連載
木岡敬雄の
雨が育てた日本建築
VOL.15 多宝塔の裳階(もこし) — 雨が生み出した日本独自の仏塔 —
はじめに
日本建築の第4回の連載で雨にちなむ名称をもつ禅宗寺院の裳階を取り上げました。しかし裳階は禅宗寺院特有の存在ではなく他の寺院でも見られます。裳階は仏堂や仏塔の軒下に別に柱を建て庇状に屋根を架けた構造物と説明されており、その効用として建物を2重に見せる効果や平面の拡大といった面が指摘されていますが雨から建物本体を保護する役割も言われています。今回は裳階の存在が新たな建築に繋がった様子を探っていきたいと思います。
石山寺多宝塔
滋賀県は琵琶湖の南端、畿内へ向けて流れ出る瀬田川に面する 石山寺は奈良時代以来長い歴史を誇る寺院です。平安時代には多くの参詣者を集め、紫式部が本堂に参篭し源氏物語の構想を得たとの伝承もあります。寺の正門である東大門を入って参道を進み右手の石段を登った先に天然記念物にも指定されている硅灰(けいかい)石の岩壁上に 石山寺多宝塔があります(図1)。
図1:石山寺多宝塔
石山寺山内でも一段高い岩場の上に建つ多宝塔です。裳階の屋根上に見える円形の白い亀腹と二重屋根に比べて細い塔身部が際立ちます。鎌倉時代の建久5年(1194)に源頼朝の寄進によって建立されたと伝えられています。内部には鎌倉時代を代表する仏師快慶による大日如来像が祀られています。(作画:木岡敬雄)
多宝塔は一見したところ二重塔のようにも見えますが、二重目の屋根が塔身の屋根で一重目は裳階の屋根です。円形平面の塔身に対し方形の二重屋根の大きさが際立ち放射状に何段にも組まれた組物によって深い軒が支えられています。塔身部分の二階は四方に扉が付き周りに縁と高欄が廻りますが内部に床は無く実際に人が上がることはできません。縁下のお椀を伏せた様な白漆喰塗りの亀腹が目を引きますが亀腹は裳階の屋根の上にしかなく(図2)、一階部分は三間四方の部屋で中央には四本の四天柱に囲まれて須弥壇が設けられています。多宝塔の創建は鎌倉時代初めといわれていますが、三重塔や五重塔と異なる特徴ある建築はどの様にして生まれたのでしょうか。
図2:石山寺多宝塔の亀腹と裳階の屋根
石山寺多宝塔の亀腹と裳階屋根の断面図。降った雨は白漆喰塗りの亀腹上を伝い、亀腹を受ける厚板の障泥板(あおりいた)を越えて裳階の檜皮葺の屋根上へ流れていきます。円形の亀腹の下には屋根が差し込まれており雨仕舞に支障がないように作られています(作画:木岡敬雄)
密教の招来
日本建築の歴史を語る時、大陸から新たな様式が伝えられた飛鳥時代から奈良時代にかけてと鎌倉時代に加え、社会の大きな変化に伴う飛躍的な発展のあった安土桃山時代を取り上げることが多いのですが、平安時代も大きな変化があった点で重要な存在です。平安時代初期に空海と最澄によって中国から最新の仏教がもたらされ、それまでとは異なる教義から真言宗と天台宗という新しい宗派が登場し仏教界に大きな変化をもたらしました。それらは宗教上に留まらず寺院建築においても新たな伽藍と建築を生み出すことになります。
膨大な量の経典や曼陀羅を含む画像を請来し帰国した空海は大同四年(809)に京都高雄山寺(後の神護寺)に入り密教の布教のため精力的に活動します。弘仁七年(816)に修行に専念する地として高野山の地を下賜され、さらに時の天皇の信任を得て弘仁十四年には造営途中の東寺を付与されここを真言宗専門の寺院とするに至ります。しかし東寺は平安京の王城鎮護を目的に計画された寺院で奈良時代以来の伽藍構成をそのまま踏襲し中央には薬師如来を本尊とする金堂がすでにあり、空海が目指した新たな密教寺院の構想とは相容れない点もありました。空海が理想とする伽藍と建築は修行の地として下賜された高野山においてはじめて姿を表します。
空海と高野山大塔
和歌山県北部を東西に流れる紀ノ川の南岸、標高800メートルの山上に高野山はあります。麓から道路を上がるとやがて高野山の正門である巨大な大門が現れます。ここから空海が入定した 奥之院までの間に 金剛峯寺を始め多くの寺院が建ち並び、さながらひとつの都市の様です。大門から坂を下った北側にある小高い地が壇上伽藍と呼ばれる高野山の中心で、近年木造で復元された中門の東北に巨大な多宝塔である 高野山大塔が聳えています。現在の大塔は昭和10年( 1935)に鉄筋コンクリートにより再建された建物ですが、空海の構想をもとに九世紀初めに完成した創建大塔はその後、何度も被災と再建を繰り返しており現在の大塔は6代目の建物にあたります。
