連載
木岡敬雄の
雨が育てた日本建築
VOL.14 土壁の雨仕舞い — 土壁の雨対策から見える土蔵の歴史 —
はじめに
雨の多い日本では屋根に留まらず壁の雨対策も重要です。日本建築では寝殿造や書院造の様に建物外周に建具はあっても壁のほとんどない例もありますが一方で民家などを中心に柱間を壁で塞いだ建物も見られます。壁自体も茅壁や板壁など様々な種類がありますが土を塗った土壁はもっとも身近なものでしょう。今回は土壁の建物の中でも土蔵をテーマに取り上げたいと思います。
倉敷の美観地区
白壁に海鼠(なまこ)壁の土蔵が連なる町並みとして岡山県の倉敷は有名です。町中を貫く運河の倉敷川周辺の伝統的建造物群保存地区を中心に江戸時代後期から明治大正にかけて建てられた土蔵群と明治時代以降の洋風の建物が混在し独特の景観を作り上げています。倉敷は江戸時代初期の寛永19年( 1642)に幕府の直轄領となり瀬戸内海へとつながる倉敷川の利便性もあって年貢米など物資の集散地として栄えました。地区内には江戸時代後期に建てられた旧大原家住宅や大橋家住宅など重要文化財に指定されている大きな商家が点在し、通りに連なる土蔵の姿からかつての繁栄の様が伺えます。(図1)。
図1:倉敷の町並み
路地を挟んで海鼠壁の土蔵が連なる姿は蔵の町倉敷を代表する景観です。路地の左手はすべて大原家の土蔵で江戸時代末期から明治大正時代へと造り続けられてきました。現在、土蔵の一部は内部を公開し大原家に係る展示をしています。 (作画:木岡敬雄)
旧大原家住宅
倉敷の中でも大原家は特別な存在です。有名な大原美術館の前、倉敷川の対岸に本邸であった旧大原家住宅があります。大原家は江戸時代前期に倉敷に移り住み、新田開発や綿の商いで富を築き江戸時代末期には有力商人の一員として町の運営に係るまでになります。明治維新後は倉敷の代官所跡地に倉敷紡績所の工場を建設、倉敷中央病院や大原美術館など社会基盤となる施設を設立しさらに町並みの保存にも取り組むなど多大な貢献をしています。
大原家の本宅である旧大原家住宅は大きな商家で表側に主屋が建ち庭を挟んで屋敷の背後を囲むように複数の土蔵が建ち並んでいます。主屋は江戸時代後期の寛政7年( 1795)に着工された建物で本瓦葺きの2階建てで2階は白漆喰塗籠に腰から下は板張り、1階の通りに面した側は四角い塼 (せん )とよばれる平瓦を張った海鼠壁と腰から下は石積みで変化に富んでいます(図2)。背後の土蔵群は江戸時代後期から明治大正時代と建物ごとに年代は異なりますが屋根は本瓦葺きで外壁は白漆喰塗籠に建物隅や腰から下などを海鼠壁で統一し白と黒の対比が印象的で倉敷の土蔵を象徴する存在です。
図2:大原家住宅
倉敷川の対岸、大原美術館前から橋越しに見た大原家住宅と背後の土蔵。広い敷地の南東隅に建つ主屋は本瓦葺き2階建ての規模の大きな商家です。2階の屋根は一見入母屋屋根の様に見えますが腕木で支えた庇を付加した切妻屋根です。2階に等間隔に並ぶ比較的小さな格子窓は「倉敷窓」とも呼ばれており倉敷特有の窓です。(作画:木岡敬雄)
土蔵の土壁
土蔵の壁は一般の建物の壁と異なり厚さが 25cm以上もある厚く堅牢な壁です。図3にあるように柱間に渡した間渡し竹(尺八竹)を基にその外側に縦竹と柱面の苆(すさ)掛けに渡した横竹を藁縄で編んだ格子状の小舞を下地とし幾重にも土を塗り重ね仕上げた壁です。内部は柱を現した真壁ですが外部は柱など木部を厚く塗り込めた大壁です。仕上げは平滑に鏝で押さえた土壁のままの場合もありますが上塗りとして白漆喰を薄く塗り重ねる場合もあります。
図3(左):土蔵の模式図
土蔵の壁下地の構成を模式的に示した図。土壁自体は団子状にした荒壁土を打ち付け小舞下地に絡げた荒縄と絡ませ乾燥させた後にさらに土の付着を良くするため下げ縄や横繩などを伏せ込みながら乾燥と塗り増しを何度も繰り返し造られています。ものによっては施工期間が2~3年に及ぶものもあります。(作図:木岡敬雄)
