連載

木岡敬雄の

雨が育てた日本建築


 日本の伝統建築に見る「雨のみち」。第7回のテーマは、南蛮寺の樋を取り上げます。イエスズ会の京都での布教の拠点、南蛮寺を描いた狩野宗秀による「都の南蛮寺」の扇絵をきっかけに、江戸時代以前の金属製雨樋の有無についてを、紐解いていきます。

(2020.12.25)

VOL.7 南蛮寺の樋

 前回の連載で、樋が一般に普及するのは江戸時代も後半になってからと述べました。もっとも当時の樋は、木製や竹製が一般的でした。ところが、金属製の樋が江戸時代より前に存在していた可能性を示す絵画資料があります。それが今回取り上げる 「都の南蛮寺図」です。
 

図1:「都の南蛮寺図」
神戸市立博物館所蔵の扇絵のひとつ。元々は京都の名所を描いた61枚の扇絵を一冊の画帖に収めたものであったが、現在は分かれた状態で所蔵されています。絵の右上に押された落款から作者は安土桃山時代を代表する絵師狩野永徳の弟にあたる狩野宗秀と推定されています。


 神戸市立博物館に安土桃山時代の絵師、 狩野宗秀の落款がある「都の南蛮寺図」と呼ばれる扇絵が所蔵されています (図1)。京の町や周辺の名所旧跡を描いた洛中洛外図の一種で、扇の表に金泥に濃い彩色で町屋に囲まれた三階建ての建物が描かれており、天正四年( 1576)に建設されたイエズス会の教会、南蛮寺の様子を描いた絵とされています。絵を詳細に見ると表通りの門から路地を入った中庭には黒い衣装を纏った宣教師たちの姿が描かれ、二階の手摺からは外を見やる人々の姿も描かれています。三重の瓦葺の建物は京都の市街地である洛中でも一際目立つ建物だったことでしょう。
 

南蛮寺の特徴

 
 南蛮寺についてはイエズス会の宣教師 ルイス・フロイスが記した報告書に記述があります。
 
 それまで京都での布教の拠点としていた 「小さく貧弱な教会」を建て替え、天正四年に完成した教会で 「被昇天の聖母教会」と呼ばれていました。この教会について 「教会の上には前述の通り上階を設け、ここには非常に美しい六つの居室があり、どの方角からも市が見え、都の外に建っている寺院や田畑が望まれる。」とあります。1階を礼拝のための教会に充て、2階には6つの居室を設けて宣教師等の住まいとしても使われていたのでしょう。
 
 扇絵からも、2階の廻縁の手摺越しに周囲を遠望する宣教師等の姿が描かれており、フロイス記述とも整合します。同じ報告書に屋根から落下した瓦によって大工が危うくけがをするところを事無く済んだ話が記されており、瓦葺きであったことも扇絵の通りであったことは間違いありません。扇絵では三重目の屋根も描かれており全体で3階建ての建物のように描かれています。フロイスの記述からは不明ですが別の報告書では3階建てであったとする記述もあり何かしらの部屋が設けられていたのでしょう。
 
 教会があった場所は京都の四条坊門通姥柳町とされ、現在の三条通りと四条通りの中間蛸薬師通りの北、烏丸通の西の室町通りと新町通りに挟まれた一角にあったと言われています。教会と幾つかの建物を建てるには敷地が広くなかったため3階建ての建物にせざるを得なかったのですが、興味深いことは上階から見下ろされる事などを理由に周囲の町人から建設反対の訴えがあったことです。もちろん当時の京の町屋にも2階建てがあったのは事実ですが、南蛮寺のような城の天守や櫓と見間違えるような建物はありませんでした (図2)
 

図2:南蛮寺の復元イラスト
「都の南蛮寺図」と宣教師の記録等に基づき復元したイラスト。(作画:木岡敬雄)


 天正四年と言えば安土城の築城が始まった年で、歴史上初めての本格的天守といわれる安土城天守はいまだ存在していません。それでは南蛮寺の意匠や構造の基となったものは何であったのでしょう。
 

