連載|にわか雨の如く、建築に異議を申し立てる時評

その不意さ加減の面白さ、深刻さを建築の時評に。建築のここが変だ、ここがオカシイ、建築に声を上げる「驟雨異論」。 にわか雨が上がるのか、豪雨になるのか!?

建築家/東京藝術大学准教授。1976年東京生まれ。2005年よりRFA(藤村龍至建築設計事務所)主宰。2016年より現職。2017年よりアーバンデザインセンター大宮(UDCO)ディレクター。
主な建築作品に「すばる保育園」2018「十津川村災害対策本部拠点施設」2023ほか。主な著書に『批判的工学主義の建築』2014『ちのかたち』2018など。
2000年代半ばより人文社会学系、美術や工学などの隣接分野との交流を踏まえ、理論「批判的工学主義」、設計方法論「超線形設計プロセス論」を掲げ、「日本列島改造論2.0」を発表。近年はそれらの知見を主に公共領域において応用し、公共施設の設計やマネジメントまでを手掛ける「ソーシャル・アーキテクト」としてプロジェクトを展開。
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RFA | RFL | Ryuji Fujimura |
RYUJI FUJIMURA #1 2025.5.20
大阪・関西万博の「あとの」都市・建築の行方
反ミライ都市を捜せ
2025年4月13日、「 EXPO 2025 大阪・関西万博」が開幕した。会場デザインプロデューサーの 藤本壮介氏を始め、多くの建築家が関わっていることもあり、建築界でも話題に事欠かない。
私はこのイベントに設計者としては一切関わりがないが、シンポジウムの開催などをお手伝いしているうちに開幕を迎え、以来6回ほど通った。最初(開幕前)はリングを歩いてパビリオンの外観を眺めなんとなく理解した気になり、開幕後は多少パビリオンを見て「アートと人文が足りない」と感じたりもしたが、やがて会場のあちこちで散見される「ミライ」というカタカナの「未来」像が気になるようになった。
万博が「未来」を展示する、というフォーマットはいつ設定されたのだろうか。SFは1940年代に確立したジャンルだというが、国内では 小松左京(1931-2011)がその潮流の中心人物の一人となり、1970年万博と共振し「 未来学」を立ち上げた。その経緯もあり万博といえば「未来」と了解されている節がある。
確かに各国館を見ると、中国やサウジアラビアなど富裕国のパビリオンでは各国の文化や芸術、歴史的遺産、風光明媚な自然の数々を示した後、スマートシティやモビリティ、エネルギーなどに関わる新しい技術の統合体としての「未来都市」像がクライマックスとして示される。ただ、サウジアラビアの砂漠に建設されるという約170km超の新都市建設プロジェクト「 THE LINE」は映像を駆使して印象的なプレゼンテーションであったが、現実には資金難で苦戦しているという報道もある。
大半の先進国はドイツ館などに代表されるように「アップサイクル」や「サーキュラーエコノミー」など、持続可能性に関わる技術の展示を行なう国が多く、伝統技術を見直すことを「懐かしい未来」などと読み直して未来像だとする展示が多い。世界最大の木造建築物としてギネス認定された「 大屋根リング」は、プリミティブ(原初的な)「フューチャー(未来)」を掲げる藤本さんらしい作品であり、「懐かしい未来」のコンセプトを体現した建築であるが、会期終了後の利用方法が未定のまま建設された経緯もあり、現在のところ日本の伝統を示すとして好意的に受け取られているが、会期後の利用方法次第では各国の評価は大いに変わるのかもしれない。
さらに協会が用意したコモンズ館で各国がブース展示を行う「タイプC」となると、大半が観光案内所ないしは土産物屋のような構えとなって「未来」について語られることはなく、旅行気分というよりはグローバルな経済格差という現実のほうを味わう。
かように万博会場で見る「未来」都市像はぼやけたままなのだが、何度か通ううち、ここで「万博に未来はない」と断言するのはやや気が早いと思い直すようになった。代わりにカタカナの「ミライ」が会場のあちこちに散見されることに気がついたからである。
例えば「25年後の自分と一緒にミライを旅しよう」のヘルスケアパビリオン。「リボーン体験ルート」では7項目の健康データ(心血管、筋骨格、髪、肌、歯、目、脳)をもとに作成された25年後の自分(アバター)と出会う。つまりここでは健康診断の結果予測される将来の個人の身体を「未来」と呼んでいる。
ここまできて、この万博では従来の最新技術を社会から等しく与えられる「未来」と区別して、高度な技術の束を個人が自らの見識や能力(主に経済力であろう)、身体の状況に応じて自己の責任で選択する「ミライ」が提示されていることに気が付く。社会の未来ではなく、個人(セカイ)のミライだったのである*1。
生命技術の可能性とともに個々の生き方をさらに情景的に問うのがロボット工学の第一人者・ 石黒浩のシグネチャーパビリオン「 石黒館」である。ここでは個々の人間が生き方の選択を重ねた先にアンドロイドと共生する「ミライ」の日常生活が描かれる。
この状況を掴み、ようやく「 いのち輝く未来社会のデザイン」なるテーマの違和感の正体を理解できるようになった。正確には「いのち輝くミライ社会のデザイン」なのである。そのようにみると、シグネチャーパビリオンのなかでこの「ミライ」の核心に最も触れているのは建築的には最も凡庸に見える石黒館なのであった。石黒館のラストに掲げられたプロデューサーのマニフェスト「人は自ら未来をデザインし、生きたいいのちを生きられる」は、展示を見た後でとても説得力があった。今回の万博では今のところこれ以上のマニフェストを思い出せないほどである。
次の時代をデザインするアーキテクトはここから何を持ち帰るか。人々が「生きたいいのちを生き」た都市の像を 黒川紀章(1934–2007)ならユートピア、 磯崎新(1931–2022)ならディストピアとして描き、それぞれ「ミライ都市」だというのかもしれない。だが我々は本当に個々の内省に閉じこもっていていいのかという疑問が湧き上がってくる。そして議論は2000年代のセカイ系をめぐるそれに戻るのであった。
磯崎は2010年代の論考でポスト大都市の都市像を「 超都市 Hyper Village」と呼んで、2020年にそのモードの切り替わりが来ると予言した*2。磯崎の予言通り新型コロナウイルスが世界を覆った後、本人は2022年の暮れに亡くなってしまったが、小さな村がネットワークするという都市像は、人々が「生きたいいのちを生きられる」都市でなお社会や公共という中間項を描こうとするアーキテクトの葛藤を暗示していると読むことはできないだろうか。
本連載では万博の「あとの」社会の行く末を論じることで、建築家と都市の行く末を見極めようと思う。ひとまず磯崎流に「 超都市=反ミライ都市」と名付け、そこに新しい建築家の姿を捜すことにしたい。

