新連載|にわか雨の如く、建築に異議を申し立てる時評
その不意さ加減の面白さ、深刻さを建築の時評に。建築のここが変だ、ここがオカシイ、建築に声を上げる「驟雨異論」。 にわか雨が上がるのか、豪雨になるのか!?
1966年東京生まれ。1991年早稲田大学大学院修了後、坂倉建築研究所に勤務。2004年山本想太郎設計アトリエ設立。現在、東洋大学・工学院大学・芝浦工業大学非常勤講師。主な作品として「磯辺行久記念 越後妻有清津倉庫美術館」、「来迎寺」、「南洋堂ルーフラウンジ」(南泰裕、今村創平と共同設計)など。主な著書に「建築家を知る/建築家になる」(王国社)、共著に「みんなの建築コンペ論」(NTT出版)、「異議あり!新国立競技場」(岩波書店)、「現代住居コンセプション――117のキーワード」(INAX出版)など。
SOTARO YAMAMOTO #2 2020.09.20
選ぶものと
選ばれるもの
本来ならばもうオリンピック/パラリンピックを終えていたはずの《新国立競技場》。仮囲いの中で、ミステリアスに熟成しつつある
建築専門家にとって「建築」の少しだけ外側になってしまっている領域を「建築の大気圏」と名づけ、そこにある事物から、建築と社会の関係の可能性を探るシリーズ。前回は「住宅の後付けバルコニー」をとりあげたが、今回は概念的な大気圏にあるものとして、「設計者を選ぶプロセス」について考えてみたい。
「設計者を選ぶプロセス」の冒険性
「建築をつくるのは大変」なのは間違いない。たしかに建築が建つまでのプロセスや技術はとても複雑で、建築主自身がそれをすべて取り仕切るのは至難の業である。というわけで、私の設計事務所にも設計・監理のご依頼がきて、建築が建つまで、そして建ってからも、さまざまなプロセスに建築家として協力させていただくことになる。しかしその前の段階、つまりどこの設計事務所(あるいはハウスメーカー、施工業者など)に依頼するかという「設計者を選ぶプロセス」には、通常、専門家はいない。私たち専門家が建築のライフサイクル全体を「建築」と認識するときにも、受動的にしか関わることができないこの前段階についてはその少し外側、つまり「建築の大気圏」としてしまいがちである。
当然のことだが、建築の設計者は、完成する建築の質に決定的な影響を及ぼす。一方で国土交通省の発表によれば、2019年4月時点で日本全国の建築士事務所の登録数は101,122件。これはコンビニエンスストアの数よりもはるかに多い。この星の数ほどのなかから、いったいどうすればベストな選定ができるのか。残念ながら、そこに一般化された方法論はなく、さまざまに偶発的なルートが散らばっているのみである。建築はとんでもなく高価な買い物なのに、その質を託する相手をそのように曖昧な方法で決めるのは、実に冒険的なことである。「建築をつくるのは大変」と言われてしまう、建築と一般社会の間の距離感のかなりの部分は、この、建築への入口の冒険性によるものなのではないだろうか。
「選ばれるもの」の不参加
「選ぶ」という行為を単純に図式化するなら、それは「選ぶもの」と「選ばれるもの」という2つの存在のコミュニケーションと考えることもできるだろう。また建築の設計・監理者の選定は、ハウスメーカーの規格住宅や、きわめて類型化されたタイプの建築を求めるような場合を除いて、依頼時点で最終成果物の姿を明示的にやりとりすることが難しいため、通常の商品売買とはかなり勝手が異なる。つまり成果物への期待感を担う、設計者(社)自体が「選ばれるもの」とならなければならないのである。それにもかかわらず、この選定プロセスには通常その「選ばれるもの」が能動的には参画していない。そのためコミュニケーションの緊張感は高まらず、経験の蓄積や状況の改善もなされにくくなっているように思われる。
そこでこの問題について考えるにあたり、「選ばれるもの」が参画する発注方式である「コンペ」について考察してみよう。
コンペという発注方式
建築提案を募り、最も優れた案を提出した者に設計を発注する「コンペ(建築設計競技)」は、数々の名建築を生み出してきた、世界的に広く認知されている発注方式である。ただこれは主として公共建築、大規模計画でおこなわれるもので、普通の住宅や民間施設で実施されることはほとんどない。
しかし先述したように、建築への入口におけるコミュニケーションの不十分さが「建築をつくるのは大変」という一般社会のイメージの大きな原因になっているのであれば、「選ぶもの」と「選ばれるもの」が明確な立場で向かいあい、完成する建築の姿がそれなりの精度でやりとりされる「コンペ」こそ、どのような種類の建築に対しても、理想的な設計発注方式ともいえるのではないだろうか。
