建築時評コラム 
 連載|にわか雨の如く、建築に異議を申し立てる時評 

その不意さ加減の面白さ、深刻さを建築の時評に。建築のここが変だ、ここがオカシイ、建築に声を上げる「驟雨異論」。 にわか雨が上がるのか、豪雨になるのか!?


難波和彦(なんば・かずひこ)

 
建築家、工学博士。1947年大阪生まれ。 1969年東京大学建築学科卒業。 1974年同大学院博士課程修了。1977年:(株)一級建築士事務所 難波和彦・界工作舎設立。2000年〜2003大阪市立大学 建築学科教授。2003年〜2010東京大学大学院 建築学専攻教授。2003年〜2015年グッドデザイン賞 審査委員。2010年東京大学 名誉教授。2013年〜2017年放送大学 客員教授。2016年グッドデザイン・フェロー。現在(株)一級建築士事務所 難波和彦・界工作舍代表。
 
主な受賞に「新建築吉岡賞」(1995)、「住宅建築賞」(1995)、「東京建築賞」(1995)、「JIA 環境建築賞」(2004)、「日本建築学会賞業績賞」(2014)
 
URL:難波和彦・界工作舎

KAZUHIKO NAMBA #1     2024.5.20

日本の戦後住宅の原型
=核家族・戸建・持家の成立

 
 僕は2010年に大学の建築学科を定年退職したが、2年後に放送大学の客員教授に就任し、住宅に関する番組制作を依頼された。半年間をかけて全13回の番組カリキュラムを作成し、海外ロケを含めて日本各地を取材し、『新しい住宅の世界』と題するテキストを執筆した。番組は2013年に放映され、放送終了後テキストを改稿し、放送大学叢書の『新・住宅論』として出版した。
 

「新・住宅論 (放送大学叢書)」2020/左右社)

 

 2022年に『新・住宅論』を読んだ制作会社のディレクターから、NHKラジオ第2放送の番組『住まいをよむ』の制作を依頼された。放送大学はTV番組だが、ラジオで映像も図面も使わずに住まいについて話すのは、かなり実験的な試みに思えた。その条件を踏まえて、番組のテキストを書くために、放送大学のテキストとは異なる視点から、改めて住まいについて調べ直すことにした。
 
 番組で考えた主要テーマは、以下の通りである。
 

  1. 日本の住まいの形式が、核家族を中心とする戸建持家住宅になった歴史的経緯を明らかにする。
  2. 戦前から戦後への家族制度の変化と、コロナ禍が家族と住まいのあり方に与えた影響を明らかにする。
  3. 戸建住宅の供給を中心とする、日本特有の住宅産業が生まれた歴史的経緯を明らかにする。
  4. 多くの建築家が、住宅設計を足がかりにして社会進出する日本特有の現象の理由を明らかにする。
  5. 戸建住宅が集合することによってつくられる日本特有の郊外住宅地の景観を再検証する。
  6. 地球環境問題への対応として生まれたSDGsが、住まいのあり方に及ぼす影響を検証する。
  7. 住宅が集まってつくられる街と、家族や地域コミュニテイのあり方について考える。
  8. 日本の大学における建築教育の特殊性について検証する。
  9. 住まいをつくる際の伝統的な儀式や祝祭について紹介する。
  10. 以上のテーマに基づいて設計された〈箱の家シリーズ〉を紹介する。

 
このようなテーマをまとめて『住まいをよむ』のテキストをまとめた。
 

「こころをよむ 住まいをよむ (NHKシリーズ)」(2023/NHK出版)

 

 この中で、僕にとってもっとも重要に思えたのは、現在の日本の住まいのあり方を決定づけた要因は、第二次大戦後の日本政府の住宅政策にあったということである。戦前の都市の住まいの多くは長屋のような賃貸住宅だった。しかしGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の指導によって解体された大家族制度と、新たに設定された核家族制度に基づく住宅政策によって、住まいのあり方は大きく変容した。終戦直後は400万戸以上という大幅な住宅不足からスタートし、朝鮮戦争の特需を契機に1950年代には高度経済成長が始まり、核家族を中心とする経済的中間層が形成された。日本政府は中間層による持家の取得をめざして、住宅供給の三本柱である〈住宅金融公庫法(1950)〉〈公営住宅法(1951)〉〈日本住宅公団(1955)〉を制定し、経済政策と一体となった住宅政策の枠組が固まった。核家族が持家の戸建住宅を獲得する、いわゆる〈住宅スゴロク〉の考え方が成立するのもこの時期である。核家族による持家を中心とする住宅政策に対しては、GHQの指導が大きく影響した。というのもアメリカの家族制度が核家族に向かうのも、終戦後だからである。それは戦後に勃興した社会主義運動に対抗する〈持家民主主義〉政策の一環でもあった。
 