超都市=反ミライ都市を捜すプロジェクト「孵化過程のもどき」。2025年5月17日、東京藝術大学藤村研究室で行われたパフォーマンス(写真提供=東京藝術大学藤村研究室)
*1 セカイ系:1990年代後半から2000年代に日本で対象化された作品の類型。「世界の終わりと恋人」というような「世界の危機」「破滅」というような終末論と「きみ」と「ぼく」と呼び合うような親密な対話相手が、社会や国家などの中間項を介さずに直接結びつく物語の構成が共通の特徴として挙げられる。主人公の内省的な一人語りが話題となった1995年に公開された庵野秀明監督のアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』などはその端緒として挙げられる。
*2 超都市:磯崎新が描く21世紀の新しい都市類型。19世紀の官僚機構の成立によって計画された「都市」、20世紀の民間不動産事業の勃興にともなって成立した「大都市」に続く形だと説明されている。磯崎新『磯崎新建築論集 第6巻 ユートピアはどこへ―社会的制度としての建築家 』2013, 岩波書店に詳しく紹介されている。
|ごあいさつ
2024年度 5期「驟雨異論」も無事予定通り配信することが出来ました。レビューする力を示した貝島桃代、難波和彦、山道拓人の各三氏には熱く御礼申し上げます。昨年は、ポストモダニズムを切り拓いてきた建築のイデオローグが相次いで亡くなりました。一つの時代の終焉を象徴的に示すものではありますが、時代は益々「困難な合体(Difficult Whole)」(R・ベンチュリー)の度を増し、建築の危機を色濃く映し出しています。この事態に立ち向かうにはむしろ硬直したイデオロギーにとらわれることのない自在な発想と、そこに生まれる共感こそが強く求められるのではないでしょうか。レビューの場を通して少しでも声を上げていきましょう。2025年度6期「驟雨異論」は樫村芙美、藤村龍至、藤原徹平の各三氏が一年間を順繰りにレビューを展開してゆきます。ご期待ください。
2025/04/10
真壁智治(雨のみちデザイン 企画・監修)
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