建築時評コラム 
 連載|にわか雨の如く、建築に異議を申し立てる時評 

その不意さ加減の面白さ、深刻さを建築の時評に。建築のここが変だ、ここがオカシイ、建築に声を上げる「驟雨異論」。 にわか雨が上がるのか、豪雨になるのか!?


藤原徹平(ふじわら・てっぺい)

 
建築家/横浜国立大学大学院Y-GSA准教授。1975年生まれ。横浜出身。横浜国立大学大学院卒業後、隈研吾建築都市設計事務所にて世界の多様な都市でのプロジェクトを設計チーフ・パートナーアーキテクトとして経験。2009年よりフジワラテッペイアーキテクツラボを主宰。これからの地域社会を支える建築の可能性を探求し続けている。一般社団法人ドリフターズ・インターナショナル理事。
 
主な建築作品として、《京都市立芸術大学》(2023)、《東郷の杜 東郷記念館》(2022)、《チドリテラス》(2022)、《泉大津市立図書館シープラ》(2021)、《クルックフィールズ》(2019)、《那須塩原市まちなか交流センターくるる》(2019)など。 主な受賞として、横浜文化賞文化・芸術奨励賞、JIA新人賞、東京建築賞共同住宅部門最優秀賞など。
 
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FUJIWALABO

TEPPEI FUJIWARA #3     2025.12.20

未来のかたちを考える

状況の構築考

 
 家と事務所は歩いて数分の距離にあるのだが、その途中に小さなキオスクカフェがある。コーヒーとパニーニやサンドイッチが美味しい。私はよく夜遅くにその店の前を通りがかる。ああ今日も夜のコーヒーを買って帰れなかったなと残念に思いながら目線を店内に向けると、寡黙な店主が翌日の仕込みをしていて、ちらりと目が合ってお互いに目礼をする。こうした瞬間に、良い街だなと感じる。
 
 良い建築をつくることで、良い街ができるのだろうか。
 
 そんな疑問が湧いてくる時がある。もしシチュアシオニストたちにその問いを発したならば、否と即答されることだろう。シチュアシオニストたちが建築の代わりに、都市創造の単位とすべきとしたものは「状況」という概念である。状況とは何か。私は「スペクタクルに抵抗する、異物として社会のなかに能動的に構築された時空間」と解釈している。
 
 都市は建築や空間から成るのではなく、時空間からできていると言われれば、直観的にああなるほどという感じがある。確かに都市という存在は、モノや空間だけではなく、そこを舞台に起きる無数の出来事といった事象が記憶に残る。
 
 記憶には残るが一方で、時空間とは捉えたり加工したりというようなことがしがたい存在である。例えば、都市を映像に写し取ってみようと試みる。試みて驚くのは、映像からはほとんど都市の実像が消失してしまうことだ。まず映像には重さや量が写り込まない。勾配や遠近といった長さの感覚もどこかおかしい。匂いや音などその場所の時空間を構成するものも扱いがたい。モノたちとそこに流れるあるいは流れていた時間が複雑に融合・関係した塊として都市は在る。
 

“スペクタクルとは、イメージと化すまでに蓄積の度を増した資本である“
(ギー・ドゥボール『スペクタクルの社会』テーゼ34)

 

自分を取り巻くすべてのものを変形する社会は、その任務全体の具体的基盤である自らの領土そのものに働きかけるための特殊な技術を作り上げた。都市開発は、そうした資本主義による自然的・人間的環境の占有である。論理的に、絶対的な支配にいたるまで発展することをやめないこの資本主義は、いまや空間全体を自分自身の舞台装置として作り直すことが可能であるし、またそうせざるを得ないのである。
(同上 テーゼ169)

 
 シチュアシオニストは批判精神の塊のような存在で、テキストを読んでいると全方位に批判が展開していくが、彼らの最大の攻撃対象は、スペクタクルである。刮目すべき点は、スペクタクルを資本そのものの変容体と捉えた点だろう。そして、都市開発を、資本主義による人間環境・自然環境の占有であるとする点も建築家や都市計画家には厳しい指摘だ。
 
 彼らが批判する都市開発とは、古くはオースマンによる19世紀のパリの大改造から始まり、ル・コルビュジエ輝く都市CIAM(近代建築国際会議)の近代都市計画。ゾーニングや固定的な生活様式を批判しているという観点から言えば、E・ハワード田園都市計画も含めた、近世・近代の都市開発全般に対して否定的である。概ね批判ばかりのシチュアシオニストであるが逆に珍しく評価する対象としては、社会思想家のシャルル・フーリエがある。
 
 ここで都市創造の戦術として<状況の構築>の理解を深めるために、コンスタント・ニーヴェンホイスというシチュアシオニストに所属した建築家がドゥボールと対立した事件から考察を進めてみる。コンスタントはニューバビロンという架空の都市像をユートピアとして描いた。
 

左:Constant: New Babylon
右:Society of the Spectacle

 

