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稲山正弘 / 構造エンジニア
持続する建築へ
── 木造施設の進化と課題
インタビュアー:真壁智治、編集・写真:大西正紀
収録日:
2024/2
/
9、公開日:
2025/
12/15
大断面集成材から地域の手刻み技術まで ── 日本の木造建築は、この四半世紀で劇的な進化を遂げた。その最前線を歩んできた構造家・稲山正弘が、木造施設の過去・現在・未来を語る。「いわむらかずお絵本の丘美術館」に始まる地域密着の建築、「飯能商工会議所」に結実した地場技術の継承、そして「戸越銀座駅」にみる都市木造の可能性。地域と技術の両輪で築かれた木造建築の現在地を見つめながら、「持続する地域」と「しなやかな建築」のあり方を問う。
木造建築を取り巻く25年の変化と現在地
― 今回は「木造施設への期待と課題」というテーマでお話をうかがう6回目として稲山正弘さんに登場いただきました。まずは、近年の木造建築の活況について、構造家としてどのように見ていらっしゃるかうかがえますか。
稲山:木は再生可能な素材で、廃棄時にも環境負荷が少なく、これからの社会にとって非常に重要です。軽くて強く、粘りもあり、仕上げ材としても使える。構造デザインの幅も広く、本当に魅力的な素材です。日本には木の文化が根付いていて、かつては木造で大規模建築もつくられていました。
以前は木質構造の設計体系が不十分でしたが、実験研究に取り込み、耐震設計の土俵を築いてきました。接合部の研究も進み、設計の自由度が高まりました。それが現在の木造建築の活況に結びついていると思います。
伊勢湾台風の被害を受けて、1959年に 日本建築学会が木造を禁止する決議を出したことで、長らく木造は制限される時代が続きました。ただ 1980年代後半、 日米林産物協議を契機に外圧が高まり、法改正によって木造 3階建てが可能になり、大規模木造の可能性が広がっていきました。当時はツーバイフォーや大断面集成材といった工法も導入されましたが、多くは外からの刺激によるものでした。国の政策的な誘導もあり、ヨーロッパではすでに木造のビルが建てられ、日本でも林業の活性化や環境負荷の軽減を目的に「木を使おう」という動きが起きました。
― そうした国際的な流れと外圧的な進歩が重なったんですね。
稲山:特に 2000年以降、環境意識の高まりから民間事業者も森林資源を活用する方向へと動き、木材の価値が再評価されるようになりました。阪神淡路大震災を契機に、古い木造の耐震・耐火性への反省から研究が進み、信頼性の高い構造が実現されていきました。
私が学生だった頃、建築学科で木造を扱っていたのは全国でも数えるほどしかなく、むしろ農学部の方が木材研究の中心でした。そこに建築側から関与し始めたのが 坂本功先生で 内田祥哉先生の「このままでは日本の木造文化が途絶える」という危機感が、木造研究への転換のきっかけになったんです。そこから弟子世代として私たちが育ち、今では複数の大学で体制が整ってきました。
私自身は 1982年に大学を卒業し、住宅メーカー勤務を経て坂本先生の研究室で木造ラーメンや “めり込み ”の研究を始めました。当時、建築学会の木造発表は年 60編ほどでしたが、現在は 300以上。研究者も 5倍以上に増えています。ただ、大学における木造専門の講座は今でも少なく、木造の研究もやっていた教授が退職すると他分野に変わってしまうこともあります。最近では RCや振動論の研究室の中でも木造を扱う動きが見られ、研究の裾野は広がってきました。
佐藤淳さんのように、鉄骨を出発点にしながら素材を横断し、構造デザインの観点で柔軟に木造に取り組む構造家も出てきています。こうした動きが、木造の設計に新たな幅をもたらしています。
― その設計の幅も、素材流通の現実と重なってきますね。
稲山:その通りです。日本の木造住宅の 95%以上が在来軸組工法で、木材の流通も住宅中心に構築されています。公共建築においても、住宅用の流通材を使えばコストや供給の面で有利ですし、地域の工務店にとっても対応しやすい。私たちも住宅用のプレカット工場や地元の工務店と連携して、中大規模木造の普及に取り組んでいます。この 10年で、その広がりを強く感じています。
地域の技術をつなぐ──「いわむらかずお絵本の丘美術館」から「飯能商工会議所」へ
「いわむらかずお絵本の丘美術館」内観(写真 = 著者提供)
− 私の同級生でもあった野沢正光さんが最近亡くなり、とても残念に思っています。稲山さんは、「いわむらかずお絵本の丘美術館」などでご一緒されていました。
稲山:はい。 1998年の 「いわむらかずお絵本の丘美術館」、そして 2023年の 「飯能商工会議所」まで、野沢さんとは長くお付き合いがありました。この二つのプロジェクトを比べると、木造を取り巻く状況は大きく異なっていました。
98年当時は、木造建築はまだ現在のような注目を集めておらず、特に公共建築は工業化された大断面集成材や鉄骨による大量生産の流れが主流でした。そんな中で「いわむらかずお絵本の丘美術館」では、栃木県産の杉材を使い、地元の製材所や大工とともに、伝統的な仕口と継手による施工を行いました。これは当時としては極めて珍しく、地域の技術と素材を活かすという点で、ある種のアンチテーゼでもあったと思います。