土壁は風雨に晒されると脆くある程度耐水性の有る白漆喰もカビによる変色や上塗りの剥落などの恐れがあります。このため雨掛かり部分に直接雨が当たらぬように保護する必要があります。土壁に杉皮などを当て桟で押さえたものから縦板で覆い板と板の間を目板で押さえた竪羽目や板を段々に重ねその上から押縁で押さえた下見板張りなどがあります。下見板張りの中でも板の重ねの形に合わせ刻みを入れた簓子(ささらこ)下見板は丁寧な仕上げとして城郭建築などにも見られます(図4)。土壁保護が目的なので経年変化で傷んだ場合は取り換えることを前提としており、土壁に打ち付けた折釘に引掛けて簡単に取り外しできるようにしている場合も見られます。
図4:簓子下見板と海鼠壁の模式図
簓子下見板と海鼠壁の模式図。簓子下見板は土壁上で組上げたものだけでなく縦胴縁と簓子で下見板を挟みパネル状にしたものを土蔵の折釘に引掛け、いつでも取り外しできるようにしたものもあります。海鼠壁は平瓦の塼を直接土壁に釘留めし釘の頭を隠すように目地漆喰で覆っています。(作図:木岡敬雄)
これに対して海鼠壁は方形の平らな瓦である塼を用い、四隅を釘で止め間の目地に漆喰を半円形に盛り上げその形状が海鼠に見えることから付けられた名称と言われています(図4)。塼の張り方も馬乗り目地や芋目地以外にも斜め45度に張った四半目地や六角形に成形した塼を用いた亀甲繫ぎなど多様です。目地だけでなく塼の中央部分に釘を打ちその頭を漆喰で丸く盛り上げたものもあります。意匠的にも存在感のある壁面を構成できることから作る手間は増えますが土蔵の壁面全体を海鼠壁にした例もあります。
中世の土蔵
日本建築の多くは屋根を草木由来の素材で覆い壁面は木部を現しにしているため火災に対しては脆弱な建物です。このため貴重な品々を収蔵する建物に土を塗り延焼防止を図った例(注1)は古くからありますが、厚い土壁をもつ土蔵として具体的な姿が分かるのは鎌倉時代以降です。鎌倉時代末期に制作された絵巻物『春日権現験記絵』に焼け跡に残った平屋の土蔵の姿が描かれています(図5)。絵からは内部構造を伺い知ることは出来ませんが出入り口に前室となる獅子口を設けるなど火災に対する備えがみられ厚い土壁の建物であることは間違いありません。屋根面まで白漆喰塗籠であることから雨に対しては屋根を別に設けた置き屋根形式か内蔵として主屋の屋根の下に建てられていたのではないかと言われています。室町時代の寺社関係の絵図を見ると板葺きの覆屋で土蔵全体を覆った例がいくつも見られ建物全体を覆う形式が多かったのは事実でしょう(注2)。京都では「土倉(どそう)」と呼ばれる金融業者が多数おり質物などを納める多くの土蔵があったはずですが、当時の様子を描いた『洛中洛外図』には該当する建物が描かれていません。その理由は色々考えられているようですが、土蔵の多くが板葺きの覆屋に覆われていれば表通りに建ち並ぶ町屋と変わるところはなく京都の町並みを構成する主要な要素とは見なされなかったと思われます。
図5:『春日権現験記絵』模本(東京国立博物館所蔵)より
鎌倉時代の延慶2年(1309)頃に絵師の高橋隆兼によって描かれた絵巻で原本は宮内庁所蔵。彩色も鮮やかな極めて保存状態の良い絵巻であるだけでなく各場面の描写も優れ、建築関係では当時の工匠たちの仕事場の様子を描いた一場面は有名です。火事に焼け残った土蔵の姿は現在の土蔵とあまり変わらない様に見えますが出入口の扉は薄い造りで気密性を高めるため掛け子塗りと言われる段々状に塗られた厚い観音開きの扉とは異なり時代性が感ぜられます。(作画:木岡敬雄)
注1:平安時代末期、蔵書家であったの貴族の藤原頼長は自身の邸宅内に多くの書物を納めるため「文倉」を建築しその仕様を日記に記しています。それによると蔵の屋根は瓦葺で板壁に直接石灰を塗った建物でした。厚い土壁の土蔵そのものではありませんが防火を意識した建物が古くから造られていた事例として貴重です。
