連載

木岡敬雄の

雨が育てた日本建築

(2025.6.13)

VOL.16 唐破風にみる日本建築の歴史


はじめに

 雨の多い日本では雨から建物を守る屋根の存在は大きく日本建築の見どころのひとつといっても過言ではないでしょう。瓦葺や茅葺といった葺き材の違いもありますが屋根の形の違いも大きな要素でしょう。屋根の妻面にみられる破風も場所によって勾配や曲線も異なり様々な名称で呼ばれています。今回は破風の中でも独特な曲線が際立つ唐破風を取り上げたいと思います。
 


二条城二の丸御殿の唐門と車寄せの軒唐破風

 京都の 二条城と言えば修学旅行などで訪れた経験を皆さんお持ちでしょう。堀川通りに面する白亜の東大手門を入って築地塀に沿って進み角を曲がると右手に大きな門の姿が目に飛び込んできます。それが 二の丸御殿の唐門です(図1)。
 

図1二条城二の丸御殿の唐門と遠侍車寄せ:二条城二の丸御殿を囲む築地塀の南面に設けられた門で檜皮葺の切妻屋根の前後を唐破風屋根とした四脚門形式の門です。極彩色の彫刻と金色に輝く飾り金具によって二の丸御殿の正門に相応しく豪華に飾られています。一方で唐門の奥には檜皮葺の入母屋屋根の正面を軒唐破風とした車寄せが見え、唐門同様に極彩色の彫刻と金色に輝く飾り金具によって飾られ二の丸御殿内で最大の建物である遠侍の玄関に相応しい姿を誇ります。両者とも現在は檜皮葺の屋根ですが明治の修理以前は瓦葺で寛永の造営時には杮葺の屋根でした。(作画:木岡敬雄)


 
 唐門は扉の両脇に立つ2本の丸柱の前後に4本の角柱が立つ切妻屋根の四脚門で正面と背面を屋根の幅いっぱいに 唐破風とした門です。正面から見上げた際の唐破風の存在感は大きく四脚門ではなく唐門と呼ばれる所以でしょう。唐門を入った先には巨大な遠侍の屋根の下に車寄せの入母屋屋根が見えその軒先にも唐破風があります。こちらの唐破風は左右の軒と一体となった軒唐破風と呼ばれるものです。ふたつの唐破風とも極彩色の彫り物や金色に輝く金具によって飾られ、徳川幕府の権威を示す格好の存在です。日本建築の歴史において唐破風がこの様な役割を担うまでには長い歴史がありました。
 

唐破風の特徴

図2 唐破風の見上げ(作画:木岡敬雄)


 唐破風は図2からも明らかなように上半分は凸曲線に起(むく)り下半分は凹曲線に反る反転曲線からなり、破風板の巾も屋根の形に並行でなく場所ごとで微妙に異なり、中心から反曲点までの間には茨(いばら)と称する小さな突起があります。破風板中央の拝み部分に下がる懸魚も横に長い特異な形をしており特に兎毛通(うのけどおし)と呼ばれています。唐破風の特徴は正面の破風板だけでなく、破風板を支える指桁の菖蒲桁(しょうぶけた)と中央の棟木の間に曲線状の輪垂木(わだるき)が掛かり軒裏は曲面になっています。
 

図3 唐破風の屋根面(作画:木岡敬雄)


 屋根に目を向けると降った雨は図3のように唐破風の形状に合せ左右に分かれ谷を通して唐破風の隅から落ち妻側からはわずかしか垂れることはありません。切妻破風の場合も同様の効果が期待できますが破風の拝みの位置が高いためそこから雨が吹き込む可能性もあり拝みの位置の低い唐破風の方が有利です。樋を設けることの少なかった当時は屋根に降った雨は軒先からそのまま流れ落ちるため建物の出入り口の上を唐破風とした場合は滴る雨の量を軽減できる良さがあります。
 

唐破風の起源

 唐破風は「唐(韓)」という字が使われているために中国や朝鮮半島から伝えられたものと考えられ江戸時代の『家屋雑考』には「韓(から)門は、皇朝の制にあらず。(中略)ともにから国のをうつし作れるなるべし。」と記されています。しかし中国や朝鮮では現存する実例が見られず日本独自に考案されたものとも言われています。もっとも中国の古い絵画を見ると唐破風に近い形状の屋根も描かれておりその起源はなお一考の余地がありそうですが、唐破風を様々な建築に取り入れていったのは日本独自と言っていいでしょう。その起源に関しては建築よりは牛車など乗り物の屋根や覆いなどから派生したのではないでしょうか。文献上は平安時代中頃の十世紀末から唐破風に関連すると思われる言葉が見られますが(注1)具体的な姿が確認の出来るのは延久元年( 1069)に法隆寺東院の絵殿に納められた障子絵に描かれた唐門です(図4)。
 