「飯能商工会議所」内観(写真 = 著者提供)
一方で「飯能商工会議所」では、木造が大規模建築に用いられることが一般化しつつあり、法制度や流通の整備も進んでいました。野沢さんとは「地域の建築とは何か」を改めて共有しながら進めましたが、やはり一貫していたのは、自然と調和し、地域の人とともにつくるという姿勢です。
− まさに野沢さんの思想と、稲山さんの構造技術が時代をまたいで重なっていったのですね。
稲山:ええ。「いわむらかずお絵本の丘美術館」での出会いは、阪神淡路大震災の後に私が雑誌『建築知識』で木構造についての連載をしていた頃、当時の編集長に紹介されたのがきっかけでした。そのときの野沢さんは、木造でやりたいという明確な意志を持っていて、私たちは自然に意気投合しました。
− 稲山さんは、北川原温さんともその時代にお付き合いがあったのですね。
稲山:そうですね。野沢さんも北川原さんも、地域の自然に根ざした素材の扱い方を大切にしていたと思います。たとえば金物や接着剤に頼らず、木そのものの特性を活かすような発想です。私自身も、ちょうどその頃、「林野庁・森林技術総合研究所の林業機械化センター」で「めり込み」の原理を用いたラーメン構造の建物を構造計算して完成したばかりでした。かつては勘や経験で処理されていた部分を、構造設計に取り込めるように取り組んでいたのです。
98年の「いわむらかずお絵本の丘美術館」のあと、岐阜県の「森林文化アカデミー」のプロポーザルコンペで、北川原さんと組むことになり、その理論が、面格子耐力壁の設計に結びついていきました。他のチームが LVLなど工業製品による提案をする中、私たちは岐阜の杉材などを使った地域材中心の設計を提示しました。ちょうど自然を尊重するような素材の扱いを、北川原さんとも共有していたんです。
− 北川原さんも長野出身で、自然観に対する感性は近いのかもしれません。
稲山:その通りだと思います。地域の森や木を「資源」としてではなく「風土の一部」として捉える視点を、私たちは共有していました。無理に素材を加工してコントロールするのではなく、そのままの力を引き出すような設計手法を重視していました。
− 吉村順三さんの「素材は無理して使うものではない」という思想にも、どこか通じますね。
「林野庁・森林技術総合研究所の林業機械化センター」外観(写真 = 著者提供)
プレカットの進化と地域産業としての木造
稲山:「いわむらかずお絵本の丘美術館」を手がけた 1998年当時は、すべてが手刻みで、当時はプレカットの技術も未発達で、地域材と手仕事による建築が主流だったんです。そこから 25年経った 2023年の「飯能商工会議所」では、木造を取り巻く状況は大きく変化していました。プレカット技術が進化し、今ではほぼすべての住宅がプレカットで建てられる時代です。職人は減り、かつてのような技術の継承が難しくなっています。
飯能はもともと西川材の産地で、地元にも建具職人や工務店が多く存在します。そこで、地域性を象徴するデザインとして、組子の耐力壁を取り入れました。製作を担当した坂本建具店は、 NC加工機を備えた高い技術をもつ希少な工房で、細やかな桟を用いた耐力壁を実現できました。この取り組みは、地域資源と職人技術を活かす象徴的な事例になったと思います。
− 商工会議所としても、地域の伝統技術を前面に出せるのは誇らしいですね。
稲山:あの耐力壁の原型は、 「宿毛まちのえき 林邸」を 古谷誠章先生と取り組んだプロジェクトにあります。私たちの研究室では、光や風を通す細い格子状の部材を使った耐力壁を開発してきました。視覚的にも美しく、構造的にも機能するもので、林邸という築 130年の建物で最初に導入し、そこでは土佐組子の職人が製作を担いました。
− またこれまでとは違う主題が、この建物では出てきた感じがしますね。
稲山:地域のアイデンティティを反映した建築を求める声と、それに応える技術的進化が重なったプロジェクトでした。職人の減少に反比例するようにプレカットが進化し、日本はツーバイフォーに全面移行せず、在来工法を保ち続けてきました。震災後に在来工法が批判され、ツーバイフォーが一時優勢になりましたが、その時期にプレカット工場が全国に普及し、結果として在来工法の再構築を可能にしたのです。金物を使わない構法も、こうした技術の可視化と数値化によって、再び設計の現場に取り戻されていきました。
日本は雨の多い国です。ツーバイフォーだと、屋根がかかるまで 1週間以上かかり、その間に内部が濡れるリスクがある。在来のプレカット工法なら、建て方 1日で屋根下地まで仕上がり、ブルーシートをかければ翌日から内部作業ができる。このスピード感が、日本の気候に合っていたんです。
− それは痛快な話ですね。
稲山:雨と架構法の相性が在来工法を生き残らせた。皮肉にも大工の手仕事は減ったけれど、プレカットが在来工法の継続に貢献した側面は大きいと思います。
− その上で飯能商工会議所は、地域のアイデンティティを体現する建物として構想されました。稲山さんに求められたのは、まさにそうした設計だったのでは?