楼閣建築としての南蛮寺

 
 以前の連載で取り上げた鎌倉の 建長寺では、その最盛期に幾つもの楼閣建築が建ち並んでいたことに触れました。そこでは1、2階が同じ大きさの総2階の建物もあれば、下階の屋根の上に小さな上階を載せた建物もありました。鎌倉時代に中国の影響を受けて造られるようになる 楼閣建築は禅宗だけでなく律宗など他の宗派の寺院でも造られ、室町時代には武士の館にも造られるようになります。有名な 金閣銀閣がその例ですが、それらは住まいの一部として庭園に臨んで建てられ眺望を楽しんだり酒宴や遊興のために用いられました。  
 
 戦国時代を通して寺院や武士の館が城塞化されるに伴い、櫓として機能をもった楼閣建築も見られるようになります。記録を見ると 石山本願寺(注1)には 「御亭」と呼ばれた楼閣建築があり、天文22年 (1553)の時点ですでに、三階建ての建物であったことが記されています。下の階はいくつもの座敷が設けられ対面や饗応に使われ、上の階には番をする侍たちが詰め警護を担っていたようです。
 

図3:岐阜城山麓居館四階御殿の復元図
岐阜市歴史博物館所蔵の展示模型作成のために描いた図面に発掘調査結果等を加味し修正加筆したもの。(作図:木岡敬雄)


 少し遅れて永禄12年( 1569)織田信長が新たな居城として整備した岐阜城の 山麓居館にも4階建ての楼閣建築がありました (注2)。フロイスが岐阜城を訪れ案内された際の記録から、庭園に囲まれた1階は信長の住まいに2階は奥方と侍女の住まいに充てられ3・4階は眺望のために廻縁が巡らされた開放的な建物であったことが伺えます (図3)。同時期に織田信長が最後の室町将軍足利義昭のために造った京都の二条城にも三重の櫓が建てられていました。「坤 (ひつじさる )隅三重櫓」と称された櫓は堀の外の広場で行われた踊りの興行の際に桟敷としても使われており、単なる櫓ではなく一部は座敷を備えた開放的な造りであったことが伺えます (注3)
 
 このように寺院の楼閣建築に端を発し独自に発展した高層建築がいくつも建てられており、南蛮寺の建築を担った大工たちも何ら問題なく対処することが可能でした。
 

注1:現在の大阪城の地にあった浄土真宗の拠点寺院。明応五年(1496)に中興の祖と言われる蓮如によって造られた坊舎がはじまりで天文元年(1532)にそれまで拠点であった京都の山科本願寺が焼き討ちにあった後に本寺となりました。戦国時代を背景として城塞化され広大な寺院と門前町にあたる寺内町を誇り繁栄しましたが、戦国時代末期に織田信長と十年に及ぶ抗争の末、天正8年(1580)に門主が退去し寺院としての役割を終えました。
注2:岐阜城は政庁の有る山下居館と信長の家族が住まう山上のふたつに分かれており信長は数日おきに山上と山下居館を行き来していました。永禄十二年に岐阜を訪れたフロイスの記録から山下居館には政庁となる区域とは別に信長の私的な空間として四階建ての御殿を中心とした区域がありました。現在千畳敷と呼ばれる平場がそれで、さらにその奥には谷に地形を巧みに利用した深山幽谷の趣のある庭園や茶室などが点在していました。岐阜城の四階御殿は安土城天守の前段階として信長の御殿の変遷過程を物語る重要な建物です。
注3:足利義昭の二条城は現在の二条城とは位置が異なり京都御苑の南西、南北は丸太町通りと出水通りに東西は東洞院通りと室町通りにはさまれた地を占めていました。京都における初めての石垣造りの城で西南隅に「坤角三重櫓」がありました。元亀四年四月に義昭が信長に反旗を翻した折、急いで土壁の工事をしており開放的な建物であった可能性が伺えます。

 


建築における南蛮文化の影響

 
 天正八年( 1580)に造られた安土の セミナリオ(神学校)も三階建ての建物でした。1階には外部の人の宿泊用の座敷があり、2階は廊下で囲われたいくつかの部屋があり宣教師らの寝室に充てられ、3階は神学校となっていました。屋根は安土城の建物に使われていたのと同じ瓦を用いることが許されて瓦で葺かれていました。ここでもその造りは日本の木造建築そのもので、洗礼を受けキリシタンとなった大工が実際の工事を仕切っていたことが当時の書簡からも伺えます。
 

図4:聖パウロ教会
中国マカオの中心部にある東洋初のカトリック教会として有名な教会です。1835年の火災によって大きな被害を受け現在は正面部分を残すのみです。マカオは16世紀にアジアにおけるポルトガルの拠点として栄え、キリスト教布教の拠点ともなりました。


