高橋裕(たかはし・ゆたか)
 
1927年生まれ。1955年東京大学第二工学部卒業。1955年東京大学大学院(旧制)研究奨学生課程修了。1955年東京大学工学部専任講師。1961年同助教授。1968年同教授。1987年東京大学名誉教授。1987〜98年芝浦工業大学工学部教授。2000〜10年国際連合大学上席学術顧問。主な受賞に、瑞宝中綬章(2007)、日本地下水学会地下水学術賞(2011)、日本国際賞(2015)ほか多数。

付き合い甲斐がある
これが雨の面白さ

people 09:高橋裕 / Yutaka Takahasi 

 

「雨のみち」にまつわる各分野の人やモノに着目し、「雨」をさまざまな側面から見つめ直すクロスポイントのコーナー。今回は、治水の研究者、東京大学名誉教授の高橋裕さんにお話をうかがいました。

2016.3.18
 

雨を巡る土木と建築の世界

 
— 先生のご専門の治水分野で「環境」という概念が出はじめたのはいつごろでしたか?
 
高橋:1980年代の後半でした。当時、日本中の川、特に都市の川は汚れていて、何とかしなくてはいけないということで、川の環境問題からはじまりました。次に生態系が破壊されて、その責任が河川環境だということが80年代終わりから90年代にかけてありました。それを 象徴する事件が長良川河口堰です。あれで日本中大騒ぎになりました。それで、1997年に河川法を大改正したわけです。
 
 

長良川河口堰(photo=Alpsdake)


 そもそも河川法の最初は明治29年ですが、そのときは 治水によって川を安全にすることが目的でした。1964年の河川法改正では、 治水だけでなく、水資源対策、水利用ということが重視され、さらに1997年の大改正で 河川環境が重視されました。それまでは「環境」という言葉は河川法に一言もなかったのですが、第1条に「治水利水と共に河川環境の保全と維持」という言葉が入りました。
 さらに河川計画を図るときは、専門家や学識経験者のみならず、住民の意向を聞かなくてはいけなくなったのです。
 
— 先生は、雨水貯留浸透技術協会という団体にいらっしゃったとうかがいました。この団体には、建築の人も土木の人もメンバーとして入られているのですか。
 
高橋:はい。そうです。土木の人が多いですが、建築の人もいますね。参議院議員の脇雅史さんが建設省河川局に居られたときに、雨水の活用を考えるべきだと主張されて、それがきっかけとなりました。僕は長らくそこで会長をしていました。
 
— そのように土木と建築の分野が一緒になるような学会や協会は、他にあるんですか。
 
高橋:もっとあるべきだけど、ほとんどないですね。コンクリートは土木にも建築にも共通するので、コンクリート関係の学会や研究団体は両者が居ますけど、立場が違うから、土木と建築の勢力争いになりがちです。あるとき、用語を一緒にしましょうとして、用語のどっちが正しい、正しくないとなって、結局威勢のいい方に偏ってしまって。
 
— やはりそういう関係が続いてきたのですね。だからそういう意味では、これからは、治水、そして雨というキーワードが、建築と土木を近づけるテーブルにはなり得るのではないかと思っています。
 
高橋 建築関係でも雨水に熱心な方は多数いますね。神谷博さんなどは、雨水問題に大変熱心で、建築学会などの雨水関係では、リードされています。私も建築の方とは、共通の話題がありますから話をしますが、その中でも建築と土木の違いをよく感じます。たとえば、 建築では雨水が漏れないようにすることなどが大事ですね。けど、 土木は住宅のことは余り考えないから、雨と言えば洪水対策や水不足にどう対応するかということになります。
 
— 建築においては、原則建物が大きければ大きいほど、雨は施設内に滞留させないで、できるだけ早く外に放出するというのが常道なんです。けど、そういう視点も土木からしてみると違和感があるのかもしれません。つまり貯蔵や二次保留をしろと。
 
高橋:自分の家のことで恐縮ですが、私の家では、屋根の半分に降った雨は庭に落として浸透させて地下水となり、残りの屋根の半分に降った雨はカーポートの下の貯水タンクに貯めています。30年来、それを水洗トイレに使っているので、トイレでは水道水は一滴も使っていません。雨が降りすぎるとオーバーフローしますが、溢れた先でも浸透するようにしています。逆に雨がぜんぜん降らないときは、貯水タンクの水位が下がるのですが、そうすると電磁弁が働いて、自動的に井戸水が入るようにしています。
 ともかく どこの家も皆、自分の敷地に降った雨を外に出さなければ、これが水害対策になりますね。
 