稲山:ええ。木造でつくるなら、継手や仕口を活かし、地場の材を地元で加工するのが本質。すべて金物接合にしてしまえば、鉄骨と変わらない。木造だからこそ守るべき価値がある。地域の工務店や材木業者がプレカット機械を導入し、 NCマシンを使って新しい形で伝統技術を継承する仕組みも整ってきました。
飯能では、材料・加工・施工のすべてが地域で完結しており、管理がしやすく、地場の力を最大限に活かせました。商工会議所側からも「 西川材と地域産業のショールームに」と明確に求められ、それに応える形で、組子の耐力壁、立体トラス、 CLT折板構造など、多様な構造的工夫を盛り込みました。
− 地域の産業を可視化する、まさにショールーム的な建築ですね。
稲山:地場産業の集積を、建築として一つに編み上げたかたちです。しかも、昔なら手加工だったものが、いまは機械加工で短期間かつ低コストにできる。そうした技術を用いながら、地域の魅力を発信する建築にしたいと考えていました。野沢さんも同じ思想を持っていたと思います。
都市型木造建築の挑戦──戸越銀座駅の実践と課題
− 続いて、2015年の「戸越銀座駅」についてお聞きします。初めて見たとき、本当に感動しました。木造の公共施設で、あれほど「独りの居場所」として気持ちよい空間は稀有です。
稲山:あれはもともと木造の駅舎だった構成を活かし、多摩産材でリニューアルしたプロジェクトでした。東急電鉄が「 木になるリニューアル」として取り組んだもので、その後の旗の台駅にもつながっています。
「戸越銀座駅」(写真 = 著者提供)
既存駅舎の上にかぶせるように造る必要があり、夜中しか重機が使えない制約がありました。僕が採用した工法では、厚さ 50ミリの集成材が1枚3 0キロ。 2人で運べる重さです。横から差し込んでビスで固定する作業を繰り返すことで、クレーンなしでも構造を組み立てられた。すべてプレカットで加工し、現場で組み立てるだけなので、効率的でした。しかも、電車の運行中に施工する必要があったので、この方法が非常に有効だったんです。
あそこは都心の駅なので、終電が2時、始発が5時。その3時間しか踏切上に設置したクレーンの作業ができません。重機では到底間に合わないため、昼間の人力施工が前提でした。そこで、軽い集成材によるシザース構法が一番合理的でした。
− あの駅のホームの居場所感はもっと評価されるべきです。鉄骨やRCでは出せない、ヒューマンスケール感があります。商店街とセットで、駅も観光資源としてもっと知られてほしいです。
稲山:ヨーロッパの方には特に好まれると思います。構造としては、当初片持ち形式で構想していましたが、過去の大雪による片持ち鉄構造の駅舎倒壊の影響で、片持ちが禁止となりました。それで支柱を設けたわけです。ただ細かいピッチで支柱を立てると視界が妨げられます。そこで、ホーム側はスパンの長い鉄骨梁を使いました。当初は彦根設計事務所と住宅で用いたシザーストラスの手法を応用して純木造で進める計画でしたが、途中で鉄骨とのハイブリッドに変更しました。
− 最近ネットで見かけたんですが、シネジックの新社屋も稲山さんの仕事ですね。
稲山:飯能の少し前で、集成材と CLTを組み合わせたプロジェクトです。当時、石巻のセイホクに CLT工場ができたことで、地元生産の材料を活かせるようになりました。石巻の工場では幅 1.2メートルの CLTしか作れませんでしたが、それがむしろ私の考え方に合っていた。岡山の銘建工業まで運ぶより、地域で完結できることの価値は大きいと感じました。
設計も施主も、私の研究室出身者が担当で、構造の実施設計は 蒲地健さん。彼は私の一番弟子のような存在で、最近ではマウントフジの原田さんとも組んで全国で活躍しています。意匠設計担当の 堀越ふみ江さんも、うちの社会人大学院・木造建築コースの修了生。意匠設計から木造を深く学びたいと入学され、非常に熱心に修士課程を修了しました。
