連載|にわか雨の如く、建築に異議を申し立てる時評
その不意さ加減の面白さ、深刻さを建築の時評に。建築のここが変だ、ここがオカシイ、建築に声を上げる「驟雨異論」。 にわか雨が上がるのか、豪雨になるのか!?
1960年東京都生まれ。1985年東京大学工学部建築学科卒業。1987年東京大学大学院工学系研究科建築学専攻修了。1987-1993年日本設計。1993-1996年東京大学工学部建築学科キャンパス計画室助手。1993-2001年ファクターエヌアソシエイツ共同主宰。1998-2001年東京大学工学部建築学科安藤研究室助手。2001年千葉学建築計画事務所設立。2001-2013年東京大学大学院工学系研究科建築学専攻准教授。2009-2010年スイス連邦工科大学客員教授。2013年東京大学大学院工学系研究科建築学専攻教授。2016年東京大学副学長。
URL:千葉学建築計画事務所
MANABU CHIBA #2 2022.07.20
説明可能性問題
建築は、身体を介して自然を深く理解するための「道具」たり得ているか、ということを 前回書いた。その「道具」としての側面を研ぎ澄ませと。ではその「自然」を人間はどのように理解してきたのだろう。
ところでコロナ禍のメディアで度々耳にした言葉に「科学的」というのがある。コロナウイルスの感染状況の把握とそれに伴う政策に科学的な根拠がないと、批判の切り札として登場した言葉である。確かにそうだと思う局面もあったが、コロナウイルスという「自然」を理解する上で、科学的であることにそこまでの信頼を置いても良いのだろうか。
確かに自然科学は、自然を随分と解明してくれた。身近なところでも、例えば大気の状態をより正確に把握できるようになって、日々の天気だけでなく、豪雨やその年の天候不順も予測できるようになり、自然災害に対する備えは少なからず補強されたし、遺伝子レベルまで解明された人体情報は、多くの病を克服する可能性を拓いてくれている。数多くの生命体の発見は、地球上を覆い尽くす生態系のダイナミズムを明らかにし、種の保存への意識を高めている。
もちろん建築の世界にもこうした科学は深く浸透し、風環境や温熱環境、日射などの情報はパソコン上でも容易に再現可能になったし、力の流れも、もはや微細な部材に至るまで追跡できる。人の流動や滞留さえも可視化され、こうした客観的な情報が、設計の前提条件を変えつつある。特に昨今の建築界では、市民説明やワークショップ、プロポーザルや情報公開など、様々な場面で説明を求められるようになったから、こうした情報はその裏付けとしても存在感を増している。
確かに建築を説明していくことは、社会的には必要なことだ。しかし一方で、こうした「説明可能性」だけで設計を組み立てていくだけでは、決して魅力的な建築が生まれないことも僕たちは知っている。偶然見つけた模型の断片が、想像もしなかったような案を導いたり、あるいは説明はできないけれど、この案の方が快適だと確信したりすることは度々である。にもかかわらずこの説明可能性を支える「情報の束」は、その物量が増すほどに客観的であると捉えられ、情報化されていない要素を潜在化し、そして情報こそが世界の全てだという誤認を導いてしまう。
かつてノーベル化学賞を受賞された 吉野彰先生が、確かテレビのインタビューで、 「自然界で解明されていることは、まだほんの数パーセントにも満たない。」といった趣旨の発言をされていた。もちろん化学で扱う自然と建築が向き合う自然とでは、解像度の次元が違い過ぎるから同じ土俵では語れないが、しかし、まだ解明されていない残りの90数パーセントにこそ目を向けよというメッセージは、建築界にも重ね合わすことができるだろう。風環境にせよ温熱環境にせよ、パソコン上に再現される現象は、言ってみれば実験室という閉じた空間によって切り取られた自然の一断面である。だからこそ明示的に示すことができる現象は説得力があって、魅惑的だ。しかし、そもそも把握できないほどの事象が相互に連関を築きながら成り立つ自然は、それほど単純ではない。
実際僕たちの身体も、こうした環境を、空気という物質の流れや温度だけで感じ取っているわけではなく、頬に触れる湿り気や匂い、時に埃や虫なども絡まりあったものとして受け取っている。いやそれだけでなく、木がざわめく音や雲の流れ、海面のさざ波などにも風を感じ、風が大きく息をしたり気まぐれに揺らいだりすることも肌感覚で知っている。そしてこうした数多くの情報を瞬時に掴み取りながら、時に風が重たいとか軽いといった科学的には説明のしようのない概念すら導くことだってある。人間の身体は、それだけ優れた自然の観察者であり翻訳者なのだ。
説明可能性とそれを支える情報という構図は、実は自然相手に限った話ではなく、今やあらゆる領域を覆い尽くしつつある。建築の性能評価もそうだし、SDGsの取り組みも、さらにはプロポーザルや建築そのものの評価すら、これまで言語化されてきた情報の蓄積によって、雁字搦めになっている。それは何とも息苦しい世界ではないか。
だからこそ、すでに明らかになった情報によって建築を組み立てるのではなく、むしろそこから溢れ落ちた不確かなものや、身体が感知する複雑に絡み合った自然界の事象をそのまま受け止め、むしろ設計を通じてその一端を炙り出すこと、そこにこそ目を向けたいと僕は感じている。そのためにも自然を模倣するとか寄り添うといった、わかりやすい振る舞いで建築を語るのではなく、あくまでも「道具」としての建築を研ぎ澄ますことに可能性を見出したいと思う。それは、この説明可能性から逃れたいからだ。
|ごあいさつ
2023年度4期の建築・都市時評「驟雨異論」を予定通り配信することができました。 4期を担ってくださった小野田泰明、中島直人、寺田真理子の三氏に厚く御礼申し上げます。ご苦労様でした。 建築・都市を巡る状況は、平穏なものではありません。 民間資本による都市再開発の乱立と暴走、建築建設資材の高騰化と慢性的な人手不足、無策なまま進行する社会の高齢化と縮小化と格差化、気候変動と「with・コロナ」そしてオーバーツーリズムの波etc、克服が容易でない大きな課題が山積状態にあり、今こそもっと建築・都市へ「ここがオカシイ」と声を上げなければなりません。批評の重要さが増している。 その上からも「驟雨異論」の役割は、貴重になります。ここから声を上げてゆきましょう。 2024年度5期では 貝島桃代、難波和彦、山道拓人、各氏のレビューが登場します。 乞うご期待ください。
2024/04/18
真壁智治(雨のみちデザイン 企画・監修)
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