ところがそう簡単な話でもない。2013年から2015年にかけて、《新国立競技場》の建設プロジェクトが社会問題化し、華々しく開催された国際コンペの当選案が「白紙撤回」されたことはまだ記憶に新しいだろう。このコンペが計画を成功へと導けなかったのはなぜか。私の考えでは、最大の敗因はコンペをやるべきでない状態で実施してしまったことである。その後の方針修正で予算額や施設内容が大きく変更されたことからも、コンペ時点で計画条件が十分に検証、合意されていなかったことは明白である。新国立競技場整備計画経緯検証委員会による報告書でも、関係者間で予算額への認識の相違があったことなどが指摘されている。
そのように不確実な条件提示しかできない状態で、このスタジアムを東京へのオリンピック/パラリンピック誘致運動のシンボルとするため、バタバタとコンペを実施してしまった。この「入口」の誤りによって、世界的建築家たちから集まった46もの提案という英知がすべて無駄となってしまったのである。このようにコンペはどのような状況でも理想的な方法論というわけではない。「選ぶもの」にしっかりとした準備が可能であり、その手間と責任を担う覚悟があってはじめて機能するのである。
では《新国立競技場》コンペで、その「選ぶもの」とは誰であったのだろうか。コンペを主催した日本スポーツ振興センター(文部科学省の中期目標管理法人)や、建築家 安藤忠雄氏を委員長とした審査委員会が直接の選考者ではあるが、本来、公共建築における「選ぶもの」は社会全体、一般市民であるはずである。それなのに、どのような建築を建てるべきか、そもそも建てるべきなのか、という議論に市民の意識が向いたのは、コンペ後一年以上経ち、その結果が社会問題化したあとであった。
ほとんどのコンペでは専門家が専門家を審査している。現代建築の技術的な専門性を考慮すればそのこと自体は必然であり、たとえば公共コンペの審査を住民投票でおこなったりしても、おそらく適切な選考とはならないだろう。問題は、その審査員(あるいは審査を依頼した行政)がすなわち「選ぶもの」である、という丸投げ的な社会意識である。そのように公共建築の計画を専門性の領域に閉じ込めることで、「選ぶもの」と「選ばれるもの」の本質的な緊張感のあるコミュニケーションは失われてしまっているのではないか。
《新国立競技場》の社会問題化は、コンペからかなり遅れたタイミングではあったが、その社会的コミュニケーションが発動した状態であったともいえよう。しかし政治によって、計画案とともにその議論までもが「白紙撤回」されてしまうにいたって、コンペを実施するという判断も、その結果の扱いも、曖昧な空気に満ちた「建築の大気圏」での出来事となってしまっている現状を痛感させられた。
《シドニー・オペラハウス》1973年 設計:ヨーン・ウツソン。建築の知名度だけでなく、コンペではじまった計画経緯も伝説的。1957年のコンペから完成までに16年を要し、建設費用は当初予算の14倍以上かかったといわれている
コンペの消滅
近代以降の日本においても、象徴的な公共建築の多くがコンペを経てつくられてきたのだが、いつしか発注者も、設計者も、「なぜコンペをするのか」をよく考えずに雰囲気や慣例で実施し、参加するということを繰り返してしまっていたのではないか。そして実は現在、日本の公共建築計画において、純粋な提案競争としてのコンペ方式による発注はほとんどおこなわれていない。2018年に国土交通省、都道府県及び政令市で構成する全国営繕主管課長会議がまとめたマニュアル『建築設計業務委託の進め方』でも、「設計競技(コンペ)」は参考程度に触れられているのみ。つまりコンペは消滅の危機に瀕しているのである。
代わって普及しているのが日本型の“プロポーザル”という方式である。提案競争というより書類選考に近い概念の方式であり、建築の概略提案とともに設計者自体の信頼度も審査する。トラブル回避策としてはそれなりに機能するが、実績(過去に設計した建築の数や規模)や組織規模を点数化して加点することで、建築表現というものの質と真剣に向き合い、責任と覚悟をもって「選ぶ」ということの回避という側面ももつ。
このような変化を、予測しにくいリスクを嫌ういかにもお役人的な発想ととらえることは容易いだろう。しかしそうではなく、この「選ぶもの」である責任から逃げ腰の姿勢は、現代日本社会全体を覆っている感性なのではないか。地域社会の衰退や選挙投票率の低さなどにも表れている、日本社会に蔓延する、社会的コミュニケーションに対する半ば諦めのような感覚を背景として、建築にかぎらずさまざまな事象の関係性が歪んだまま放置されているように思われる。そしてその中で、コンペという文化が消滅しようとしている。
設計発注のプロフェッショナル
コンペの考察から見えてきた、建築と社会とのコミュニケーション不全状態は、すなわち、社会の中で機能する実用芸術である建築表現の、存在基盤の危機ととらえるべきだろう。ゆえに、建築への入口という大気圏にも、専門家こそが積極的に手をのばさなければならない。そこにおける「選ぶもの」と「選ばれるもの」の真剣な対峙こそ、社会のコミュニケーションを再生していく原動力ともなりうるものだと考える。
