連載
木岡敬雄の
雨が育てた日本建築
VOL.17 軒裏にみる日本建築の歴史
はじめに
日本建築にとって雨から建物を守る屋根は、無くてはならない存在です。深い軒の出も雨掛かりから建物本体を遠ざけておくために作られたものですが、軒の出を支える軒裏も屋根の形や葺き材の違いと共に建物の印象を大きく左右する存在です。今回はそのような軒裏について取り上げてみたいと思います。
金蓮寺弥陀堂
図1:金蓮寺弥陀堂
金蓮寺弥陀堂は三間四方の仏堂の正面と、側面の二面に庇が取付く規模の小さな建物ですが、仏堂の寄棟屋根に庇の片流れの屋根を縋破風によって巧みに一体化した建物です。仏堂内部は来迎柱を前に須弥壇を設け、阿弥陀三尊像が祀られており、天井は二重の折上げ小組格天井です。(作画:木岡敬雄)
弥陀堂は桁行3間・梁間3間の仏堂を中心に前面に幅1間ある吹放しの庇と東面にも庇状の小部屋が取付き、檜皮葺きの寄棟屋根に庇部分を 縋破風(すがるはふ)によって一体化した小さいながらも複雑な屋根の建物で国宝に指定されています(図1)。従来は鎌倉時代中期以降の建物とされていましたが近年の年輪年代測定によって創建年代はそれより遡る可能性も指摘されています。
図2:金蓮寺弥陀堂の軒裏
壁側の地垂木は繁垂木で、軒先側の飛簷垂木は疎垂木に木舞を見せる造りです。組物の舟肘木をはじめ、軒桁から隅木に至るまで各部材の角は面が取られ飛簷垂木は上端にも面が取られるなど繊細な造りです。(作画:木岡敬雄)
軒裏を見上げると壁に近い方は垂木の本数が多い 繁垂木(しげだるき)に対し、軒先は本数が少ない 疎垂木(まばらだるき)となり両者の違いが際立ちます(図2)。金蓮寺弥陀堂にとってふたつの軒裏の違いはどのような関係にあるのでしょうか。
寺院建築の軒裏
図3:三手先組物の模式図
組物の代表的な造りで最上級の建物に使われる組物です。柱位置からの出を手先といいますが、3つ目の手先が軒桁の位置となる組物です。持ち出された三手先目は構造上も有利となるよう太い斜材の尾垂木を介して支持されています。(作画:木岡敬雄)
新たにもたらされた寺院建築の軒裏は瓦葺き以外の建物にも少なからず影響を与えています。その様子が分かる遺構が移築された 法隆寺東院の伝法堂です。現在は瓦葺きの屋根ですが移築前は 檜皮(ひはだ)葺きの屋根で軒裏は一軒の垂木に大斗肘木の組物や二重虹梁蟇股の架構など瓦葺きの寺院建築と変わらない造りです。また寺院の中には屋根を檜皮葺きにした仏堂や仏塔もあります。軽量な檜皮葺きの屋根でも、その軒裏は細かく配した垂木と組物を用いた瓦葺きを踏襲した造りであったと見られます。
平安時代中頃以降、下からみえる軒裏とは別に、より勾配のある野屋根が造られるようになります。軒裏と野屋根の間の空間を利用して 桔木(はねぎ)が入れられ屋根荷重を受けるようになると、それまで構造材であった垂木や組物の役割は次第に化粧材に変わっていきました。地垂木に対し飛簷垂木の長さは長くなり組物も斗同士の間隔を統一するため出が小さくなるなど変化が見られます。鎌倉時代中頃からは大工の加工技術の進展もあってより精緻な納まりが可能となり、垂木も細くそれに合わせて垂木間隔もより小さくして垂木の丈を間隔とするいわゆる 本繁割(ほんしげわり)などの納まりがみられるようになります。この中から垂木間隔を基準としてその倍数をもって建物の柱位置や細部の寸法を決定する 枝割り(しわり)という考え方が派生します。それまでの柱間の寸法を先に決め垂木を割り付けていた設計手法からの大転換となるできごとです。
住宅建築の軒裏
平安時代も末期以降になると絵巻物などによってさまざまな階層の住まいの様子がうかがえるようになり多くの建物で板葺き屋根が用いられていたことがわかります(注2)。板葺きの板も 杮(こけら)葺きや 栩(とち)葺きなどと異なり長さのある薄板を用いた屋根として描かれています。
図4:『絵師草紙』宮内庁三の丸尚蔵館蔵
明治になって徳川家から皇室に献上された絵巻の一場面。絵巻は鎌倉時代末の作品で領地をめぐる訴状に添えられたものといわれ、絵の描写には誇張が含まれていますが、屋根の葺き板と棟木を留める釘穴まで描かれており、絵師が実際に目にした板葺き屋根を参考に描いたとみられます。絵師の家族の姿を生き生きとした描線で表現するだけでなく、建物の細部に至るまで克明に描かれており、絵師の優れた技量がうかがえます。(作画:木岡敬雄)
(図4)は 『絵師草紙』という絵巻で貧乏絵師の住まいと傷んだ屋根の様子が描かれており柱位置を基準とし等分に配された疎垂木の上に木舞を並べ長板を相互に重ねて葺いた屋根の造りがよく分かります。板葺き屋根は程度の差こそあれ、貴族から庶民に至るまで広い階層で用いられていました。
一方で位の高い貴族邸にみえる檜皮葺き屋根にも疎垂木の例がみられるようになります。平安時代末期以降は経済的な理由もあって寝殿造りの規模も縮小され、建物も丸柱であったものが一部に角柱を使用するようになり建具も蔀戸から、舞良戸の多用へと変化しており軒裏も繁垂木から簡略な造りの疎垂木へ移行していったのでしょう。もっとも、垂木も木舞も化粧材として面を取るなど形を整え木舞上の板も化粧裏板として体裁のよいものが使われたことでしょう。疎垂木を用いた軒裏は、葺き材の相違を超えて住宅建築の軒裏として普及し、その後、書院造りの建物にまで引き継がれます。
