建築時評コラム 
 連載|にわか雨の如く、建築に異議を申し立てる時評 

その不意さ加減の面白さ、深刻さを建築の時評に。建築のここが変だ、ここがオカシイ、建築に声を上げる「驟雨異論」。 にわか雨が上がるのか、豪雨になるのか!?


photo=Wu Chia-Jung
千葉 学(ちば・まなぶ)

 
1960年東京都生まれ。1985年東京大学工学部建築学科卒業。1987年東京大学大学院工学系研究科建築学専攻修了。1987-1993年日本設計。1993-1996年東京大学工学部建築学科キャンパス計画室助手。1993-2001年ファクターエヌアソシエイツ共同主宰。1998-2001年東京大学工学部建築学科安藤研究室助手。2001年千葉学建築計画事務所設立。2001-2013年東京大学大学院工学系研究科建築学専攻准教授。2009-2010年スイス連邦工科大学客員教授。2013年東京大学大学院工学系研究科建築学専攻教授。2016年東京大学副学長。
 
URL:千葉学建築計画事務所

MANABU CHIBA #4     2023.2.17

 

最適化問題と「道具」

 
 最後の回になった。改めて「道具」について、自転車を通じて深掘りしていくことに、少しだけお付き合い頂きたい。
 

 

自転車の形態の変遷

 
 自転車が発明されたのは、もう200年近くも前のことだと言われている。この200年の間に自転車は、技術革新によって驚くほどに進化したが、その進化の過程で自転車がスポーツとしての地位を確立したことの影響は大きい。変速機やドロップハンドルの発明など、現在では当たり前となっている機構は、レースにおいて少しでも速く、力を温存しながら走りたいという選手の欲望から生まれたものだ。中でも自転車のフレームは、選手の力を無駄なく推進力に変えるための「強さ」と、重力に逆らって上る坂道でも有利に走れるよう「軽さ」が求められたのだ。そのためフレームは、初期にはスチール製だったが、後により軽量なアルミが導入され、近年ではカーボンが、その一つの到達点を見せている。
 
 このフレームの進化は、技術と形態、さらには人間の身体と道具という観点で見ると、実に興味深い。例えばスチールの時代のフレームは、基本的にはどれも同じような形態をしていたために(すでに完成度が高かったからだが)、「強さ」と「軽さ」の両立のために、パイプの径や肉厚の選択が要となっていた。加えて性能に深く関わる各パイプ相互の角度や長さ(ジオメトリーと呼ばれる)は、単なる強さや軽さだけではなく、自転車の挙動や用途に応じた性能、乗り味を決める重要なファクターだったのだ。いずれにしても、この数少ないパラメータのコントロールを各メーカーが競い、それを熟練した溶接工が支えていたのだ。
 
 アルミの時代も基本的な考え方や技術に変化はないが、アルミの軽さが武器になった一方、スチールに比べて「しなやかさ」がないことが選手の疲れを増幅させたり、また「へたり」が早かったこともあって、アルミの時代はそれほど長くは続かなかった。
 
 そしてカーボンの時代になって、世界は一変してしまったのだ。カーボンは、軽量でありながらも強靭で、しかもスチールからアルミへの移行過程で失われた「しなやかさ」も生み出すことができたから、夢のような素材だと受け入れられたのだ。各メーカーは、「軽量かつ強靭なフレーム」を謳い文句に一気にカーボンの時代へと突入した。しかしながらこの素材変革は、金属パイプの溶接から、カーボン繊維の積層/接着への変化をも意味したから、それまでのフレームづくりの根幹を支えていた溶接技術/職人を駆逐し、金型開発という大型設備投資が可能な企業(つまりイタリアやフランスの工房から台湾の大型工場)へと産業構造を塗り替えてしまったのだ。加えてどのようなパイプの断面形状も肉厚も製作可能な技術は、スチールの時代に比してデザイン上のパラメータの数を激増させ、軽量でありながら強靭なフレームや、強靭でありながらもしなやかさを併せ持ったフレームなど、フレーム形状/性能の関係性を、永遠に答えの出ない無限ループの世界へと推移させたのだ。どういうことか。
 
 初期のカーボンフレームは、スチールフレームのパイプをカーボンに置き換えたものだったから、アルミに比して軽く、スチールのようなしなやかさも併せ持つ乗り味は、素材の変革をわかりやすく体感できるものだった。しかしカーボンフレームは、素材固有の製造方法、つまり金型の上に繊維を重ねて接着する技法の強みを最大限に活かす方向へと進化したのだ。つまり形状も断面も肉厚も、自由にコントロールすることを追求し始めた。言い換えれば、強さや軽さやしなやかさを、選手の力量や個性、レースのコースや用途に応じて最適な形状、断面に変えていく、いわゆる「最適化」が一つの目標になったのである。
 
