連載

木岡敬雄の

雨が育てた日本建築

(2022.6.1)

VOL.10 屋根を通して見える京都の歴史


大報恩寺本堂と北野経王堂

 

はじめに

 京都市街の西北、今出川通りの北、かつて平安京の中心軸であった朱雀大路に重なる千本通りと紙屋川に挟まれた北野の地は、学問の神様として知られる北野天満宮が有名ですが、見どころはそれだけではありません。京都の五花街のひとつである上七軒の御茶屋など京都らしい風情のある通りもそのひとつですが、そこから程遠くないところに千本釈迦堂の名で知られている大報恩寺があります。
 


大報恩寺本堂

 寺の歴史については記録が限られ不明な点もあるのですが、江戸時代に纏められた縁起では、鎌倉時代の承久2年 (1220)に天台宗の 僧義空が仮堂を構えたのがはじまりとされています。室町時代には釈迦念仏の寺としても有名で 吉田兼好『徒然草』にも記されています。江戸時代になって京都の東山にある 智積院の住職の隠居所となり、真言宗智山派の寺として現在に至ります。表通りから奥まった境内には本堂を中心に幾つものお堂や貴重な仏像・寺宝を納めた収蔵庫が建ち並んでいます。その中でもひときわ目立つ建物が檜皮葺きの本堂です。
 
 勾配の緩い穏やかな入母屋屋根からは本堂の創建の古さが伺えます。昭和の解体修理の際に本堂の棟木に願文が発見され、安貞元年 (1227)に上棟した建物であることが明らかにされ、京都市の中心部で鎌倉時代まで遡る唯一の建物として国宝にも指定されています。
 

図1大報恩寺本堂:大報恩寺本堂の外観。勾配の緩い檜皮葺きの入母屋屋根が目を引きます。柱上の組物は出組で軒を支える丸桁が柱通りより外に出てその間は曲線の軒支輪が入り地垂木と飛簷垂木からなる深い軒裏を構成しています。建物正面には本堂周囲の廻縁へ上がるために木の階段があり、その上を覆う様に向拝の屋根が伸びています。大報恩寺本堂は創建当初から向拝の有る建物として現存する最も古い建物です。(作画:木岡敬雄)


 
 本堂は南を正面として柱間の数で東西5間に南北6間の奥行きの大きい建物です。建物の柱はすべて丸柱で柱の上には組物が載り、地垂木と飛簷 (ひえん )垂木からなる深い軒を支えています。柱間の建具には蔀戸や引違の格子戸が入り、寺の本堂でありながら鎌倉時代の住宅建築を彷彿させます (図1 )
 

図2大報恩寺本堂の平面図:本堂内部は大きく南側の外陣と北側の内陣を中心とした部分に分かれています。内陣の東西と北側にはさらに幅一間の脇陣と後陣が付随します。内陣は仏を祀るだけでなく四天柱に囲まれた須弥壇を中心に僧侶が念仏を唱え廻れるように造られ、平安時代以来の法華堂や常行堂の影響を見ることが出来ると言われています。(作図:木岡敬雄)


 
 本堂内部は、格子戸や菱欄間による結界を境に南側の外陣と北側の内陣に分かれた中世本堂形式の建物ですが、内陣は須弥壇を囲うように立つ四本の四天柱を中心とした3間四方の求心性の高い空間で、大報恩寺ならではの独特な平面です (図2 )
 

図3大報恩寺本堂内陣:四天柱は柱そのものが長さに比べて太く際立つ存在であることが画からも良く分かります。四天柱から内側は柱だけでなく長押なども極彩色で装飾され須弥壇背後の来迎壁にも仏画が描かれていました。四天柱内の天井は折上小組格天井で周囲の組入天井より格の高い造りです。内陣東西の低い格子戸の奥は脇陣でかつては幾つかの部屋に仕切られ法会の際の聴聞所に充てられていました。(作画:木岡敬雄)


 
 四天柱には本尊を守護する四天王の絵が極彩色で描かれ、周囲の柱と比べても太く際立つ存在です。そのためでしょうか、寺の境内に祀られている 「おかめ塚」の由来 (注1)などこの柱に纏わる話が幾つも伝えられています。太い四天柱を前にして人々が想像を逞しくしていった様が伺えます (図3 )
 

図4大報恩寺本堂比較断面図:鎌倉時代の屋根には太い梁もなく束も天井の桁から直接立てられその数も疎らです。それに対して江戸時代の修理後の屋根は太い梁を縦横にかけそこから規則的に束を立て小屋貫を通した堅牢な小屋組みに代わっています。(作図:木岡敬雄)


