連載
木岡敬雄の
雨が育てた日本建築
VOL.18 春日大社の雨樋
はじめに
第9回の連載で宇佐八幡宮の前後ふたつに分かれた本殿が雨樋を介して一体化された様子とその背景について取り上げてみましたが、それ以外にも屋根と樋を通して神社の歴史と社殿の分かち難い関係を知ることができます。今回は春日大社の本殿からその様子を辿っていきたいと思います。
春日大社
奈良の市街地の東に連なる山々の中でも山焼きで有名な若草山の南隣りに傘を伏せた様な小高い山があります。その山が御蓋山(みかさやま)です。奈良時代以前から神奈備山として崇められていましたが、その山麓に奈良時代のはじめ藤原氏の氏神となる春日社が新たに創立されました。平安時代には社殿が整備され藤原氏との関係から氏寺である興福寺とも深い結びつきがあり、境内に五重塔がふたつそびえるなど神仏習合の神社でしたが明治維新後は興福寺から離れて第二次大戦後は名称も春日大社に改めています。
境内は現在の奈良公園の西にある一の鳥居からはじまり、広大な地域を占めますが、社殿の多くは二の鳥居から東の山裾にあります。左右に石灯篭が並ぶ参道を登りきると、左手に朱塗りの回廊と入母屋屋根の楼門である南門が見えてきます。南門を潜ると正面右奥のさらに一段高くなった一画に中門と呼ばれる楼門と御廊(おろう)と称される廊によって隔てられて四棟の本殿が並んでいます。
春日造りの本殿
図1:春日大社本殿
東西に緩く傾斜した地に四つの本殿が並んでいます。手前から第四殿、第三殿、第二殿と続き一番奥に第一殿が建っています。各本殿間は御間塀によって連結され前面のみに設けられた簀子縁と階段の存在から正面性を強調した造りとなっています。本殿間の3本の太い雨樋は比較的小さな本殿の建物と比較しても際立つ存在です。(作画:木岡敬雄)
屋根は向拝を含め檜皮で葺かれ、身舎の棟木上には細い千木と四角い堅魚木が載っています。柱など軸部の多くは朱塗りで、壁は板壁上に白漆喰が塗られ、正面の階段や簀子縁の周囲には黒漆地に胡粉で剣巴文と珠文が描かれています。本殿間をつなぐ御間塀(おあいべい)と呼ばれる屋根付きの塀には、獅子や馬などの絵が極彩色で描かれ、要所に取り付けられた金色の飾り金具から本殿の規模は小さいながらも華やかな印象を受けます。
向拝正面の軒先にある樋とは別に本殿間に3本の太い雨樋が設けられています。本殿の屋根が近接しているため、それぞれの軒樋を一本の樋で賄うために太い樋が必要になったのですが、鎌倉時代の絵巻物にも描かれており、古くから設けられていたことは間違いありません(図2)。鎌倉時代の樋は板を組み合わせた箱樋のようですが、現在の樋は末口で直径80センチメートルもある丸太を半分に割り、表面に V字状の溝を掘った樋で前方は御間塀に後方は竪樋によって支持され、雨水は竪樋を通して本殿背後の溝へ流れ落ちるようにつくられています。
図2:『春日権現験記絵』模本(東京国立博物館所蔵)より
鎌倉時代後期に描かれた絵巻で原本は宮内庁三の丸尚蔵館所蔵。春日大社の由来とその霊験を示す出来事を描いた絵巻で幾つもの場面で当時の春日大社の姿が描かれています。絵巻の中には建築工事の場面もあり描かれた工匠の姿や道具などから建築について知識のある絵師による制作で本殿間にある板材を組み合わせた箱樋の姿も実際に即したものと考えられます。(作画:木岡敬雄)