 この「最適化」の動きは、すぐにフレーム形状の変化に現れることになる。いかようにでも作ることができる技術は、大きく湾曲したフレームや、パイプ自体がふにゃふにゃしたものまでも生み出し、まるで造形を競うような多彩な形態のフレームがデザインされることになったのである。まさに「マニエリスム」である。多くのユーザーは、従来のフレームとは異なる乗り味に興奮し、そして毎年のように繰り返される「画期的に進化したフレーム誕生」という謳い文句に賛美の声を送ったのだ。しかしながらこのマニエリスムは思いのほか早く収束してしまった。そして昨今ではフレームの形状はどれも、スチールの時代とは異なるが、各メーカーの差異がわからないほどに普遍的な形式に収束しつつある。
 

「最適化」という目標設定

 
 この短い期間に展開した形態上の変遷をどう捉えたらよいだろう。
 
 その根っ子には、自転車という「道具」が、人間の身体を動力にしているという当たり前の事実にあると僕は考えている。つまり人間の身体がそこに絡まり合う限り、「最適化」という目標の立て方自体が成り立たないということだ。
 
 例えば理屈で言えば、フレームの剛性は高ければ高いほど人間の力は推進力に置き換わり、速く走れるはずである。だが現実には、そんな剛性の高いフレームに乗ったら、人間の体はすぐに疲れてしまい、走れなくなってしまう。疲れない程度にしなやかな方がいいのだ。人間の体は機械ではないから、足が完璧な円運動をするはずもない。適度にフレームがしなって回転運動の誤差を許容してくれる方が、人間の体への負担は軽減され、結果的に長い時間、速く走ることができるのだ。
 
 あるいは理屈で言えば、上り坂のためには、限りなく軽量なフレームの方が有利なはずだ。しかし現実には、紙のように軽いフレームに乗れば、重心のバランスは崩れ、風の影響も強く受け、おそらくフラつく自転車のバランスを取ることにエネルギーが削がれて速く上ることはできないだろう。
 
 そしてもちろん人間は、一人一人が異なる肉体、異なる体力、異なる動きを持っているわけだし、その日の体調もまちまちだ。さらに言えば、道路の凸凹から伝わる振動も、人間の疲労に大きく影響する。だから路面状態をどのくらいいなしてくれるのかというパラメータも重要になる。こう考えてくると、速く走れる自転車に必要な性能とは何かを一義的に決めることなど、そもそもできるはずがない。人間の肉体やメンタルという、そう簡単に測れない動力が自然を相手にする時に介在するパラメータは無数にあるわけだから、最適化という目標設定自体に無理があるのだ。
 

建築のクリティカリティと「最適化」

 
 しかしながら、「最適化」という言葉の魔力に多くの人は囚われているようだ。これは自転車に限らず、建築の分野においても同様だろう。昨今の学生の提案を見ていると、そこかしこで最適化こそが正義だと言わんばかりのプレゼンが続く。確かに福岡伸一さんの「動的平衡」、あるいはジル・クレマン「動いている庭」で語られている世界、つまりあらゆるものが動的平衡に向かうという指摘は、近年でもっとも重要な指摘の一つだろう。世界は全て動いている。その動いた状態で維持される平衡状態こそが生命の原理であり、世界の秩序だということだ。そこに僕は深く共感している。「How is life? 」展において提案したバイシクル・アーバニズムの根底にあるのも、この動的平衡だ。都市を静的なものではなく動いているものと捉え、新しいモビリティ(新しい生命体に準えているが)の出現によって、都市が新しい平衡状態に向かう、そのありようを探ることを設計と捉えたわけだ。だから最適化を否定はしない。むしろ都市や生命体においては、最終ゴールを目指すマスタープラン的な思考よりも、最適化に向かう運動体として設計を捉えるべきだと思っている。しかしながら、建築は動かない。いや部分的には動くし、長い時間の中では変わり続けるが、この動かない建築に最適化というモデルを適用することの是非を、今一度冷静に考えてみる必要があるのではないか。
 
 かつて槇文彦は、建築はクリティカリティが低いからこそ長い年月にわたって多様に変化する社会や生活を受容し、文化の受け皿になってきたという主旨のことを書いていた。つまり、窓一つが壊れたとしても建物全体は崩壊せず、また特定の用途のために作られた建築でも、他の目的にも使えたりする、そんな冗長性こそが建築の強みであるということだ。確かに電化製品は、その用途以外には使えないし、パソコンは、チップが一つ壊れただけで機能しなくなってしまう。このような指摘は、特に近年の建築のあり方に対する批評としても、今なお有効だろう。一つ一つのパラメータを精査し、それを積み上げていく、あるいは最適化に向かうような建築の作り方は、クリティカリティを高めるばかりだ。数多くの制度にも後押しされて建築の設計現場を覆い始めているこの動きは、僕たちが向かうべき方向だろうか。
 

