連載|にわか雨の如く、建築に異議を申し立てる時評
その不意さ加減の面白さ、深刻さを建築の時評に。建築のここが変だ、ここがオカシイ、建築に声を上げる「驟雨異論」。 にわか雨が上がるのか、豪雨になるのか!?
建築家/横浜国立大学大学院Y-GSA准教授。1975年生まれ。横浜出身。横浜国立大学大学院卒業後、隈研吾建築都市設計事務所にて世界の多様な都市でのプロジェクトを設計チーフ・パートナーアーキテクトとして経験。2009年よりフジワラテッペイアーキテクツラボを主宰。これからの地域社会を支える建築の可能性を探求し続けている。一般社団法人ドリフターズ・インターナショナル理事。
主な建築作品として、《京都市立芸術大学》(2023)、《東郷の杜 東郷記念館》(2022)、《チドリテラス》(2022)、《泉大津市立図書館シープラ》(2021)、《クルックフィールズ》(2019)、《那須塩原市まちなか交流センターくるる》(2019)など。 主な受賞として、横浜文化賞文化・芸術奨励賞、JIA新人賞、東京建築賞共同住宅部門最優秀賞など。
URL
FUJIWALABO
TEPPEI FUJIWARA #4 2026.3.20
未来のかたちを考える
迷宮考
シチュアシオニストの影響を最も受けた建築家としてベルナール・チュミが挙げられる。チュミの代表作であるパリの『ラ・ヴィレット公園』では、公園を構成するいくつものシステムが重ねあわされ、その交点に無数のフォリーが配置される。一つひとつのフォリーは偶発的な活動を促すためにユニークな造形をしている。が、実際に訪れてみると計画的な印象が先立ち、「出来事」も「漂流」もここから起きる感じがしない。むしろ歩行が強要されるような感覚 がある。私にはチュミもコンスタントと同様に、物理的な空間錯綜性、物理的な迷宮にこだわりすぎているように感じられた。
ラ‧ヴィレット公園のフォーリー(photo = trevor.patt)
シチュアシオニストが説く迷宮性とは、本質的には、認識の中に立ち現れるようなものであるはずである。例えば、ここに校門がなく街区の道がそのまま構内にも校舎内にも するすると連続して歩いていけるよう な建築があったとする。その場合、街をぼんやり散歩していると、ふいに学校に紛れ込 んでいて、子どもたちが学んだり遊ぶ場面に巻き込まれる 。そのような歩行体験 は受動と能動とも言えず 「漂流」を引き起こす 確率は高まる だろう。
何がポイントになるのか。まず内外の境界があいまいであることが重要そうだ。 学校でもあり道でもあるという重合状態でもよいかもしれない。偶然迷いこんでいくためには、学校の空間も階層性に混乱が必要だ。廊下と部屋というような階層が無い複雑なワンルームだったり、あるいは階層が転倒していることも効果があるだろう。都市での歩行体験と建築での歩行体験、これら相互が非階層的かつ連続的であり、かつある種の混乱が生じることによって、経験のかたまりが多重になっている状況を 、体験的迷宮と呼べるのではないか、と私は考えた。
体験的迷宮の特徴としては、物理空間としての複雑性や錯綜性 は優先されない。 むしろ重視されるのは、経路の選択性やあいまいな領域性である。経路の選択性を高めていくうえで重要なのは、都市と接続する出入口が複数あること (複数の入口) や、そもそも出入口と感じないような体験の連続性 (境界の不明瞭さ) がある点だ。さらに詳しく検討していくと、経路の交差する交差点の質や経路自体に体験の幅がどれくらいあるのかということも重要になる。
私が育った街に「ななさろ」と子供たちに呼ばれていた、絶妙な角度で7つに枝分かれした交差点があった。子供たちにとっては最高の迷路的体験の始点となっていて、今日はどの方向に自転車を向かわせるのか、毎日ワクワクしていた。 そこで感じていた 交差点の質とは、合流する経路の合流のしかた、経路そのもののキャラクターの偏差とそのバランスだ。
例えばキャラクターとは、並木道であるとか商店街であるとか、かつて海岸に下る道であったとか、神社の参道であるとか、水路を埋め立てたへびのようにニョロニョロした暗渠道、のようなことを指すが、考えてみると機能や来歴など色々なことが道のキャラクター化につながる。ごみ収集をする裏道とか、裏山につながるヤブ道のように行為の積み重ねからもキャラクターが生成される。道は活動を運ぶ動脈であり静脈であり、それらがどう出会いどう混じりあうか、それが体験的迷宮にとって重要な問題となる。建築はそのための一つの要素でしかないのだが、場面間をつなぐ構造もアーキテクチャーと呼ぶならば、その全体を考える建築という行為もあるのかもしれない。
Mary Griggs Burke Collection, Gift of the Mary and Jackson Burke Foundation, 2015