図4『聖徳太子絵伝』(法隆寺献納宝物)東京国立博物館蔵:もと法隆寺東院の絵殿内の壁面を飾っていた聖徳太子の生涯を描いた障子絵で現在は屏風に改装されています。聖徳太子の事績が10面の画面にちりばめて描かれており平安時代の延久元年(1069)年に絵師の秦致貞(はたのむねさだ)によって描かれたものです。画面の中段に檜皮葺の平唐門が描かれており他の描写からも平安時代中頃の実際の建物を意識して描かれていることが分かります。(作画:木岡敬雄)


 この門は側面の妻側を唐破風とした平唐門と呼ばれる形式の門です。唐破風はその形状から中央部分は水平に近く雨仕舞からも大きな建物を覆う屋根には適さず門や廊など梁間の小さな建物に用いられていたようです。このためか平安時代末の作成と考えられる『年中行事絵巻』をみても唐破風のある建物は平唐門に限られ後世に見られるような唐破風を正面に据えた目立つ存在ではありませんでした。
 

注1:10世紀末ころから「唐庇(からひさし)」や「唐車」など唐破風と関連すると思われる用語がみえます。「唐車」は上皇や皇太子に摂政関白などが乗車する最上級の牛車で鎌倉時代の絵巻物からその屋根が唐破風状の屋根であることが確認できます。しかし「唐庇」に関しては建物に上がる階段上の片流れの屋根である橋隠(はしがくし)を指す場合もありすべてが唐破風に関係するものではないようです。

 

車寄せと軒唐破風

 平安時代の貴族住宅である寝殿造りでは主人や客の出入り口は身分の上下に合わせ寝殿南面の階段や寝殿前庭を囲む中門に中門廊とそれに付随する建物などいくつにも分かれていました。しかし貴族社会の衰退と併せて寝殿造りも規模を縮小せざるを得なくなり出入り口もわずかに残された中門廊に集約されます。この過程で主人や位の高い賓客が使用する出入り口となる車寄せを他と区別するために軒先を唐破風状にした軒唐破風が造られるようになります。文献からは鎌倉時代初めころから軒唐破風のある車寄を用いていたことが伺えます(注2)。
 
 現存する最古の軒唐破風の遺構は鎌倉時代の弘安七年( 1284)年に再建された法隆寺聖霊院の厨子(図4)です。聖霊院は金堂や五重塔を囲む回廊の東側にあり、元々は僧侶の住まいである東僧房の建物の一部を改造して聖徳太子をお祀りするお堂として平安時代に創建され鎌倉時代の弘安七年( 1284)年に再建されたものです。建物の内陣には身舎の幅いっぱいに大きな厨子があります(図5)。
 

図5法隆寺聖霊院内陣の厨子:法隆寺聖霊院の内陣後方に造り付けられた幅3間の漆塗りの厨子は高欄のある須弥壇上に置かれ、大面取りの柱といい出三斗の組物といい実際の建物に倣って造られています。軒裏を二軒繁垂木とした片流れの屋根の中央には軒唐破風が造られています。軒唐破風の曲線だけでなく棟木を支える蟇股の曲線も鎌倉時代の優れた意匠を伝えています。現在は厨子の正面3間とも扉が付けられていますが当初は軒唐破風下の中央のみでした。(作画:木岡敬雄)


厨子といっても実際の建物と同じよう造られ正面中央には伸びやかな曲線を描く軒唐破風があります。軒唐破風の直下には登り高欄のある階段が設けられ車寄せと同様に一段高い位置にある厨子の扉の前へ昇降できるように造られています。
 

注2:鎌倉時代の嘉禄元年(1225)に百人一首の選者として知られる藤原定家は自邸である一条京極邸の新たに主屋を建て出入り口となる車寄せ上を「唐棟」としていたことを日記の『明月記』に記しています。しかし翌年には桁行2間の「唐棟」の廊を主屋の南西に増築し前年の車寄せを廃し廊の南端を新たな車寄せに改めています。一連の記事から「唐棟」が唐破風屋根のことを指し増築前の「唐棟」は軒唐破風に相当することが分かります。

 