— 建築の世界では、モダニズムの時代は陸屋根が多かったのですが、やはり棟のある屋根というのは、おおきな一つのキーワードになりそうですね。
 
高橋:逆に言うと屋根は日本特有の傾斜があるからこそ好都合です。
 
— 先生の『都市と水』(1988/岩波新書)は、東大にいらっしゃった晩年期、定年の頃にお書きになられたのですか。
 
高橋:定年の少し前でした。新書を最初に出したのは 『国土の変貌と水害』(1971/岩波新書)でした。2冊目が『都市と水』(1988/岩波新書)、3冊目が『地球の水が危ない』(2003/岩波新書)、4冊目が一昨年め出版の『川と国土の危機』(2003/岩波新書)
 最初の『国土の変貌と水害』は、最近アンコール復刊されました。というのも、自分のことで恐縮なのですが、今年この本が、日本国際賞をいただいたひとつの理由です。審査委員長の小宮山さんが、44年前に書いたこの本の内容を大変評価してくださったんです。
 
— 『都市と水』というテーマは、2020年の東京オリンピックも含めて、これからの日本や東京をアピールしていくとき、良いにつけ悪いにつけ、あの本のテキストがベースになると思います。
 
高橋:ありがとうございます。

武田信玄が今伝える、治水にも必要なソフトとは

 
 
— まず、治水という視点についてですが、そもそも日本の治水にはフィロソフィーがあったわけですね。武田信玄をはじめ、藩の統治の上で、治水の話はつきものです。
 
高橋: 日本の治水技術が急激に発展したのは、戦国時代です。その象徴が 武田信玄や、その少し後の 加藤清正。あの人たちは 治水の大家です。その頃から日本は、水害大国でしたから、まず自分の領地内の水害を収めないといけなかった。自分の領地の水害を収められず死者が大勢出るようでは、戦国武将は他国と戦えませんから。
 信玄は鉱山開発にも熱心だったけど、有名な釜無川の 信玄堤(しんげんつつみ)をはじめ、立派な治水での成果を収めています。それが一般的にはすばらしいと言われているのですが、それは表面的にすぎません。 信玄による治水がすばらしいのは、釜無川に信玄堤をつくり、その上流側に神社を持ってきて、堤防の上を参道にしたことなんです。そうすることで、お祭りの度に堤防の上の参道が人で賑わい、堤防が固められたわけです。
 
— 人によるねり固め! まさにスーパー堤防ですね。
 

信玄堤(photo=さかおり)


高橋:さらに参道にすると流域の住民たちは、堤防を大事にするじゃないですか。だから、 信玄が命令しなくても、住民たちが積極的に堤防の維持管理を行っていたんです。タケノコの季節には、堤防が壊れないように対処したり。信玄が命令しなくても、自発的にやるわけです。
 つまり 信玄は信玄堤という施工以上にハードとソフト、両方の面で大変な知恵があった。そこを評価すべきです。でも信玄というとハードの堤防ばかりが取り上げられてしまうんです。このことは清正はもちろん、戦国の武将、江戸時代以降の名治水家たちも、皆同じです。
 それが明治以降、新しい技術が入ってきて、 日本の河川技術は進歩するのだけど、ハードだけ猛烈に進歩してしまうんです。ダムにしても堤防にしても、治水事業のハードとソフトがいかに組み合わさるかということを忘れてしまった。
 ソフトとハードでは、管轄の役所が違ってしまったことも、そうなってしまった大きな要因です。ソフトは都市計画の管轄になってしまったことで、 治水行政ではソフトが軽んずられるようになった。これは今にも続いています。たとえば戦後のダムづくりは、ダムをつくる技術は発達したけども、一方でその維持管理、環境への配慮、住民との関係などについては、深くは考えられなくなってしまいました。
 私はそういうことを早く主張して、環境という言葉が取り立たされはじめる1980年代より前に、 『国土の変貌と水害』という本で、技術者がものをつくるのを主な役割とする時代は終わったと考えるべきだと提起しました。 何となく巨大なものをつくりさえすれば大成功ということよりも、ハードとソフトをいかに組み合わせるかが重要だと伝えたかったのです。
 