 
 優雅な姿の本堂も、昭和 26年から 29年にかけて行われた解体修理以前は勾配のある瓦葺の建物でした。解体修理の際行われた調査によって瓦葺への変更は江戸時代初期の寛文9年から10年 (16691670)にかけて行われた大掛かりな修理の結果で部材に残された痕跡から、それ以前の屋根の小屋組みが明らかとなり創建当初の姿に復元されました (図4 )。図から分かる様に鎌倉時代の屋根は勾配も緩く、小屋組みも部材数が少なく簡素な構造です。それに対して江戸時代の修理後は瓦葺きに対応し屋根勾配はより急になり太い小屋梁や貫を通した小屋束が多用されるなど、大きな違いが見られます。江戸時代の建物の屋根勾配が一様に急であることは周知のことですが、その背景に小屋梁や小屋貫と束によって堅牢な小屋組みが造れるようになった影響も無視できません。
 
 大報恩寺本堂の屋根は、鎌倉時代から江戸時代へと変化した小屋組みの姿を教えてくれるだけではありません。解体修理を通してその屋根に葺かれていた瓦や屋根裏に転用されていた部材から別の建物の存在が明らかにされています。それが室町時代に北野天満宮と共にこの地を代表する建物であった北野経王堂です。
 

注1:鎌倉時代に本堂の造営大工であった長井飛騨守高次が間違って柱を短く切ってしまい困惑していたところ、妻の阿亀(おかめ)が短くなった分を組物によって補ってはどうかと助言し事なきを得ました。しかしそのことを周囲に知られては夫の名誉に傷がつくと恐れて本堂上棟前に自殺したとする言い伝えです。境内にはその阿亀を祀る石塔と銅像があり災難消除・招福祈願のため多くの人々が訪れます。

 


北野経王堂

 室町時代の明徳2年 (1391)にかつて大内裏があった内野で戦われた合戦 (注2)の戦死者の霊を弔うために3代将軍 足利義満がはじめた法会が、 北野万部経会の起源と言われています。千人余りの僧侶を集め10日間かけて法華経一万部を読誦 (どくじゅ )する大規模な法会で、応永10年 (1403)までに内野近郊の北野に万部経会のための建物が造られました。それが 北野経王堂です (注3)
 
 義満の亡き後も北野万部経会は足利将軍家が主催する法会として将軍自身の聴聞も度々で多くの人々が結縁のため参集しました。 洛中洛外図や京都の名所を描いた扇面図にも北野天満宮と共に北野経王堂が描かれており京都の西を象徴する建物として認識されていたことがわかります。しかし応仁の乱などを経て将軍家の力が衰えると、法会の規模は縮小され室町時代末期には将軍家の手を離れ勧進によって行われるようになります。戦国時代を通して万部経会は断続的に行われていますが、慶長11年 (1606)に行われた法会が記録に残る最後となります。その間、経王堂の建物も度々修理を受けており特に慶長7年に 豊臣秀頼の援助による修理は再建に近い大規模なものと言われています。寛文2年 (1662)に京都を襲った地震で大きな被害を受けたと見られ、傷んだ建物は解体されその部材の一部は以前から維持管理を通して関係のあった 大報恩寺本堂の修理に際し再利用されました。経王堂の跡地には代わりに小さなお堂が建てられていましたが明治維新後に取り壊され現地に経王堂を偲ぶものは何も残されていません (注4)
 
 江戸時代の大報恩寺の縁起には経王堂の大きさを 「長三十間横二十五間」と記しています。当時、畿内では1間を6尺5寸 (1.97m)とするのが一般的なので縁起の記載通りであるとすると東を正面とする経王堂は南北 59m東西 49mの大きさとなり現存する東大寺大仏殿に匹敵する規模です。しかし、経王堂の本尊と伝えられる仏像は高さ約 45cmと小さいうえに、洛中洛外図や扇面図からは建物内に僧侶が隙間なく並んで座し読誦する姿が描かれており、千人余りの僧侶を収容する建物として縁起の数値は過大であると言わざるを得ません。徳川家の御大工であった中井家に伝わり現在は宮内庁書陵部所蔵になる 『寛永十四年洛中絵図』という江戸時代初期の京都の実測図 (注5)があり、この中に 「経堂」と記された囲みに南北が 「二十三間半」東西が 「拾弐間五尺四寸」と寸法が記されています。経王堂は寛文年間まで存在していたので建物の大きさを計ることも可能で、この数値が実際の建物の規模を示していることは間違いないでしょう。
 