割拝殿と向唐破風

 奈良の天理市にある石上神宮は天皇家とゆかりの深い神社として有名ですが境内の一画に摂社出雲建雄(せっしゃいずもたけお)神社の拝殿があります。元々は近郊にあった内山永久寺の鎮守の拝殿ですが大正時代に石上神社へ移築されたものです。拝殿は鎌倉時代末期に現在見る姿に成ったといわれ桁行5間に梁間1間の建物の中央1間分を馬道(めどう)とした割拝殿で馬道の上を唐破風の屋根が覆っています(図6)。
 

図6石上神宮摂社建雄神社拝殿:武雄神社拝殿はかつて石上神宮の近郊にあった内山永久寺の鎮守社の拝殿でした。内山永久寺は平安時代の永久二年(1114)に鳥羽天皇の勅願によって創建された寺院で江戸時代まで多くの子院を擁する大寺院でしたが明治維新後の廃仏毀釈によって破壊され現地には鎌倉時代に造られた苑池が溜池として残されているだけです。拝殿は永久寺唯一の遺構で柱などの面取りも大きく住宅風の意匠を持つ優れた建物です。もとは桁行三間の拝殿を鎌倉時代末に五間に改修したものと言われています。(作画:木岡敬雄)


 唐破風の屋根は左右の拝殿より一段高く造られ唐破風を正面に向けた向唐破風の造りで本殿への入口に建つ門の様な存在です。同様の例は鎌倉時代に描かれた絵図の中でもしばしば見られ拝殿のみならず回廊の門として描かれた例もみられます。門以外にも舞殿や楽屋といった小規模な建物の屋根を唐破風とした例もあり、これらの例が寺院でなく神社の建物に多く見られることは興味深いところです。
 

日本建築の中の唐破風

 室町時代になると唐破風を用いた建物は徐々に広がりを見せていますがいまだ後の時代の様な状況には至りませんでした。鎌倉時代末から室町時代初期に記された故実書の『海人藻芥(あまのもずく)』には邸宅の門の格付けについての記述がみえますがその中に唐門の記載はなく四脚門を頂点とした門の格付けでは格下の門とされていたようです。絵巻物などを見ると武家の屋形の門としてしばしば平唐門が見られますが四脚門を造る資格のない階層の門として認識されていたのでしょう。室町時代後期の『洛中洛外図』でも四脚門と並んで平唐門が描かれていますが主たる門は四脚門で平唐門は奥向きの門として扱われています。
 
 この認識が大きく変わるのは安土桃山時代の到来です。天下人の趣向もあって存在感ある意匠の唐破風は従来の範疇を越えて様々な建物に取り入れられます。唐門も従来の格付けから解放され二の丸御殿の唐門の様に四脚門の正面を唐破風にしたり西本願寺の唐門の様に向唐破風の四脚門が造られるようになります。また軒唐破風も新たな御殿の出入り口となる玄関の正面を飾るようになるなど晴れの場の舞台装置として欠くことの出来ない存在となります。その究極の存在は天守の屋根を飾る唐破風でしょう。そこでは出入り口を示す本来の役割から離れ純粋に意匠的面白さから千鳥破風と組み合わせ天守を華麗に飾っています。二条城の二の丸御殿の唐門と軒唐破風はそのような唐破風が辿った歴史的変遷の一端を物語る貴重な例です。
 
 

主な参考文献
「唐破風に就いて」『建築学会論文集第6号』太田博太郎著、昭和12年8月
『日本の美術(212)門』岡田英雄編、ぎょうせい、昭和59年1月
『奈良六大寺大観 法隆寺一』鈴木嘉吉著、岩波書店、昭和47年8月
『日本建築史基礎資料集成二 社殿Ⅱ』稲垣栄三著、中央公論美術出版、昭和47年6月
『絵巻物の建築を読む』小泉和子、玉井哲雄、黒田日出男編、東京大学出版会、平成8年11

(きおか・たかお)1957年東京生まれ。1982年武蔵野美術大学造形学部建築学科卒業。同年、宮上茂隆の主宰する竹林舎建築研究所に入所。1998年竹林舎建築研究所代表に就任。日本建築の復元と設計に当たる。主な仕事に、掛川城天守復元、大洲城天守復元、建長寺客殿得月楼設計、岐阜市歴史博物館「岐阜城復元模型」監修、東映配給映画「火天の城」建築検証、NHK大河ドラマ「真田丸」大坂城CG監修。主な受賞に、大洲城天守復元で「第1回ものづくり日本大賞内閣総理大臣賞」「日本建築学会賞(業績部門)」など。