 ここで目を東南アジアに向けてみましょう。ヨーロッパの宣教師たちの活動の拠点であったインドのゴアや中国布教の拠点となるマカオでも、そこに造られた教会関係の建物は皆ヨーロッパの建築に範をとった石造りの建物でした。図4は 中国マカオの聖パウロ教会で南蛮寺が建設されてから6年後の 1582年から工事が始まり 1602年に完成した教会でその姿はヨーロッパの教会と何ら変わるところはありません。同じイエズス会の宣教師の設計によるものですが南蛮寺との相違は一目瞭然です。
 
 加工に適した石材が限られ、一方で地震の多い日本においては組積造の建物は不向きでした。豊かな森林資源に恵まれ、優れた技術によって造られる木造建築が存在する日本においてはイエズス会の教会といえども従来の木造建築を基本にして造ることが必然であったことは、ローマから派遣された巡察師 ヴァリニャーノによって記された 布教方針書『日本イエズス会士礼法指針』からも伺えます。そこでは建築にあたってはまず大工に相談しその設計に従うことが明記されています。教会は正面に対し奥行きのある建物にするなど寺社の建築とは差別化が求められていますが、襖などの建具によって自由に仕切られる座敷を併設するなど基本的な造りは従来の日本建築と大きく変わるところはありません。
 
 絵画や工芸品などの分野では西欧の意匠を取り入れたものが造られ当時も珍重されていたのは事実ですが、こと建築に関しては西欧文化の影響は細部意匠などごく一部に限られていたと思われます。
 

現在に通じる樋の姿

 

「都の南蛮寺図」をクローズアップしてみる


 再び「都の南蛮寺図」を見ると教会の一重屋根の軒先下に黒く彩色された軒樋と竪樋が描かれています。日本の伝統建築では屋根を伝った雨は軒先からそのまま地面へ落とすことが一般的で、樋を設けるのは屋根と屋根が接する谷の部分や人々が頻繁に出入りする入口部分など限られていました。イエズス会の宣教師たちの手によって慶長9年( 1604)に出版された日本語の辞書 『日葡辞書』にも樋のことを 「建物に取り付けた木製の導管であって、これを通って屋根の水が外へ流れ出るもの。」と記しており屋根と屋根の間に渡した谷樋を念頭に記しているようです。少なくとも「都の南蛮寺図」に描かれたように樋が建物の周囲二面以上に亘って設けられることはまずありませんでした。
 
 宣教師の記録に雨樋のことは触れられていないので詳しい事情は不明ですが、先程の 『日本イエズス会士礼法指針』の中にヒントとなる記述があります。そこでは 「(前略)縁側の前には、泥まみれになる季節に必要である以上、教会にやって来た者たちが脚を洗うことができるよう、いつも水をたたえているきちんとしつらえられた、屋根のある場所があることになろう。」と記されています。雨垂れを避けて軒下を有効利用するために軒樋を設け、竪樋の下には天水桶のように水を蓄える仕組みが施されていたのかもしれません。
 
 さらに樋が屋根の反りに合わせて曲線を描いている点や黒く彩色されている点からも、木製や竹製でなく銅板など金属製であったと考えられます。南蛮寺の建築に際してはキリシタン大名や洗礼を受けた人々の多大な援助があったことは宣教師たちが記している通りです。この樋もそれらの人々の寄進によるものでしょう。その姿は今日見る樋と何ら変わるところはなく極めて先駆的です。板葺き屋根ばかりの町屋の間においては異彩を放つ存在で南蛮寺を象徴する事物のひとつとして描かれたのも当然でしょう。
 


(きおか・たかお)1957年東京生まれ。1982年武蔵野美術大学造形学部建築学科卒業。同年、宮上茂隆の主宰する竹林舎建築研究所に入所。1998年竹林舎建築研究所代表に就任。日本建築の復元と設計に当たる。主な仕事に、掛川城天守復元、大洲城天守復元、建長寺客殿得月楼設計、岐阜市歴史博物館「岐阜城復元模型」監修、東映配給映画「火天の城」建築検証、NHK大河ドラマ「真田丸」大坂城CG監修。主な受賞に、大洲城天守復元で「第1回ものづくり日本大賞内閣総理大臣賞」「日本建築学会賞(業績部門)」など。