連載

木岡敬雄の

雨が育てた日本建築

(2021.08.17)

VOL.8 屋根に隠されたもうひとつの雨のみち


日本建築における内屋根

 
 日本建築と雨に纏わる話も8回目を迎えて今回は屋根についてお話ししたいと思います。連載2回目の「法華堂の樋のナゾ」の中で平安時代中頃にそれまでの軒裏や室内から見える垂木上に直接作られていた屋根とは別に雨を受ける専用の屋根である野屋根が出現したことに触れました。野屋根の出現は勾配の緩い深い軒の出や架構に縛られない自由な間取りなどその後の日本建築の発展に大きく寄与したこともお話ししました。しかし、野屋根が先にあげたような効果を発揮するまでには長い時間が必要でした。その過程の中で建物の外からは姿の見えない特殊な屋根が作られていました。それが今回テーマとして取り上げる内屋根です。
 


当麻寺

 
 奈良盆地の西部、奈良県と大阪府の境を成す葛城山系の北端に雄岳と雌岳の二つの頂きをもつ特徴ある山が二上山です。飛鳥時代に都が置かれた明日香村からは日没の方向に当たり古代より霊山として崇められた山です。サヌカイトや凝灰岩など有用な石材の産出する地として、また河内と大和を結ぶ交通の要衝としても重要な地でした。その山の東麓にある寺が当麻寺です。
 

図1:当麻寺本堂(曼陀羅堂)
当麻寺の金堂と講堂の間から本堂東正面を見たところ。金堂や講堂より一段高い基壇上に建つ本堂は軒裏の組物こそ簡素な平三斗(ひらみつど)ですが、大きな寄棟屋根で覆われ当麻寺の中心建物に相応しい堂々たる姿を見せています。(作画:木岡敬雄)

 

 寺の創建は古く、壬申の乱において天武天皇の勝利に貢献した当麻氏の氏寺として奈良時代前期(680年頃)に創建されたと言われています。しかし、寺の造営には百年に近い年月を要し金堂、講堂から東西両塔まで伽藍が整ったのは奈良時代末から平安時代初期と言われています。その後、戦乱などによって失われた建物もありますが(注1)、創建当時の東西両塔が残る唯一の寺としても有名です。しかし現在の当麻寺を象徴するのはこれら奈良時代以来の建物ではなく金堂や講堂の西側に建つ当麻曼陀羅を安置した本堂です(図1)。
 

注1:平安時代末期の治承4年(1180)、興福寺と縁のあった当麻寺は平重衡の南都焼打ちに並行して平家方の別動隊の襲撃にあい講堂は焼失し金堂も甚大な被害を受けました。金堂本尊の弥勒菩薩像も被害を被りその時の損傷の痕が見られます。幸いなことに本堂の曼陀羅堂や2基の3重塔は被災を逃れて今日までその姿を伝えています。金堂と講堂は共に鎌倉時代の再建になるものですがその規模は創建当時のものをほぼ踏襲して再建されたと言われています。

 


当麻曼陀羅と本堂

 
  曼陀羅という名から平安時代に中国から伝わった密教の曼陀羅を思い浮かべる方も居られると思いますが、当麻寺の曼陀羅は密教世界を表すものではなく極楽浄土を視覚的に表現した観無量寿経変相図で、蓮糸をもって織られたとする中将姫伝説でも有名な4メートル四方もある巨大な綴れ織りです(注2)。寺に納められた時期は明確ではありませんが伽藍が整った奈良時代末から平安時代初期と考えられています。平安時代後半以降、末法の到来(注3)を契機として極楽浄土への往生を求める浄土信仰の高まりと共に阿弥陀如来の西方浄土の姿を描いた当麻曼陀羅は人々の信仰を集め、金堂に安置された弥勒菩薩に変わって当麻寺の中心的存在となりました。この結果、奈良時代以来の南北軸を中心とした伽藍配置から阿弥陀如来の極楽浄土の方角である西向きを正面とした東西軸を重視した伽藍に変わり、その正面に当麻寺本堂が位置することとなりました。
 