道具としての建築へ

 
 建築の設計における最適化と自転車フレームのデザインのそれとを一緒くたにはできないが、自転車の世界においては、考えさせられる現象もいくつか顕在化してきている。カーボンフレームの時代になって、レースの平均速度は上がったと言う。選手がかつてより速く走れるようになったのは、まさにカーボンの恩恵だろう。しかし一方で、体の故障や落車事故がスチールの時代に比べて増えているとも聞く。原因は様々なことが絡み合っているからそう簡単に断じることはできないが、しかしその一因に最適化に向かった道具のありようが影響しているのではないかと僕は感じている。
 
 先にも書いたように、そもそも複雑で気まぐれな人間が使う道具を、数少ないパラメータだけで最適化できるはずもないし、また一方で、仮にいくつかのパラメータで最適化できたとしても、新たなパラメータが発見された途端、それは突如として不自由な道具になってしまうリスクも抱えている。
 
 以前このエッセイで、良い道具と人間との関係性は、双方向性にあると書いた。道具を使うことを通じて、人間の身体も進化していく、その動的な関係性こそが道具の真価であると。この観点で言えば、最適化を極めた道具は、道具を使いこなすことで人間の側が進化していく余地を最小化しているとも言えるのだ。人間の側が工夫をし、使いこなしたり使い倒したりしていく余地が残されているからこそ、選手は道具と一体になって技術に磨きをかけるし、こうして築かれた選手と道具の関係性は、レース上で起きる予期せぬ事象、集団で走るからこそ起きる選手相互の複雑な動きや挙動、あるいは自然から受け取る予想を超えた外力や環境の変化を柔軟に受け止める技術にも繋がっていくはずだ。走るために必要な技術は、ただ走るという行為だけを切り出して語ることはできないのだ。そのためにも道具は、クリティカリティが低い方が良い。そこが、人間が集まって、自然界で生きていくことに道具が介在することの難しさであり、また最大の面白さでもあるのだ。
 
 近年になって、カーボンフレームの形態は、一つの形式に収斂しつつある。それがカーボンという新しい素材が到達した、スチールとは異なる次元の冗長性に繋がるのかどうか、それはまだ判断できない。ただ、スチールのフレームが再び脚光を浴びているという事実もある。それはおそらく単なる懐古趣味ではなく、こうした冗長性に潜在する余地を人間が使いこなしていく過程で進化する人間と道具の一体感が、多くの人の身体に心地よく響き始めているからなのだと僕は思っている。
 
 建築は「道具」たり得ているか、というのがこの4回のエッセイの冒頭に書いた問題意識であった。建築は本来、自然現象を、また都市環境を読み解くための道具として、そして生活を組み立てていくための道具としてあるべきだというのが、僕が伝えたかったことだと思う。数少ないパラメータであたかも環境に呼応したかのような素振りをする建築よりも、まだ見たこともない自然の新たな様相を炙り出す建築の方が、僕にとっては遥かに魅力的だ。それは自然に寄り添うようなものではなく、むしろ自然から際立つ方が良いこともある。生活に必要な性能を事細かに規定して組み立てていく建築よりも、多少の不自由があろうとも、それを使いこなしていく過程で得られる経験が豊かである建築の方に可能性を感じてもいる。こうした道具にも通じる建築のありようは、日々の営みや、自然との関わり合いの解像度を上げ、僕たちの自然への理解も生活の術も、そしていずれは地球環境もよいかたちで更新していってくれるだろう。
 
 もちろんこのような建築を生み出すことは、そう簡単ではないが、カーボンのフレームが経た変遷のように、マニエリスムに陥ることなく次なる普遍的な形式を見つけていく、それを続けていくしかないのだと思う。そしてこの道具と身体、環境との連関を体感するためにも、まずは自転車に跨って自らの身体を都市に放り出してみる、そこから始めてみてはどうか。多くの人におすすめしたい。

|ごあいさつ

 
 2023年度4期の建築・都市時評「驟雨異論」を予定通り配信することができました。 4期を担ってくださった小野田泰明中島直人寺田真理子の三氏に厚く御礼申し上げます。ご苦労様でした。 建築・都市を巡る状況は、平穏なものではありません。 民間資本による都市再開発の乱立と暴走、建築建設資材の高騰化と慢性的な人手不足、無策なまま進行する社会の高齢化と縮小化と格差化、気候変動と「with・コロナ」そしてオーバーツーリズムの波etc、克服が容易でない大きな課題が山積状態にあり、今こそもっと建築・都市へ「ここがオカシイ」と声を上げなければなりません。批評の重要さが増している。 その上からも「驟雨異論」の役割は、貴重になります。ここから声を上げてゆきましょう。 2024年度5期では 貝島桃代難波和彦山道拓人、各氏のレビューが登場します。 乞うご期待ください。
 

2024/04/18

真壁智治(雨のみちデザイン 企画・監修)
 

|Archives

 

驟雨異論|アーカイブはコチラ