図5北野経王堂:北野経王堂を東正面より見た復元図。『寛永十四年洛中絵図』に記された規模をもとに『国宝建造物大報恩寺本堂修理工事報告書』の北野経王堂に関する部材調査から明らかになった事項を考慮して復元しています。復元した立面図は慶長7年の修理後の姿で屋根が瓦葺であったことは創建以来同じですが小屋組みは修理時に一新され室町時代の姿そのものではありません。創建時の建物については史料が少なく不明ですが用途上平面の大きさはそのままと考えられます。また当初は蔀戸などの建具はなく間仕切りのない開放された建物でした。(復元考証・作図:木岡敬雄)


 
 天正15年 (1587)豊臣秀吉が戦没者を祀るため毎月一度千部経を読誦するために広島の厳島神社に建立した経堂が現在も 豊国神社本殿として現存しており、その規模が 39.5m21.1mであることも建物の用途の類似から北野経王堂の規模を考える上で参考となるでしょう。『寛永十四年洛中絵図』から導かれた南北 46m東西 26mの経王堂は縁起の規模から比べると小さくなりますがそれでも北野のランドマークとなる巨大な建物であったことに変わりはありません (図5 )
 

注2:室町時代の明徳2年(1391)に当時もっとも力のあった守護大名の山名氏清らが幕府に対し起こした反乱で、京都に侵攻した山名氏の軍勢と迎え撃った幕府側の軍勢とが内野で衝突した合戦で明徳の乱とも称されます。合戦は幕府側の勝利で終わり守護大名の力を削ぎ将軍権力の確立に繋がったと言われています。
注3:経王堂は北野天満宮の鳥居の南、「右近馬場」と呼ばれた地の一画に建立されました。この地に経王堂を建立したのは足利義満が篤く信仰した北野天満宮の門前であっただけでなく新たな政治の拠点として造営した北山殿(現在の金閣寺)へ洛中から向かう途中に位置していたことも関係があるのではないでしょうか。経王堂は万部経会以外にも現在大報恩寺の所蔵になる一切経の書写や法会にも使われていました。
注4:大報恩寺では経王堂の由緒を継ぐ建物として参道脇の太子堂を経王堂とも称しています。経王堂で行われた千部経会の経文も現在大報恩寺の所蔵となり残されています。
注5:寛永12(1635)から作成が始まり寛永14年に完成した京都市街地の測量図の下書きで現存する都市の測量図としては最も古いものです。図に書き込まれた数値の多くは敷地の大きさを示すものですが、経王堂の他に北野天満宮の回廊や本願寺の御影堂など一部では建物の大きさが記されています。

 


文化の転換期の舞台となった北野

 平安京の大内裏の北西に位置する北野は、平安時代から天皇の狩猟の場であり遊興の地でした。無実の罪で大宰府に流され失意のうちに亡くなった菅原道真にとっても慣れ親しんだ地であり、その魂を慰撫するために相応しいこの地に北野天満宮が創建されたと言われています。北野天満宮は鎌倉時代から室町時代に掛けて中世の文芸を代表する連歌の聖地でもあり、経王堂の西隣にも連歌会所が設けられ、度々連歌会が催されていました。経王堂の周辺は北野松原とも称される菅原道真ゆかりの松林が広がり、林の間の芝地は猿楽や幸若舞などの勧進興行の場ともなり、集まった人々を相手に茶屋も建てられていました。
 
 その様な下地があったからでしょう、安土桃山時代になって連歌の代わりに北野天満宮とその周辺の松原において北野大茶湯が挙行され、また上京した出雲の阿国(おくに)がその芸を披露し歌舞伎発祥の地のひとつに数えられるようになります。仮設の茶屋もやがて常設の茶屋に代わり後の花街へと繋がっていきます。中世から近世にかけて北野の地が文化の転換期の舞台となったのは決して偶然ではありません。その中心に経王堂がありました。
 
 大報恩寺本堂の屋根からは鎌倉時代と江戸時代の屋根の相違が明らかになっただけでなく、室町時代に北野を象徴していた北野経王堂の復元に繋がる部材が残されていたなど大きな発見がありました。修理を通して長く建物を維持できる日本建築の特徴がよく反映していると共に、歴史を彩った建物の姿が屋根を通して垣間見られることに日本建築の奥深さを見る思いがします。

(きおか・たかお)1957年東京生まれ。1982年武蔵野美術大学造形学部建築学科卒業。同年、宮上茂隆の主宰する竹林舎建築研究所に入所。1998年竹林舎建築研究所代表に就任。日本建築の復元と設計に当たる。主な仕事に、掛川城天守復元、大洲城天守復元、建長寺客殿得月楼設計、岐阜市歴史博物館「岐阜城復元模型」監修、東映配給映画「火天の城」建築検証、NHK大河ドラマ「真田丸」大坂城CG監修。主な受賞に、大洲城天守復元で「第1回ものづくり日本大賞内閣総理大臣賞」「日本建築学会賞(業績部門)」など。