図2:当麻寺本堂の平面図
本堂は南北5間、東西2間の内陣と外陣が東西に並び、周囲に幅一間の庇が廻る建物です。南北の庇は現在幾つもの部屋に区切られていますが、永暦再建時には仕切りも少なくより開放的であったと見られています。西北の幅3間奥行き1間の張り出しは鎌倉時代に増築された閼伽棚です。(作画:木岡敬雄)


 
 現在の本堂は柱間の数で言うと正面7間、奥行き6間もある規模の大きな瓦葺の建物です。内部は曼陀羅を納めた厨子を安置する正面5間奥行き2間の内陣とその前に正面5間奥行き2間の外陣が取り付き、さらに周囲に幅1間の庇が付く建物です(図2)。内陣の上部は太い虹梁の上に蟇股と組物を介して二重虹梁を載せさらに蟇股と組物で化粧棟木を支えるいわゆる二重虹梁蟇股の架構で奈良時代の最上級の建物に見られる構造です。天井はなく寄棟の化粧屋根裏がそのまま見えます。外陣に目をやると現在は一面に小組格天井が張られて下からは見えませんが虹梁上に立てた束柱によって棟木を支え、前後に架けられた垂木によって切妻屋根が造られています。これら内陣・外陣の周囲にはさらに庇が設けられ大きな寄棟屋根で覆われています (図3 )
 

図3:当麻寺本堂の断面図
当麻寺本堂の現状の断面図です。幅2間の内陣と外陣が東西に並び、その前後に庇が廻る本堂の構成がよく分かります。それらの上に束柱で野棟木や野母屋を受ける野小屋を介して大きな野屋根が造られています。内陣と外陣の境、内屋根の谷部分に雨樋が設けられています。(作図:木岡敬雄)


 

解体修理で明らかにされた本堂の変遷

 
 国宝に指定されている当麻寺本堂は昭和 32年( 1957)から行われた解体修理工事に際し詳細な調査が行われ、建物の複雑な変遷が明らかにされました。現在の本堂は外陣の棟木の墨書から平安時代末期の永暦2年( 1161)の再建になることが明らかになりましたが、内陣の架構はそれよりも古く当麻曼陀羅を納めるために奈良時代末から平安時代初期に建てられた前身建物を解体せずにそのまま利用して新たに造り変えた建物であったことが明らかにされています。
 

図4:当麻寺本堂の前身建物の断面図
東正面に孫庇が付いた前身建物の断面図です。建物の平面を拡張する際に孫庇を付加することは便利な方法ですが軒の高さが低くなるため制約があります。図の様に東正面の軒高は側面や背面と比べても格段に低く、当麻寺の中心建物として相応しいものとは言い難かったのでしょう。(作図:木岡敬雄)


 
 前身建物は奈良時代の別の建物の部材を再利用して5間×2間の身舎を内陣とし四方に庇が付く正面 7間、奥行き 4間の建物として創建されました。その後ほどなくして東側に孫庇を付加した建物に改造されました(図4)。孫庇を増築したのは当麻曼陀羅の厨子を納める内陣とは別に礼拝や法要に使用する礼堂としてより広い空間が必要とされたからと考えられます。屋根は身舎と庇部分は寄棟屋根に孫庇は片流れの屋根とし檜皮葺であったろうと推定されています。しかし新たに付加した孫庇は構造上軒が極端に低くなるなど当麻寺の中心建物として相応しいものではなかったのでしょう。こうして平安時代末に改め建て直されることとなりました。
 
 永暦の再建は内陣をそのままに孫庇と庇を撤去し、代わりに礼堂にあたる外陣を東側に増築し周囲に庇を設けた奥行きの深い建物に造り変えられました。屋根は内部の架構とは別に外陣と内陣の棟木上に梁を渡しそこから束柱で野棟木を支え前後に架けた野垂木で野屋根を形成し、建物全体を大きな寄棟屋根で覆う様に造り変えられました(図5)。
 

図5:当麻寺本堂と前身建物の重ね合わせ図
黒色が現状の本堂、青色がその前身建物です。孫庇形式の前身建物と比較して永暦再建の本堂が平面的にも内部空間の大きさの点でも格段に規模が大きくなったことが分かります。それらを可能にしたのも野屋根の存在が欠かせません。(作図:木岡敬雄)