注1:垂木上に木舞を渡し板を張るところは後の板葺き屋根と共通しますが古文書記載の本数から垂木は柱位置にしかありません。しかも垂木は棟木を支持する合掌状の材です。平城京の発掘調査で出土した部材からも同様の造りが見られ奈良時代の板葺き屋根として一般的な構造であったようです。
注2:奥州平泉の柳之御所跡から出土した部材からも反りのある垂木上に小舞を載せその上に長さのある板を渡し押縁で押さえ屋根が復元されており絵巻物に見られる板葺き屋根と同様のものが広く用いられていたことが分かります。疎垂木の配置は時代を通して柱位置を基準とし柱間を等分することが基本となり繁垂木にみられるような垂木間隔をもとに柱位置を求める枝割りという考え方とは無縁でした。
住宅風仏堂のはじまり
仏教の教えが衰退する末法時代の到来を控えた平安時代後期には貴族の中で贖罪と極楽往生への望みから洛中の自邸内に仏堂を設けた例がみられます。平安時代10世紀末の貴族の 慶滋保胤(よししげのやすたね)は自ら著した 『池亭記(ちていのき)』において当時寂れつつあった平安京の右京に建てた自邸の池の傍らに阿弥陀如来を安置した小堂を建てたことを記しています。小堂がどのような建物であったのかあきらかではありませんが、当時有力貴族の住まう左京では競う様に立派な邸宅が造られ、その邸内に多くの私的な仏堂が設けられていました。平安時代を通して、平安京内の洛中では寺院を東寺と西寺に限り、その他の寺院の造営を禁じていました。このため、それらの仏堂は仏教建築であることを連想させる瓦葺きを避けて檜皮で葺かれ、組物も簡略な舟肘木とし外部の建具も蔀戸など、住宅風の外観であったと見られます。
図5:『称名寺絵図』神奈川県立金沢文庫所蔵
称名寺は横浜市金沢区にある真言律宗の寺院で鎌倉時代に執権を務めるなど鎌倉幕府を支えた金沢北条氏の菩提寺です。絵図は鎌倉時代末に称名寺境内の範囲を明らかにする目的で作成され、中島のある池を中心に金堂や講堂から三重塔まで完備された最盛期の伽藍の姿が描かれています。絵図の中で池から一段高い地に称名寺と記された建物が寺の創建されるきっかけとなった持仏堂とみられます。(作画:木岡敬雄)
鎌倉時代になると、貴族だけでなく武士たちも館内に仏堂を造るようになります。殺生と背中合わせの武士にとって、極楽往生の望みは切実なものがあったでしょう。地方に拠点を置く武士たちも同様で、規模の小さな住宅風の仏堂が造られるようになります。(図5)は、神奈川県横浜市の金沢にある 称名寺の伽藍を描いた絵図の一部です。称名寺は鎌倉時代に 金沢北条氏の別邸があったところで、邸内に持仏堂を建てたのがそのはじまりといわれています。絵図の中で称名寺と記されている檜皮葺きの建物がその持仏堂とみられ、吹放しの広縁に廊が付属し蔀戸や遣戸を廻らした住宅風の外観です。軒裏を疎垂木とした建物が仏堂として造られても、何ら不思議ではないことを絵図は示しています。
金蓮寺弥陀堂にみる住宅風仏堂のひろがり
金蓮寺弥陀堂の軒裏を見ると、地垂木は仏教建築に用いられる繁垂木で、しかも垂木間隔は本繁割となり、身舎の柱間隔から枝割りの影響も窺えます。一方で、飛簷垂木は住宅建築で多くみられる疎垂木に倣って、地垂木の3本に1本の割合でまばらに配し木舞を渡した造りになっています。金蓮寺弥陀堂でも仏堂に相応しい造りが求められ、それが地垂木の繁垂木に表されます。その一方で規模の小さい建物から飛簷垂木を疎垂木にして軽快な軒先に見せようと意図した結果が、ふたつの軒裏が同居することになったのでしょう。
住宅風の仏堂は実際には多く造られたはずですが、遺構として残っているものは限られています。しかし、金蓮寺弥陀堂のような優れた建物が京都や鎌倉を離れた地にも存在することは、住宅風仏堂が大きな広がりをもって各地に造られていたことを示しています。
主な参考文献
『国宝金蓮寺弥陀堂修理工事報告書』金蓮寺弥陀堂修理工事委員会編集、昭和29年6月
『新編西尾市史』新編西尾市史編さん委員会編集、愛知県西尾市、令和4年10月
『日本建築の構造と技法 上・下』岡田英男著、思文閣出版、
『平安時代仏教建築史の研究―浄土教建築を中心に』清水擴著、中央公論美術出版、平成4年2月
(きおか・たかお)1957年東京生まれ。1982年武蔵野美術大学造形学部建築学科卒業。同年、宮上茂隆の主宰する竹林舎建築研究所に入所。1998年竹林舎建築研究所代表に就任。日本建築の復元と設計に当たる。主な仕事に、掛川城天守復元、大洲城天守復元、建長寺客殿得月楼設計、岐阜市歴史博物館「岐阜城復元模型」監修、東映配給映画「火天の城」建築検証、NHK大河ドラマ「真田丸」大坂城CG監修。主な受賞に、大洲城天守復元で「第1回ものづくり日本大賞内閣総理大臣賞」「日本建築学会賞(業績部門)」など。