 日本では戦前から木造住宅を建設する大工は多数存在していた。終戦直後の住宅不足に対して、大工は小規模な工務店を立ち上げ、大量の木造戸建住宅の建設を請け負った。住宅金融公庫制度は、大工による戸建住宅建設の受け皿となり、大量の住宅建設は大きな経済効果をもたらし戦後復興の一翼を担った。1960年代になると政府の後押しでハウスメーカーやデベロッパーが続々と誕生し、大量の住宅供給と経済復興を担うようになる。建築家も戦後住宅のあり方に対して、核家族を対象とするさまざまな提案を行なった。いわゆる戦後モダニズム運動である。
 
 1970年代初頭には住宅不足は解消されるが、住宅ローンの金融化をともなって住宅政策はさらに促進された。1970年代は、戦後生まれの団塊世代が一斉に結婚する時期であり、世帯数の増加に伴って住まいの需要は急激に増加し、1973年には住宅着工戸数は史上最高の191万戸に達する。保守的な〈持家民主主義〉が確立したのもこの時期である。政府は以後も一貫してこの政策を推進する。こうして戸建持家が住まいの主流となり、核家族を賛美する〈マイホーム主義〉が流行することになったのである。
 
 1980年代になると、イギリスのサッチャー首相やアメリカのレーガン大統領が、戦後のケインズ主義的な政策を新自由主義な政策へと転換し、中曽根政権も日本電電公社、日本専売公社、日本国有鉄道の三公社を民営化する。金融の自由化、公共投資の拡大、政官財の密着によってもたらされた1980年代後半のバブル経済期には、住宅金融公庫の融資が住宅ローンの中心となり、団塊ジュニアの結婚需要によって住宅着工数は1990年には171万戸に達する。この時期には戸建住宅だけでなく、都心には分譲マンションの建設が急増する。1990年代以降のポストバブル期にも、持家促進の住宅政策は継続され、住宅金融公庫融資による住宅着工数は1994年の史上最高の67万戸、全住宅着工数の5割を占めるに至る。一方で、1970年代のアメリカ経済の弱体化によるドル・ショックがあり、1973年と19792度のオイルショックや、1980年代には金融緩和によるバブル経済が崩壊する。住宅政策が景気回復の中心にとり挙げられるのは、住宅建設が大規模な景気波及効果(建設費の2倍以上)を持つからである。住宅を建設すれば、それに伴って家具や家電など生活必需品の需要が生じ、大きな経済的な波及効果をうみ出す。
 
 ポストバブルの1990年代半ばから今日までの住宅政策は、少子高齢化による住宅需要の減少と低成長時代に対応した、住宅供給の伝統的な〈三本柱〉の解体であり、新自由主義による住宅供給の完全な市場化である。この時期には、住まいの供給数が世帯数を超え、人口と世帯数の減少と少子高齢化によって、所得階層に結びついた戦後の住宅政策が解体した。住宅政策は大幅に縮減され、住宅供給の伝統的な〈3本柱〉だった〈住宅金融公庫法〉〈公営住宅法〉〈日本住宅公団法〉は解体され、住宅システムは完全に市場メカニズムに委ねられることになる。少子高齢化と人口減少によって、住宅需要は頭打ちとなり、これまでの住宅政策の維持は難しくなる。都市開発に対する法規制が緩和され、東京の都心駅周辺や湾岸に民間資本による超高層マンションが集中するが、これも長くは続かないだろう。
 
 人口・経済がポスト成長時代の段階に入るに伴い、住宅システムの旧来の条件は失われ、現在進行しているのは、公共建築と商業建築の建設と既存建築のリノベーション産業への転換である。住宅産業の今後の命脈もその点にかかっているように思われる。

|ごあいさつ

 
 2023年度4期の建築・都市時評「驟雨異論」を予定通り配信することができました。 4期を担ってくださった小野田泰明中島直人寺田真理子の三氏に厚く御礼申し上げます。ご苦労様でした。 建築・都市を巡る状況は、平穏なものではありません。 民間資本による都市再開発の乱立と暴走、建築建設資材の高騰化と慢性的な人手不足、無策なまま進行する社会の高齢化と縮小化と格差化、気候変動と「with・コロナ」そしてオーバーツーリズムの波etc、克服が容易でない大きな課題が山積状態にあり、今こそもっと建築・都市へ「ここがオカシイ」と声を上げなければなりません。批評の重要さが増している。 その上からも「驟雨異論」の役割は、貴重になります。ここから声を上げてゆきましょう。 2024年度5期では 貝島桃代難波和彦山道拓人、各氏のレビューが登場します。 乞うご期待ください。
 

2024/04/18

真壁智治(雨のみちデザイン 企画・監修)
 

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