− 若い世代が着実に育っているんですね。
稲山:社会人大学院木造建築コースの講座は私が着任した 2005年から始まり、博士課程まで進んだ人も多くいます。たとえば構造設計の 坂田涼太郎さんは 田尾玄秀さんと並んで第一線で活躍していますし、意匠系から入った 坂根宏彦さんは今や学校建築の分野で評価を得ています。他にも、日建設計で構造設計を担当する 江坂佳賢さんなども修了生で、博士号も取得しています。こうして木造建築の現場に、コース出身の人材が着実に広がってきているのを実感しています。
地域型木造の可能性─バナキュラーと合理性の交差点─
− ここからは、これからの「木造施設への期待」について、特に小・中規模から超高層まで、視野の異なる木造建築の可能性と課題をうかがえればと思います。稲山さんご自身は、小さな断面の材でつくる地域型施設に関心が強いのではないでしょうか。
稲山:はい。もともと木造は、地域の工務店が担い手として発展してきた構法です。設計から施工、そしてメンテナンスまで、地域に根ざした体制が理想だと考えています。いわむらかずお絵本の丘美術館をはじめ、これまで私が関わってきたプロジェクトは、すべてそうした流れの中でつくってきました。
− その思想に沿って、架構技術も取捨選択されていると。
稲山:ええ。ただし、構造設計者として関わる際はそれでよいのですが、近年はゼネコンが木造 ──特に鉄骨とのハイブリッド型高層木造に力を入れ始めていて、そうしたプロジェクトでは共同研究というかたちで協働することも増えています。そこでは、ゼネコンの手法を尊重し、私は技術協力という立場で参加しています。ゼネコン主導の場合は、地域材や在来工法ではなく、デジタルに統合された BIM環境で、大規模工場から最適な部材を調達し、効率的に組み上げる。スケールも思想も異なります。
− 少し前に、旧東京会場火災ビルを木造に建て替える話が話題にのぼりました。「それで本当に意味があるのか」という声もありましたが、あれもまさにゼネコン主導ですね。
稲山:確かに。とはいえ、彼らの木造は高強度の構造要素を用い、どのような素材をどう使えば合理的かという観点で進んでいます。海外展開を視野に入れた取り組みもあります。ただ、私は今も地方における小・中規模の木造施設に強く惹かれています。地場の材料と技術、そして地域ネットワークが融合した建築こそ、持続可能性や文化の継承に寄与するのではないかと考えています。
− 四国の事例など、まさにそうしたローカリティの中で実践されているわけですね。
「アキュラホームの新社屋」外観(写真 = 著者提供)
稲山:はい。地域の力を信じ、地に足のついた木造建築を続けていきたいと思っています。実は、地場ゼネコンによる中高層木造のプロジェクトがあります。故・野沢正光さんとの共同設計で、埼玉県大宮に建つアキュラホームの新社屋です。 8階建てで、2024年 3月に完成しました。飯能の商工会議所と同じく、組子構造の耐力壁を用いた設計です。
− ゼネコン的なつくり方と対極にある手法ですね。
稲山:まさにそうです。ただ、今回感じたのは「 8階建てが木造の限界かも」ということでした。やはり本筋は、地域のバナキュラーな材料を使い、ローカルな施工者がその土地の方法でつくる建築だと再認識しました。興味深かったのは、意外とコストが鉄骨造並みに抑えられたことです。むしろ「ゼネコンの木造建築がなぜ高くなるのか?」と疑問に感じました。地場の施工者が特別な金物に頼らずにつくれば、 5~ 6階建て程度なら鉄骨造と同コストで実現できるんです。耐火性能も十分でした。
− リノベーションにも多く関わられていますよね?