あいまいな領域性と活動を考えるにあたって、洛中洛外図屏風という一つの絵画をとりあげてみたい。洛中洛外図屏風は16世紀ごろの京都の様子を独特の俯瞰視点で描いた屏風絵である。 四季の風景、祇園祭などの年中行事、天皇の内裏、公家の家、武士の屋敷、町人の長屋など、身分を問わず生活が大きな屏風絵として細緻かつダイナミックに描かれている 。
私はこの絵を最初に観たときから強く魅せられてきたが、シチュアシオニストについて考える中で、さらに違う視点から見れるようになった。まず注目したいのは、四季や多場面を同時に描く時間性の表現の独創という点だ。異時同図というのはキュビズム(立体派)が基底に置いた思想であるが、キュビズムが一つのオブジェクトを存在論にとらえる上でその手法に到達したのに比べ、洛中洛外図は京都という都市の状況を描くためのものとして自然な形で異時同図の表現になっている。
次に、身分の差なく都市の生活を描いているという姿勢にも惹かれる。シチュアシオニスト的視点に立てば、これはひとつの反スペクタクルの姿勢とも言えるだろう。また、建築という構造物以上に、その場でおきているイベントや活動の描写が重視されていることも面白い。よく見ると建築の外観は省略され、「室内風景 = インテリア」の活動が都市的な広がりの中で描いた、イマジナリーインテリアアーバンスケープとしてのドローイングとなっている。
すべてが焦点ないようなあるいは全てに焦点があるような、フラットかつ俯瞰的視点で描かれ、アンチクライマックスとも言えるし、すべてがクライマックスである群像劇のようでもある。そして、このことを可能にしているのは、画面全体を大胆におおいつくす雲の存在である。雲に隠されることで、道と建築の関係というような物理的な構造はあいまいに描写され、活動の様相のみに焦点があたっている。この雲は、背景であり前景であり、むしろ絵画においては主構造であるとも言える。
ギィ・ドゥボールの説明から引用すれば、状況とは「ある単位時間における空間と行為が特定の雰囲気のまとまりとして認識できるもの」と定義される。つまり、演劇や映画における「場面」や「局面」とも言えるものであり、私たちがいかに暮らしの中での「場面」を重視し、それを編み上げたものとして都市を再統合できるのかということが課題になるわけだが、私には、この絵画にある、雲の模様にまとめられたような柔らかく感覚的な全体のまとまりに大きな可能性を感じ続けている。
(写真提供 = 著者)
パリのモンパルナス墓地の近く、巨大なガラスのスクリーンが、都市の中にスッと屹立している姿が立ち現れた。私がそこを訪れた時にはたしか夕方で、太陽がガラスに反射してそれは美しい風景だった。空中に浮遊するオフィスの中ではたくさんの働いている人が見える。車が音もなくガラスの隙間に入りこんでいきエレベーターで地下に降りていく。低層部のギャラリーらしき空間には大きなアートオブジェクトが並んでおかれていて、その様子が透けて見える。目を凝らせば、その先には深い森のような緑がさらに見えてくる。巨木が立ち並ぶ森はきっと古くからパリにある自然の一部なのだろうか。反射と透過、森と人工物、過去と未来とが入り混じった中で人が蠢いている。
街を一日中歩き回っても、かつて学生たちが石を道からひきはがし、バリケードを積み上げたその姿はまったく想像もできなかった。しかし、ガラスの巨大な板が街路樹に混じってすっと立ち、森を透かしているその在り様によって、私の身体は路上にあったままどこか非現実の世界に飛ばされたような感じになった。体験的な迷宮とも違う、なにかもっと俯瞰的な世界に迷い込むような拡がりの感覚を得た。これは一体なんなのか。まだ答えはないがその時の感覚は鮮やかに残る。
私たちは未来の路に何を残すのだろうか。
|ごあいさつ
2024年度 5期「驟雨異論」も無事予定通り配信することが出来ました。レビューする力を示した貝島桃代、難波和彦、山道拓人の各三氏には熱く御礼申し上げます。昨年は、ポストモダニズムを切り拓いてきた建築のイデオローグが相次いで亡くなりました。一つの時代の終焉を象徴的に示すものではありますが、時代は益々「困難な全体(Difficult Whole)」(R・ベンチュリー)の度を増し、建築の危機を色濃く映し出しています。この事態に立ち向かうにはむしろ硬直したイデオロギーにとらわれることのない自在な発想と、そこに生まれる共感こそが強く求められるのではないでしょうか。レビューの場を通して少しでも声を上げていきましょう。2025年度6期「驟雨異論」は樫村芙実、藤村龍至、藤原徹平の各三氏が一年間を順繰りにレビューを展開してゆきます。ご期待ください。
2025/04/10
真壁智治(雨のみちデザイン 企画・監修)
|Archives