注2:社寺関係の絵図の中には瓦葺の土蔵の例もありすべての土蔵が覆い屋で覆われていたわけではありません。広島県福山市の芦田川の中州にあった中世の川湊であった草戸千軒遺跡から四隅に釘痕の有る塼を用いた土蔵と思われる遺構が発見されており室町時代中頃に海鼠壁の土蔵が存在していた可能性が指摘されています。しかし瓦の産地が限られていた当時の状況を考慮するとその数は限られていたと考えられます。当時、大阪市の堺を中心に塼列建物と称される塼で周囲を囲った半地下式の建物が発見されていますが外壁の保護のための海鼠壁とは異なる造りです。
近世の土蔵
ところが江戸時代以降の『洛中洛外図』になると瓦屋根に白漆喰塗籠の土蔵の姿が突然現れるようになります。土蔵が目に見える形で現われてくるのは城と城下町の発展と無縁ではありません。安土桃山時代以降、城が合戦のためだけでなく政庁として恒久的な施設に変化し、防火と堅牢さを有する土蔵の厚い土壁を取り入れ、瓦葺に白漆喰塗籠の天守や櫓が全国規模で造られていきます。この過程で漆喰の原料となる消石灰の生産も拡大し、漆喰塗りの際に混ぜる糊も貴重な米から安価な海草を煮ることで得られる糊へと転換が行われ漆喰塗りも広く普及するようになります。
この流れは城下町の建設にも影響し、主要な通りに面して2階建の町屋が推奨され塗り屋造りと呼ばれる白漆喰塗籠の町屋も見られるなど中世の町屋の様相とは大きく様変わりします(図6)。土蔵もそれまでは数が限られていた瓦屋根の土蔵が町のあちこちに現れるようになります。かつては覆屋や主屋の屋根の下に収まっていた土蔵も屋根を突き破って聳え、中には3階建ての土蔵も造られるようになります。それに伴い土蔵の雨対策も建物全体を覆うものから直接壁を保護する下見板や海鼠壁に移行していったのでしょう。
図6:『洛中洛外図屏風』(個人蔵)より
京都の祇園会の様子を描いた八曲屏風で制作年代は元和から寛永頃(1615~1644)かと言われています。絵画資料であるため誇張はあるものの2階屋の町屋が並ぶ通りにさらに高い瓦屋根に漆喰塗りの3階建ての土蔵を描いています。土蔵の腰回りには雨対策として縦羽目で囲われており覆い屋に覆われていた前時代の土蔵とは別物であることが良く示されています。(作画:木岡敬雄)
江戸時代に入り「一国一城令」や「武家諸法度」の公布によって城郭の規制が行われるとそれまでの城郭建築を中心に発展してきた土壁や漆喰塗りの技術は土蔵に引き継がれていきます(注3)。土蔵の建築はより精緻な仕事が求められ多大な時間とお金が必要とされ、まさしく「蔵は長者の花」となります。倉敷の町並みにみる土蔵の建ち並ぶ姿は経済的に繁栄した都市を象徴するものです。日本建築というと深い軒の出と開放的な造りを連想することが多いのですがそれとは対極にある壁を主体とした土蔵もまた見逃せない存在です。土蔵の下見板や海鼠壁も単なる雨仕舞に留まらず町並みの景観を構成する要素のひとつとして私たちの目をも楽しませてくれます。
注3:城郭建築の土壁と比較しても土蔵の施工における精緻さは驚くべきものです。特に下げ縄や横繩を用いた樽巻など壁土の付着を良くするため幾工程もの塗り増しと乾燥を繰り返すところは城郭建築にはないところで土蔵独自の世界です。逆に城郭建築では施工期間の少なさがいえます。名古屋天守では3、4か月で荒壁打ちから漆喰塗りまで行っており木工事と並行して乾燥期間をほとんど取らずに次から次へと土を厚くしていった様子が伺えます。完成後の土壁は大丈夫なのかと心配になりますがあるいは現代人が知りえないノウハウがあるのかもしれません。
(きおか・たかお)1957年東京生まれ。1982年武蔵野美術大学造形学部建築学科卒業。同年、宮上茂隆の主宰する竹林舎建築研究所に入所。1998年竹林舎建築研究所代表に就任。日本建築の復元と設計に当たる。主な仕事に、掛川城天守復元、大洲城天守復元、建長寺客殿得月楼設計、岐阜市歴史博物館「岐阜城復元模型」監修、東映配給映画「火天の城」建築検証、NHK大河ドラマ「真田丸」大坂城CG監修。主な受賞に、大洲城天守復元で「第1回ものづくり日本大賞内閣総理大臣賞」「日本建築学会賞(業績部門)」など。