軒裏を見上げると身舎は繁垂木ですが、向拝は木舞を載せた疎垂木で垂木尻も身舎の梁や柱上の舟肘木とかち合い納まりが一定ではありません。両端の縋破風は、軒裏まで延びた身舎の切妻破風を優先して取付く様子からも、向拝自体が身舎とは別に付加されたものであることを示しています(図3)。こうした点は本殿成立時の名残とも考えられます。しかし、本殿の正面としての納まりの悪さや意匠的な物足りなさが、新たな春日造りを生み出す要因になったのも事実です。
図3:春日大社本殿の見上げ
身舎と向拝ともに柱上の組物はもっとも簡素な舟肘木です。身舎は垂木を細かく配した繁垂木ですが身舎の垂木と直交方向の向拝の垂木は納まりの制約から向拝柱の外側にはなく極端に本数の少ない疎垂木です。向拝端部の縋破風は軒裏に現れた身舎の切妻破風の側面に取付いています。(作画:木岡敬雄)
春日造りの展開
図4:円成寺春日堂・白山堂
春日堂と白山堂は明治の神仏分離令までは円成寺の鎮守として春日社と白山社と呼ばれていました。円成寺は室町時代に火災にあい伽藍の多くの建物を失っていますが春日堂と白山堂は類焼を免れ江戸時代の修理棟札より鎌倉時代前期の現存する最古の春日造りの建物です。(作画:木岡敬雄)
向拝の垂木は繁垂木となり、向拝の柱上には平三斗の組物が柱間の頭貫上には蟇股が用いられ、本殿正面に相応しい造りへと変化がみられます。向拝の軒裏の納まりも繁垂木に合わせた工夫が見られ、両端の垂木や縋破風を受ける材は一見すると身舎の切妻破風に見えますが、実は破風とは別に向拝の繫梁上に架けられた材です(図5)。この結果、身舎正面切妻破風は軒先と縁が切れ、破風の立つ位置や形にも変化がみられます。
図5:円成寺白山堂の見上げ
円成寺の春日堂と白山堂は春日大社の本殿と同じ春日造りながら向拝の垂木は繁垂木に変わり縋破風や垂木の尻も破風板状の部材で受けるようになり納まり上の改善がみられます。柱上の組物も身舎は舟肘木のままですが向拝は平三斗に変わり中央を蟇股で支持するなどより見栄えを考慮した造りに変化しています。(作画:木岡敬雄)
さらに鎌倉時代後期には隅木入り春日造りという新たな造りが出現します(図6)。向拝の垂木や縋破風の納まりを隅木が担うことで、軒裏の納まりの問題は完全に払拭されています。隅木入り春日造りでは、身舎の大きさを一間四方から奥行きを二間にしたものや、間口を三間にしたより規模の大きな本殿も造られ、その遺構はより広い地域にみられます(注1)。
向拝の軒裏を中心に起きた変化は、隅木入り春日造りの出現だけでなく同時期に向拝を軒唐破風にした正面性の強い春日造りも生んでいます。身舎の切妻破風と向拝の軒唐破風の取り合わせは、千鳥破風と軒唐破風の組み合わせとして神社建築のみならずやがて寺院建築にまで広まります。
図6:宇太水分神社本殿
宇太水分神社は農業に係わる川の水を司る神を祀る神社で奈良県宇陀郡では芳野川沿いに三ヶ所あります。そのうち中ほどに位置する古市場の宇太水分神社は鎌倉時代の春日造りの本殿が残されています。図にある様に同規模の本殿が3棟並列してあり中央の第二殿は室町時代末期の再建になるものですが手前の第一殿は棟札より奥の第三殿は様式から鎌倉時代の建物であることが明らかにされています。各本殿間は距離をとって建てられており春日大社の様な雨樋はありません。身舎の組物は出組となり軒裏も隅木によって向拝の垂木と縋破風を受け垂木自体も二軒の繁垂木とより複雑な造りになっています。柱は土台を用いず礎石上に建ち身舎の縁も正面だけでなく側面に及び同じ春日造りと言ってもかなり異なる建物です。(作画:木岡敬雄)