 

野屋根と内屋根

 
 建物全体に野屋根を架けるようになると野屋根と化粧屋根裏や天井との間に大きな空間が生じ、この間を支える小屋組が重要となります。小屋組は後世の修理を受けやすく創建時の状態が分かる例は少ないのですが幸いなことに当麻寺本堂では大きな変更を受けることもなく創建時の小屋組みを推定することが可能でした。図3を見ても分かるように野母屋を支える束柱の多くが斜めに立ち、束柱間を繋ぐ貫も当初はなく、代わりに変形を止めるために筋違が要所に設けられただけでした。束柱の足元も垂木上に横材を渡しその上から立てるだけで足元に太い梁があるのは中央部分だけです。永暦再建時には桔木(はねぎ)も入っていなかったと言われているので瓦葺にしては華奢な小屋組みです。台風や地震などの災害に対して充分な構造とは言えなかったのでしょう。このため野屋根が被害を受けた場合に起きる雨漏りに対する備えとして設けられたのが屋根に隠されたもうひとつの雨のみちである内屋根です。
 
 内屋根は当麻寺本堂だけでなく平安時代末から室町時代にかけて他の建物でも見られます。内屋根の範囲も内陣の狭い部分だけのものから野屋根全体に及ぶものまで様々です。当麻寺本堂ではかつて屋根であった内陣の化粧屋根裏をそのまま内屋根として利用し、外陣の切妻部分も雨を受けるため板を二枚重ねとし、ふたつの内屋根の谷部分に雨樋を設けてあります(図6)。
 

図6:本堂の内屋根と雨樋
左側が内陣の内屋根で右側が外陣の内屋根です。外陣の内屋根は半ば解体され垂木の一部が残る状態です。ふたつの内屋根の間にある水色で示した部材が雨樋です。雨樋は3本継ぎで中央が高く両端は南北の庇の化粧屋根裏へ雨を流すように据えられていました。(作図:木岡敬雄)

 
雨樋には水が流れた痕跡があり実用の樋であったことが伺えます。もともと双堂ではないので樋の水の行く先は屋外でなく庇の化粧屋根裏を伝って軒下へ導かれる様に造られていました。このように当麻寺本堂の内屋根からは例え被害を被ったとしても重要な法要が行われる内陣と外陣を雨漏りから守ろうとする強い意思が感じられます。
 


当麻寺本堂に見る新たな建築の誕生

 
 室町時代末以降、小屋組にも垂直に立てた束柱に縦横に貫を通す貫構法が一般化しその強度が増すと共に雨漏りの心配も少なくなったと見えて内屋根を設ける建物はほとんどなくなります。当麻寺本堂の内屋根と雨樋は野屋根の構造が強化されるまでの過渡期における工夫や対処の一端を示しています。
 
 その一方で野屋根のもつ可能性が平安時代末期にすでに示されていることも見過ごしてはなりません。ひとつの屋根の下に内陣と外陣のふたつの性格の異なる空間を包含することが可能になったことは、それまでの金堂や講堂など機能を限定した建物から一つの建物内ですべてが完結する新しい寺院建築である本堂形式の誕生を示しています。鎌倉時代以降、格子戸などで仕切られた結界を介し内陣と外陣が相接する本堂が盛んに造られるようになります。当麻寺本堂はその先例となる建物のひとつとして重要な存在です。


(きおか・たかお)1957年東京生まれ。1982年武蔵野美術大学造形学部建築学科卒業。同年、宮上茂隆の主宰する竹林舎建築研究所に入所。1998年竹林舎建築研究所代表に就任。日本建築の復元と設計に当たる。主な仕事に、掛川城天守復元、大洲城天守復元、建長寺客殿得月楼設計、岐阜市歴史博物館「岐阜城復元模型」監修、東映配給映画「火天の城」建築検証、NHK大河ドラマ「真田丸」大坂城CG監修。主な受賞に、大洲城天守復元で「第1回ものづくり日本大賞内閣総理大臣賞」「日本建築学会賞(業績部門)」など。