空海は弘仁七年にこの地を下賜されると直ぐに道場の建設に着手しましたが、都を中心にその活動の場は広く高野山のみに集中する訳にもいかず、また私寺であった点から経済的な基盤も乏しく、伽藍の造営は思うように進みませんでした。空海は亡くなる前年に伽藍造営の窮状を訴える書状の中で 「毘盧遮那(びるしゃな)法界体性塔」二基を中心とした伽藍の構想について記しています。そこには真言宗の根本原理を表す胎蔵界と金剛界の曼陀羅を立体化した二基の塔を中心に据える前例のない伽藍造営の意図が記されています。そして塔自体もそれまでの三重塔や五重塔とは異なる 大日如来(毘盧遮那仏)を象徴する宝塔をモデルとした全く新しい形式の塔でした。この「毘盧遮那法界体性塔」が高野山大塔そのものです。
宝塔は三重塔や五重塔と同じくインドの釈迦の墓である ストゥーパを起源としたものですが、中国で独自に発達した楼閣建築から派生した三重塔や五重塔とは異なる過程を経て成立しています。当初のストゥーパは半球状のもので頂上には柵に囲まれて貴人に差し掛ける傘を表す傘蓋を立てた形でしたが、やがて基壇部分が円筒状に高く造られ頂上にあった傘蓋とそれを取り巻く柵も相輪と平頭として強調され宝塔の特徴的な形が作られていきました(図3)。
図3:小形仏塔(カルカッタ・インド博物館所蔵)
インド出土のガンダーラ様式の仏塔で3世紀から4世紀頃の作とされています。半球状のストゥーパの基壇が発達し多くの仏像や仏の伝記の場面が彫られ荘厳されています。(作画:木岡敬雄)
さらにストゥーパに龕を設け仏像を祀る様になると仏像と一体化した礼拝の対象として造られるようになります。インドで発祥した密教は中心本尊である大日如来を象徴する対象として宝塔の姿を曼陀羅の中に描いています(図4)。
図4:「国宝 西院本曼陀羅」(東寺所蔵)より
空海が中国から請来した極彩色の両界曼荼羅は失われ現存しませんが、その姿を伝える曼陀羅のひとつとして「国宝 西院本曼荼羅」があります。絵は両界曼荼羅の内、金剛界曼荼羅の中で仏や菩薩の姿を宝塔や密教法具などのシンボルで表した降三世三昧耶会(ごうざんぜさんまやえ)の一部分を描いたものです。中央の大日如来は宝塔と前に置かれた五鈷杵(ごこしょ)によって表現されており、宝塔の周囲を裳階で囲えば高野山大塔の姿を彷彿させます。(作画:木岡敬雄)
しかしインドの宝塔は煉瓦造や石造のため露天に晒されても問題はありませんが、日本の様に風雨に晒される機会の多い土地では宝塔の形を木や土によって造るにしても円筒状の足元は雨曝しのままで建物として長く持たせるためには問題も多く、また祭祀に際しても閉鎖的な宝塔では何かと不便です。このため周囲に裳階を設けることで雨から宝塔を保護しさらに祭祀に当たって僧侶の座を設けるなど機能面の要請にも対応できるように考えたのでしょう。こうして宝塔の周囲に裳階を付け加えた高野山大塔が造りだされました(注1)。
創建大塔は10世紀末に落雷により焼失していますがそれ以前に描かれたとみられる絵図(図5)や12世紀初頭の再建時の記録から巨大であった大塔の規模を知ることが可能です。それによると基壇の一辺は27メートル余りで初重裳階の柱間は5間を数えその長さは24メートルもあります。屋根上の相輪を含めた高さは48メートルに及び、平安時代に巨大建造物として詠われた東大寺大仏殿や出雲大社の高さに匹敵する巨大な塔でした。
図5:「御手印縁起、高野山四至結界絵図」
鎌倉時代の写本ながら平安時代初期の高野山内の様子を描いた絵図から大塔周辺を描いたものです。中央の大塔は不鮮明な部分もありますが相輪から四方の屋根に架かる鎖や塔身の大きな亀腹とその下を囲う裳階など大塔の特徴が良く描かれています。
(作画:木岡敬雄)
内部は円形に配された水輪柱を境に塔身部分と周囲の裳階に区切られ、塔身部分はさらに外陣と八角形に一段高く造られた内陣に分かれ中央の心柱と四本の柱の周囲を十二本の柱が囲む特異な平面です(図6)。塔身内部の柱は総て極彩色で如来や菩薩の姿などが描かれ、曼陀羅世界を立体的に表現していました。創建当初の絵図を見ると亀腹下の円筒部分がより高く表現されており現存する遺構とは異なる印象を受けます(注2)。二重屋根の上には多宝塔独特の相輪が立ち頂上から宝鐸を下げた鎖が屋根の四隅へ下がり、創建当初は金色に輝く相輪や宝鐸が風に揺られて視覚的にも聴覚的にも秀でた建築だったでしょう。