稲山:そうですね。たとえば 「1130年の林」プロジェクトは、明治維新の政治家・林有造の邸宅を複合施設に改修したものです。組子耐力壁に加えて、ガラスの耐力壁も使用しています。
− ガラスの耐力壁は新しい技術ですよね?
稲山:阪神淡路大震災直後の1996年に 妙寿寺の耐震補強で初採用しました。強化ガラスを用いて、建物の雰囲気を壊さずに補強できます。その後実験を重ね、現在では組子とともにリノベーションに役立っています。最近の能登半島地震でも再確認しましたが、全国には歴史ある木造建築が多数残っています。ただ、新耐震基準以前の建物が多く、構造的には脆弱です。すべて建て替えてしまえば町の風情が失われます。そこで重要になるのが「佇まいを残しつつ耐震性を向上させる」リノベーションの技術なんです。
− とても重要な視点です。実際に関わると、課題の多さに改めて気づかされます。歴史的建築を未来につなげる、新しい木造再生のあり方ですね。
稲山:まさにそうです。ガラスや組子の耐力壁を用いて、建物の魅力を残しながら再生する手法は、これからの日本にとって大きな可能性です。ただ、現状では制度が柔軟性に欠けていて、普及の障壁になっている部分もあります。だからこそ、建築の本来の姿や魅力を尊重した柔軟な制度が求められています。そのままの姿を活かしながら、より良いかたちで未来に継承することが、私の基本的なスタンスです。
− 木造施設普及の課題をひとつ挙げるなら何でしょうか?
稲山:日本の法規制が非常に硬直的で柔軟な対応が難しいことですね。安全性の証明に膨大な時間と手続きと書類作成を要し、手間と労力が木造発展の妨げになっています。こうした硬直性が、社会全体の改善スピードを落としてしまいます。戦後の整備されていない頃のほうが、試行錯誤を重ねながら柔軟に発展していました。木造文化も本来はそうした柔軟性の中で育ったものです。再び、創意工夫とスピード感を持った改善が必要です。法対応だけでなく許認可や助成制度も同様です。構造・デザイン・性能などをバランスよく包括的に捉えるべきですが、現状は細分化が進みすぎて本質からずれているように感じます。
− 最後に「雨仕舞い」について、構造家としてのお考えを聞かせてください。
稲山:大規模な木造建築は、住宅のように一日で屋根を仕上げるのが難しく、施工中の雨対策が非常に重要です。部材が雨に濡れると、カビや劣化の原因になります。特にツーバイフォーなどは屋根が閉じるまでの期間が長く、リスクも高まります。実際、大林組のポートプラス( Port Plus)でも雨仕舞いには何度も苦労し、やり直しを繰り返しながら最終的に改善したそうです。こうしたプロセスも重要だと感じています。
― 今日は貴重なお話を、本当にありがとうございました。特集「木造施設への期待と課題」について非常に適確に指摘いただき木造施設を巡る環境と動向が頭に入りました。
特に印象的だったことは、稲山さんが終始一貫して、今も地方における小・中規模の木造施設に強く惹かれていることでした。そして、地場の材料と技術、そして地域のネットワークが融合した建築こそが持続可能性や文化の継承に寄与するのだと強く確信されていることでした。そこに向かう稲山さんの旺盛なエネルギーとイマジネーションが地域産業文化としての木造施設を後押ししているのが良く伝わりました。
また、同時に木造に対する研究・教育の現場の変化や、小さな断面の材でつくる地域型施設に加え、鉄と木のハイブリッド型高層木造への取組みなど、まさに稲山さんが実践してきたことが産学挙げての木造施設の多様化を生み出していることも理解できました。
私自身としての興味は稲山さんが地域の工芸技術に目を向けての光や風を通す格子状の部材を使った耐力壁への着眼でした。この耐力壁の存在によって視覚的にも美しく、構造としても機能し、環境的にも外気と自然に繋がれる耐力壁が建築に新しい可能性をもたらすものと感じました。
今後の御活躍を期待しております。
取材は東京大学の研究室(当時)で行われた。
稲山正弘
(いなやま・まさひろ):木質構造家。愛知県生まれ身。1982年東京大学工学部建築学科卒業。1982年 - 86年ミサワホーム勤務。1990年稲山建築設計事務所(現・ホルツストラ)設立。1992年東京大学大学院博士課程修了、博士(工学)。2001年 - 02年ものつくり大学建設技能工芸学科助教授。2005年 - 12年東京大学大学院農学生命科学研究科准教授。2012年 - 東京大学大学院農学生命科学研究科教授。2024年東京大学名誉教授。
LINK ホルツストラ