— このウェブマガジン「雨のみちデザイン」にも、雨というものに対してハードとソフトを融合していくような、視点を持ちたいという側面がありました。通じるものがあると思います。
 

奈良県中西部を流れる飛鳥川(photo=アラツク)

 

日本人にとっての「雨と自然観」

 
— ソフトに関連して、ひとつおうかがいしたいのですが、水というものに対して、日本人特有の感性、感覚、自然観というものについては、どうお考えですか。
 
高橋:日本人には、雨や水を大切にする自然観があります。それは、日本が環境的に非常に水に恵まれているからだと考えられます。さらに変化に富むことが、日本人の自然観を養ってきたのですね。雨もただ多いだけではなく、雨が少ないときもあり、多いときもあり、変化に富んでいる。
  それを敏感に感じていたのが清少納言だと思います。清少納言は感性の鋭い女性です。たとえば川についても、飛鳥川の淵瀬で「常ならぬ世にあらば」に注目する。川を見るとき、淵や瀬が常に変わることに、彼女は注目していたのです。降った雪が何日経ったら融けるだろうという賭けをしたりもした。つまり、変化に関心があり、変化ということに自然そのものの成り立ちを感じたのでしょう。
 清少納言だけでなく、その後の万葉集をはじめ、今も読まれているような昔の日本の文学を読んでいると、昔から日本人は特に水の変化の仕方に非常に興味を持っていたことがわかります。どれも雨や川の扱いに触れられているものが多いのですが、その変化に注目しているんです。雨も一様に降るのではなく、どういうふうに変わって降るのか。川を眺めても、ただ流れを楽しむのではなく、どう変化しているのか。こういうことが日本人の自然観の特徴的なことのひとつだと思います。
 信玄の話に戻りますが、信玄も河床の土砂の動きに注目していました。信玄堤の少し上流に高岩という断崖絶壁があって、そこに釜無川へ御勅使川という暴れ川が入ってくる合流点があります。多分彼は、そこに流れが上がってくる度に、河床の土砂がどうかわったかを観察していたのだと思うのです。最終的に信玄は、その信玄堤へ洪水流が流れる前の上流の高岩の辺りから治水を行い、力を弱めようとします。これが戦でいきなり主力同士がぶつかるのではなく、前もってゲリラでぶつからせて力を弱めさせることが得意だった信玄の兵法とつながる、そう僕は勝手に考えているのです。
 
— 現代は、コンピュータでデータ解析をする時代ですが、自分で観て変化を十分観察するということは忘れてはいけないことかもしれませんね。
 
高橋:コンピュータは現状を大変丁寧に能率良く解析してくれます。だけど、なかなか予測はできない。だからこそ、人間による観察は、忘れてはいけません。うまくいかないからこそ、ある意味、面白い。天気予報にしても、こんなに丁寧に発表する国は、ないでしょう。
 

基本は雨との付き合い方

 
— 今日は、いろんなお話をありがとうございました。最後に、高橋さんのお立場から、「建築と雨」について、提言のようなものをうかがえますでしょうか。
 
高橋:土木にせよ、建築にせよ、基本的に雨との付き合い方の問題が大事です。ただ測ればいいとか、貯めればいいとか、それも大事だけど、それらすべて雨との付き合い方の一部だということです。雨は、付き合うことが十分に難しい相手。だから、付き合いに深みがあるのです。土木も建築も、雨とどう付き合うかを考え続けることが求められると思います。
 
— これは素晴らしいメッセージです。
 
高橋:その中には、予測できることもあるだろうし、大雨や雨漏りにどう対処するかということもあるでしょう。それらも付き合い方のひとつですね。人間が思うように完全には予測できない。だから、うまくいかないときにどう対応するかを考えるわけです。つまり雨には、付き合うに足る味があるのです。特に日本の雨は複雑で変化に富ますから。
 
— 確かに、日本は雨季と乾季がはっきりあるわけではない。だからこそ、完ぺきは望むよしもないと。
 
高橋 そうですね。雨との付き合いは、そう易しくないからこそ、付き合い甲斐があるのです。
 

2015年12月7日(月)収録