図6:高野山大塔一階平面図
創建時の大塔平面を清水擴氏や藤井恵介氏の復元図を参考に描いたものです。円形の塔身部分の周囲を五間四方の裳階が囲う独特な平面が分かります。塔身部分も円形の水輪柱だけでなく内陣上に八角形に配された十二本の柱で二重に囲われており他の塔では見られない特異な平面をしています。平安時代の再建以降の大塔と異なり創建大塔の中心には心柱が礎石上から立ち、大日如来を中心とした曼陀羅を連想させるより求心性の高い内部空間を構成していました。(作図:木岡敬雄)
注1:一般に図4の様な円筒状の塔身部の上に屋根が載る一重二階の塔を宝塔と呼び、塔身部の周囲に裳階を付加し一階が正方形で二階が円形の二重二階の塔を多宝塔と呼んでいます。多宝塔の中でも一階裳階の柱数が5間と規模の大きなものを区別して大塔と呼んでいます。ただ室町時代までは塔の形式上による区別はなく共に多宝塔と呼んでいる例があります。多宝塔は天台宗の根本経典である法華経に因む名称で最澄が建立を意図した塔の名称として伝わっていますが、その形は多くの遺構が伝わる多宝塔とは異なっていたようです。最澄の没後に天台宗でも中国に留学した僧によって本格的に密教が取り入れられ、天台宗の多宝塔にも大日如来などが祀られるようになります。真言宗には縁のない多宝塔という名称が用いられたのは天台密教の興隆に伴い密教の諸仏を祀る塔の名称として広まった結果、宗派の違いを超えて取り入れたためではないでしょうか。
注2:図5に描かれた大塔は亀腹が大きく表現されており現存する一般の多宝塔とは異なる印象を受けます。創建大塔は空海の入定後、弟子の真然によって貞観二年(860)年に建立されており野屋根のない当時は裳階の屋根の勾配も緩くこの様に見えたのかもしれません。ただ創建大塔の姿を描く別の絵図では裳階のない宝塔形式に描かれており、創建大塔の亀腹は円形に配された水輪柱に直接支えられ、裳階の屋根は円筒状の塔身に差し掛けただけであった可能性もあります。
多宝塔の広まり
空海によって構想された高野山大塔はその規模の大きさから唯一の存在で他に造られることはありませんでした。空海によって構想されたもう一基の大塔でさえ縮小して造られており、他の寺院で造られた大塔もその規模は及びませんでした。このため高野山大塔の特殊な平面構成はそのままの形で継承されることはなかったようです。しかし、和歌山県の根来寺大塔の様に省略されながらも高野山大塔の面影を今に伝えている遺構もあります(図7)。
図7:根来寺大塔の内部
高野山の西、紀ノ川沿いの和歌山県岩出市にある新義真言宗の総本山である一乗山大伝法院根来寺にある大塔で室町時代の創建。高野山大塔に及ばないものの規模の大きな大塔の唯一の遺構。高野山大塔と異なり身舎内部は須弥壇の周囲に四本の四天柱が立つだけだが、円形に配された柱によって身舎と裳階に相当する周囲とは明確に区分されている。(作画:木岡敬雄)
その一方で規模の大きな大塔に代わりに内部の柱を省略した3間四方の多宝塔が多く造られました。冒頭で触れた石山寺の多宝塔もそのひとつです。規模は小さくなりましたが裳階の屋根上には宝塔の上部を表す亀腹が残り高野山大塔に始まる特異な形を留めています。多宝塔は真言宗の寺院のみならず天台宗でも盛んに造られました。さらに神仏習合の関係で神社の神宮寺にも造られていました。空海によって構想された高野山大塔に端を発する多宝塔は中国や朝鮮半島にはない日本独自の建築です。その特殊な形態の成立に際して雨の影響が見られる点は大変興味深いことです。
主な参考文献
『平安時代仏教建築史の研究―浄土教建築を中心に』清水擴著、中央公論美術出版、平成4年2月
『密教建築空間論』藤井恵介著、中央公論美術出版、平成10年2月
『日本建築史基礎資料集成十二 塔婆Ⅱ』濱島正士編、中央公論美術出版、平成11年11月
(きおか・たかお)1957年東京生まれ。1982年武蔵野美術大学造形学部建築学科卒業。同年、宮上茂隆の主宰する竹林舎建築研究所に入所。1998年竹林舎建築研究所代表に就任。日本建築の復元と設計に当たる。主な仕事に、掛川城天守復元、大洲城天守復元、建長寺客殿得月楼設計、岐阜市歴史博物館「岐阜城復元模型」監修、東映配給映画「火天の城」建築検証、NHK大河ドラマ「真田丸」大坂城CG監修。主な受賞に、大洲城天守復元で「第1回ものづくり日本大賞内閣総理大臣賞」「日本建築学会賞(業績部門)」など。