礼:あるとき丸太(皮付きの柱)がころがっていたら、ある画家にこれは太いね、と言われて。自分でもそう思っていたらから、徹夜で一皮剥いたという話も聞いたことがあります。
 
水澤:無理難題を言われても、職人から言われる話というものは、どれも納得せざるを得ないのだそうです。
 
----- いろんな意味で吉田五十八という建築家、また吉田五十八的な職人との付き合い方というものは、今という時代にもう一度、語られるべき必要性があるのかもしれませんね。
 
伊礼:もう一度、木造で最高水準のものをつくるということをやるべきなんだと思います。もう一度日本が自信を取り戻すためにも、木造には可能性があると思うのです。それはもちろんがっちりした木造ではなく、<山口逢春記念館>のような華奢な木造です。そこへ日本らしさが隠れているように思います。
 

 
----- 水澤工務店は孝彦さんまで、こうして3代続いているのですが、“技術の継承”については、どのように考えておられるのですか。
 
水澤:技術をどのように継承していくか、ということについては、ずっと考えています。時が経つと同時に、様式も変わり、職人も変わり、技術もかわる。私たちの会社ですら、木造に触れること自体が少なくなってきています。畳のない、和室がない住宅もたくさん作っています。それでも、数多くのお寺の施工や修復をさせていただいているので、“技術の継承”は、なんとかなされているのが正直なところです。もし、これでお寺の仕事がなかったとしたら、大変なことになっていると思います。“技術の継承”は、教科書で教えられるものではないところが難しい。何度もトライして、実績と経験を積むことが必要で、その積み重ねで伝わっていくものだと考えています。
 
----- このウェブマガジン“雨のみちデザイン”では、さまざまな職人さんや建物にまつわるさまざまな人にも登場いただきたいと考えています。そうした意味では、工務店の一端をうかがいたかったわけです。今日はありがとうございました。

 

(2012年11月3日|葉山・神奈川県立近代美術館レストラン オランジュ・ブルーにて)