建築時評コラム 
 新連載|にわか雨の如く、建築に異議を申し立てる時評 

その不意さ加減の面白さ、深刻さを建築の時評に。建築のここが変だ、ここがオカシイ、建築に声を上げる「驟雨異論」。 にわか雨が上がるのか、豪雨になるのか!?


 
連勇太朗(むらじ・ゆうたろう)

 
1987年生まれ。建築家。特定非営利活動法人モクチン企画代表理事/株式会社@カマタ共同代表/明治大学理工学部建築学科専任講師。2012年慶應義塾大学大学院修了、2015年慶應義塾大学大学院後期博士課程単位取得退学。学生時代にモクチン企画を起業し、現在に至る。主な著書に「モクチンメソッドー都市を変える木賃アパート改修戦略(共著/学芸出版社)ほか。モクチンレシピで、2015年グッドデザイン賞受賞。
 
URL
https://mokuchin-recipe.jp/
https://www.atkamata.jp/

YUTARO MURAJI #3     2021.12.20

建築のクレジット問題 ― 新しい語りの方法を考えよう

 
 先月、オープンしたばかりの 八戸市美術館の共同設計者である 浅子佳英氏が、twitterで記事掲載における設計者名の表記に関して抗議していた。さまざまな立場からコメントや反応があり、その様子をしばらく追っていった。
 

 
 ツイートに対してさまざまなコメントや意見が寄せられているなか、ぽむ企画の 平塚桂氏が浅子氏の問題提起を受け、 「建築を個人の手柄にせず、いかに個人の目線で語れるか」という記事を公開している( https://note.com/pomukatsura/ )。平塚氏は、さまざまな職能が関わり合いながら組織的につくられる建築の実態と、それを個人の仕事として表現したいメディア側の齟齬を指摘しつつ、組織的なプロジェクトを個人の目線から語ることができないか、という問いを投げかけた。また、浅子氏に返答するかたちで 五十嵐太郎氏が SANAAでさえも 20年ほど前はクレジット表記に関して慎重にかつ執拗に対応してきたことを呟いていた。組織的につくられる建築プロジェクトを、特定の個人に代表させ語ろうとするメディアの問題は、ある意味、時代を超え議論されてきたようである。
 
 こうした状況はメディアのその性質からして、程度の差はあれ、個人名によって物語を伝えやすくしたいというメディアの力学が働くので今後簡単に変わるということは考えにくい。だから、設計者側は丁寧かつ執拗に伝えていく努力が必要だろうし、メディア側はプロジェクトに関わったさまざまな主体に対する敬意の気持ちを忘れず、名前が表記されないさまざまな人々に対する想像力を働かせてほしいと思う。また、違和感を表現しづらい空気がある今の時代のなかで、浅子氏が抗議したことには敬意を表したい。
 
 この問題自体は、各メディアの記事執筆ルールや慣習の問題なので、このコラムでどうのこうの書くつもりはない。記事を執筆する側は、クレジットに関して丁寧に扱うべきだということに尽きる。設計者に敬意があれば、少なくともあのような見出しにはならないはずだ。
 
 ここでは浅子氏の投げかけを受けつつ、少し別の視点からクレジットの問題について考えてみたい。多様なプレーヤーが含まれるプロジェクトをどう語るのか、という問題について。
 
 
 近年、建築においてもグループによる創作が増えてきている。共同設計や JVによるプロジェクトはもちろんのこと、異なる水準では、アートやまちづくりの文脈を含みこむかたちでコレクティブやコミュニティによる集団創作のさまざまなバリエーションが展開している。そのなかでも特に注目したいのは、最近の建築プロジェクトには「クライアントが面白い」「運営やソフトが面白い」など、なにをプロジェクトの価値とし、何を我々が魅力と感じるのか、その境目は必ずしも建築物の「設計」の枠内にとどまっているわけではないということである。職能の境界自体も横断的になってきている。設計以外の領域に関わる建築家もいるし、設計プロセスに関わる建築家以外のプレーヤーもいる。複雑化した時代における意欲的な「プロジェクト」は、「建築設計」の領域で完結しなくなってきているということだろう。建築家として個人名が特権的に取り上げられ、それがプロジェクトの本質を表しているという状況は少なくなってきている。意欲的な場や空間は、「設計者」だけでなく、運営、不動産、デザイン、編集など様々な背景を持ったプレーヤーの知恵が結集することで成立するし、少なくとも私個人はそうした複雑性を抱え込んだプロジェクトを面白いと感じる。
 