注1:中世において春日大社本殿や円成寺の春日堂・白山堂のような身舎と向拝の接合部に切妻破風やその代用となる部材を用いた春日造りと接合部を隅木によって納めたいわゆる隅木入り春日造りとはその分布に明確な差がみられます。春日造りは奈良県内と京都府南部に大阪府と和歌山県北部など春日大社周辺に限られる一方で隅木入り春日造りは滋賀県や兵庫県さらに岡山県や山梨県などより広範囲の地域にみられます。
屋根からみえる春日大社の独自性
図7:『年中行事絵巻』住吉家模本
平安時代末期に制作され当時の宮廷儀式や祭礼などを記録した絵巻で原本は失われていますがその一部が模写され残されています。それらの中に京都の梅宮神社の祭礼を描いた場面がありそこに連棟式春日造りの絵が描かれています。現在の本殿は流造りですが平安時代には並列した四棟の春日造りの本殿を連結し本殿間を身舎の棟と直行する屋根で覆い一体の建物としたことが絵巻物から分かります。その姿は流造りの屋根に複数の千鳥破風を配した連棟式本殿にも近似しており興味が惹かれます。(作画:木岡敬雄)
現在の春日大社本殿は江戸時代の造替によるものですが、鎌倉時代の造替記録から当時も現在と変わらぬ造りであった事が解明されておりその起源は平安時代まで遡るとみられています(注2)。鎌倉時代には春日造りの新たな展開がみられたにも拘らず春日大社ではそれらの影響がみられません。春日大社の神は第一殿に祀られている 武甕槌命(たけみかづちのみこと)をはじめ他所から勧請された神で土地に由来する神ではありません。四柱の神を象徴するものは、独立して建つ四棟の本殿の造りに他なりません。このため雨仕舞を考慮して一体の屋根にすることなく、平安時代以来と考えられる本殿の造りを雨樋も含めて、不変のものとして守り伝えてきたのでしょう。建物とその歴史が分かち難く関係していることがここからも分かります。
注2:春日大社本殿の造替は明治以降は修理を以て造替としていますが記録上60回に及びます。式年造替としておよそ20年ごとに行われるようになったのは室町時代の応永14年(1407)からでそれ以前は破損の状況に応じて造替が行われていました。このためその間隔は複数の記録からその年次があきらかに出来る平安時代後期以降では10数年から20数年と開きがありました。造替に際しては旧本殿の建物が春日大社とゆかりの地にある神社へ譲渡されています。
主な参考文献
『春日大社建築史論』黒田曻義著、綜芸舎、昭和53年7月
『国宝春日大社本社本殿四棟外九棟修理工事報告書』奈良県文化財保存事務所編、奈良県教育委員会、昭和52年3月
『日本建築史基礎資料集成一 社殿Ⅰ』太田博太郎編、中央公論美術出版、平成10年6月
「弘安時造替の春日神社本殿と江戸時代初期の若宮社社殿」『日本建築学会論文報告集』
佐藤正彦著、日本建築学会、昭和51年3月
「年中行事絵巻の所謂平野祭図」『日本建築史の研究』福山敏夫著、桑名文星堂、昭和18年10月
(きおか・たかお)1957年東京生まれ。1982年武蔵野美術大学造形学部建築学科卒業。同年、宮上茂隆の主宰する竹林舎建築研究所に入所。1998年竹林舎建築研究所代表に就任。日本建築の復元と設計に当たる。主な仕事に、掛川城天守復元、大洲城天守復元、建長寺客殿得月楼設計、岐阜市歴史博物館「岐阜城復元模型」監修、東映配給映画「火天の城」建築検証、NHK大河ドラマ「真田丸」大坂城CG監修。主な受賞に、大洲城天守復元で「第1回ものづくり日本大賞内閣総理大臣賞」「日本建築学会賞(業績部門)」など。