ニューバビロンは、複数の像で示されるが例えば巨大家具と産業機械の合成物という感じの装置的で埋め尽くされた立体都市の姿をしていて、この都市の市民は遊牧民的に環境を改変しながら住まうというように説明される。<状況の構築>理論が重視したのは、都市に住む人々の漂流が引き起こされること、場の意味や価値の転倒が繰り返されていくことであり、それらの能動的なふるまいを引き起こすものを、彼らはしばしば「生の舞台装置(デコール)」という言葉を使って説明をした。その点からするとコンスタントのドローイングはまさに「生の舞台装置(デコール)」であるようにも見える。しかし、ここで問題になったのは、まさに「舞台装置に見える」という点であった。空間を可変するシステムや装置的な様式で都市全部を覆いつくすような単純な姿を、ドゥボールはコンストタントの技術至上主義と作品主義であるとして激しく批判し、コンスタントは運動から離脱していく。
 
 <状況の構築>が引き起こすべきは、人々の「時間の中でのまとまった行動」や「身振り」とされるが、しかし忘れてはならないのはスペクタクルへの抵抗となるような「異物」であることだ。スペクタクルになることを避けるためには、単一のイメージではないことが重要であり、複数あるいは多数のイメージが同居する存在であるか、あるいは複数のイメージとして認識される存在であることが、重要である。
 
 ここで、単一の系(システム)が多イメージを引き起こすことが技術至上主義というドゥボールの指摘はなるほどと首肯するところがある。可変性による多イメージ、単一技法による多イメージは、漂流という脱コンテクストを自然に引き起こすような複雑な存在にはならないというダメ出しなのだろう。
 
 複数の系が多イメージを生成するような構造を構築することを考えていくと、結局のところ、複数の時間性が同居していくことが欠かせないのではないかと思う。それはつまり

  • 昼の時間/夜の時間
  • 無機物の時間/有機物の時間
  • 人間の時間/他の生命の時間
  • 人の一生の時間尺度/地質学的な時間尺度
  • 土木的な構築の時間/文学的な構築の時間
  • 大資本の時間性/小資本の時間性
  • 同じ場所の複数の季節におきるそれぞれの時間


というような複数の時間存在を列挙してその時間ごとに応答する存在をつぶさに観察することがまず重要になる。

 
 そしてその存在物に応答するアーキテクチャーをどう刺激するのか、あるいは生み出すのか。その多様な手つきの存在と重なりが、時空間というパレットを操る上で重要になる。
 
 シチュアシオニストが言うように、光や匂いや音や植物といった場所の雰囲気、人々の振る舞いにどう働きかけるか。あるいはつくった建築に対して、どうやって複数の時間性を生成させるのか。先行する形態への観察だけでなく創造に遅行するような形態生成をどう生み出すのか。そうした創造的な視点こそが「生きた舞台装置」を生み出す駆動力であり、状況という都市の部分を生み出す行為になっていく。

 
 私が仕事でもやもやしていることに気づいた妻に誘われて、一緒に夜の散歩をすることがある。なるべく静かな通りを選び、ゆっくりと会話を交わしながら歩く。目的地を決めたりはしない、しかしまあ無理した歩行ではない、いたって穏やかな漂流なのだが、気づいたら二人の好きな神社にたどり着いていた。参道を進んでいくと、もうすでに初詣用の茅で編んだ大きな輪がしつらえてあった。夜の住んだ空気を吸い込みながら富士塚の脇に座って話しこんでいたら、すっかり気分が落ち着いていく。富士塚というのは、富士山の溶岩という物質を何百キロと移動させ、鎮座した縮景ランドスケープである。そこを巡ることで富士山巡礼の代替的な人々の行為を生んだという意味では、まさに<状況の構築>である。しかし、大衆の熱狂を生んだのだとしたら、それは江戸時代のスペクタクルであるのかもしれない。忘れられた時代のスペクタクルの遺物が、多時間の尺度の中で、スペクタクルに抵抗する状況の構築を引き起こす異物となる。たまたま富士山のふもとの森でプロジェクトが始まったタイミングで、私が富士塚のふもとに座るということも、一つの時空間に対する構築になっているのかもしれない。

|ごあいさつ

 
2024年度 5期「驟雨異論」も無事予定通り配信することが出来ました。レビューする力を示した貝島桃代、難波和彦、山道拓人の各三氏には熱く御礼申し上げます。昨年は、ポストモダニズムを切り拓いてきた建築のイデオローグが相次いで亡くなりました。一つの時代の終焉を象徴的に示すものではありますが、時代は益々「困難な全体(Difficult Whole)」(R・ベンチュリー)の度を増し、建築の危機を色濃く映し出しています。この事態に立ち向かうにはむしろ硬直したイデオロギーにとらわれることのない自在な発想と、そこに生まれる共感こそが強く求められるのではないでしょうか。レビューの場を通して少しでも声を上げていきましょう。2025年度6期「驟雨異論」は樫村芙実藤村龍至藤原徹平の各三氏が一年間を順繰りにレビューを展開してゆきます。ご期待ください。
 

2025/04/10

真壁智治(雨のみちデザイン 企画・監修)
 

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