 数年前のあるイベントで強い違和感を感じることがあった。そこで取り上げられていたのはとある話題の建築プロジェクトであった。設計も完成度が高く学ぶことも多いのだが、場の成立前提として、枠組みそのもの(事業モデルや運営スキーム)が決定的に重要な性質を持っているプロジェクトであった。残念だったのは、当の設計者も、それを評価する他の建築家も、それを「建築家のプロジェクト」として語り続けたことである。場の価値を議論する際に、そこにある枠組みや関わった建築家以外のプレーヤーは後景化し、プロジェクトの主役はあくまで建築家であり、そこに新たな職能モデルやプロジェクトのあり方を見出そうと終始議論が展開された。そこで誰がリスクテイクをしているのか、誰がコミットしていくのか、そうした話がないまま、新たな「公共」「地域」「場」の出現を主張されても、それらすべてが空虚な言葉に感じる。こうした体験は一度ではなく、程度の差はあれ、ここ最近何度かあること。
 
 建築系のメディア、イベント、シンポジウムで語られる、建築家を主人公とした無意識の語りのスタイル。悪意や意図があるわけではなく、前提となる枠組みに対して、単に無自覚なだけの場合が多い。その語りの作法は、プロジェクトの真の価値や課題を隠し、プロジェクトに含まれる様々なプレーヤーを議論から除外することに繋がりかねない。そうした語り方に対して自覚的にならない限り、建築家コミュニティに未来はない。ただ、その語りの作法は簡単に実践できるわけではなく、けっこう難しい。私自身も無意識のうちに「建築家主人公語り」を内面化している一人なので、そうしたことを自覚し、相対化するレッスンを続けている。
 

KOCA(photo = 山内紀人)

 
 東京の最南端である旧蒲田区エリアをクリエイティブな場にするためにつくった 株式会社@カマタは、建築だけでなく不動産やアートを専門にしているプレーヤーによるコレクティブである。出資者は私を含め6人いて、株主の条件が①大田区に拠点か住まいがあること、②プレーヤーであること(株主=プレーヤー)、という独自(謎)のルールを持っている。成果である 梅森プラットフォームKOCAをはじめ、今まで実現してきた様々なプロジェクトをどのように語り発表するのか悩むことが多い。私としては、建築という概念を拡張し、それを実践するつもりでやってきた。しかし一方で、別のメンバーにとっては異なる意図や目的を持って関わっているのであり、その<語り>はあくまで私個人によるもの。メンバー間でも違うし、職能が違えばさらに視点は全く別のものになる。梅森プラットフォームなどのプロジェクトは、 京浜急行電鉄と共にディレクションして行ってきたものであるから、電鉄の開発スキームとして全く別の語り方も可能である。結論としては、様々な語りのスタイルがあっていいと思っているが、そうした状況があることに対して自覚的であるか無自覚的であるかで、選ぶ言葉や表現のニュアンスはだいぶ変わる。言葉の選び方によっては関わった人を傷つける可能性もあるし、プロジェクトの本質を隠してしまうこともある。もっと言えば、プロジェクトの語り方は、名誉や敬意など社会的承認や認知の問題だけではなく、中長期的な経済的影響を与えるものでもある。
 
 領域横断的な枠組みで実践している建築家は、まずはプロジェクトを「建築家のプロジェクト」として語らないこと。「建築のプロジェクト」として語る際にも、それが十分にひらかれた言葉の体系のなかで発言されているのか、一人一人が反省し、自覚的に言葉を選んでいく必要があるのではないだろうか。コレクティブインパクトが必要な時代。プロジェクトの語り方、その作法を改めて考えてみたいと思う。冒頭の話とは異なる大分遠いところまで来てしまったが、クレジットの問題は、こうした問題と地続きである。みなさんはどう考えますか?

|ごあいさつ

 
 2023年度4期の建築・都市時評「驟雨異論」を予定通り配信することができました。 4期を担ってくださった小野田泰明中島直人寺田真理子の三氏に厚く御礼申し上げます。ご苦労様でした。 建築・都市を巡る状況は、平穏なものではありません。 民間資本による都市再開発の乱立と暴走、建築建設資材の高騰化と慢性的な人手不足、無策なまま進行する社会の高齢化と縮小化と格差化、気候変動と「with・コロナ」そしてオーバーツーリズムの波etc、克服が容易でない大きな課題が山積状態にあり、今こそもっと建築・都市へ「ここがオカシイ」と声を上げなければなりません。批評の重要さが増している。 その上からも「驟雨異論」の役割は、貴重になります。ここから声を上げてゆきましょう。 2024年度5期では 貝島桃代難波和彦山道拓人、各氏のレビューが登場します。 乞うご期待ください。
 

2024/04/18

真壁智治(雨のみちデザイン 企画・監修)
 

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