「選ぶもの」はあくまで建築主(公共工事なら一般市民)であるべきなのだが、そこに「選ばれるもの」と切り離された立場の建築専門家が参画するような仕組みは一般化できないものだろうか。本来「選ぶもの」が選ぶべき最も重要なものは「その建築に何を求めるか」であり、それを詳細に練り上げ、その実現を基準として設計者を選定するプロセスを、プレーンな立場の専門家がサポートする。現在でも設計者の紹介やマイホームコンペなどといった仲介的な仕組みは存在するが、住宅に限らず計画の個別性に深く柔軟に対応できる、より汎用性をもったサポートをおこなう職能のイメージである。
公共建築の設計発注は行政によっておこなわれているが、その「発注業務」がこのような職能者、団体へと外注化されれば、プロセスの透明性や責任の明確さは格段に高まり、適切に建築の質へと結びついていくはずである。個人住宅や民間建築の場合でも、専門家のサポートがあれば、「選ぶもの」はより的確に建築への思いや要求を示して「選ばれるもの」と対峙することができる。もちろんそのサポートには費用が伴うが、成果との結びつきがきちんと発信されれば、その価値は十分社会に理解されうるだろう。それは、「建築をつくることの意味」を明確にするためのプロセスなのだから。
《オーストラリア・ハウス》2012年 基本設計:アンドリュー・バーンズ・アーキテクト。公共建築の設計発注業務が民間委託された事例。アトリエ・イマム+山本想太郎設計アトリエが設計発注のアドバイザーとなり、延べ面積150㎡弱の木造ゲストハウスという小建築でありながら、国際公開コンペが実施された
述べてきたように、《新国立競技場》問題は、建築表現という専門性の危機的状態をも顕在化させた。このような危機感を共有した建築史家の倉方俊輔氏とともに、先日、『みんなの建築コンペ論――新国立競技場問題をこえて』という本を上梓した。古今東西のコンペ事例を紹介しつつ、社会に開かれた建築への入口プロセスの可能性について具体的に論じている。ご興味があればぜひ手に取っていただければと思う。
次回は、建築の一部でありながら付属物のようにも扱われがちな「設備機器」について論じたい。
■関連イベントのお知らせ
オンライン・トークイベント「私たちの社会はなぜコンペを必要とするのか?」(主催:青山ブックセンター)が開催されます。 建築コンペとはいったい何であり、社会はそこに何を望んできたのか。そしてなぜいま日本でコンペは失われつつあり、なぜ私たちはそれについて論じなければならないのか。本年7月にNTT出版より刊行された『みんなの建築コンペ論――新国立競技場問題をこえて』の著者である建築家・山本想太郎、建築史家・倉方俊輔の二人が、本書の書かれた背景、そしてポスト・新国立競技場のコンペ概念についてお話しします。またゲストにはコンペの応募者としても、審査員としても数多くの経験もつ建築家・乾久美子氏を迎え、本書の問題提起を受けた議論を展開します。
・イベント名:「建築・都市レビュー叢書」第6弾『みんなの建築コンペ論』 刊行記念トークイベント「私たちの社会はなぜコンペを必要とするのか?」
・登壇者: 乾久美子(建築家、横浜国立大学大学院Y-GSA教授、乾久美子建築設計事務所) 山本想太郎(建築家、山本想太郎設計アトリエ) 倉方俊輔(建築史家、大阪市立大学准教授)
・主催:青山ブックセンター
・協力:NTT出版株式会社
・開催日時:2020年10月1日 (木曜日) 19:30~21:00
・開催形式:WEB会議ツール「Zoom」を使用したウェビナー形式
・参加費:1,320円(税込)
・定員:100名 ※先着順
・参加申込み :青山ブックセンターのHPより申込み http://www.aoyamabc.jp/event/compe/
・参加方法: ※WEB会議ツール「Zoom」を使用して実施します。
※申込者には、passmarket-master@mail.yahoo.co.jp (配信専用アドレス)より前日21時過ぎと当日17時過ぎにウェビナー登録のURLをお送りします。どちらかで登録をお願いいたします。(URLの共有は禁止いたします)
※インターネットに接続したパソコンや、タブレット端末、スマートフォン等が必要です。
※スマートフォン、タブレット端末の場合、事前に「Zoom」アプリのインストールが必要です。
|ごあいさつ
2023年度4期の建築・都市時評「驟雨異論」を予定通り配信することができました。 4期を担ってくださった小野田泰明、中島直人、寺田真理子の三氏に厚く御礼申し上げます。ご苦労様でした。 建築・都市を巡る状況は、平穏なものではありません。 民間資本による都市再開発の乱立と暴走、建築建設資材の高騰化と慢性的な人手不足、無策なまま進行する社会の高齢化と縮小化と格差化、気候変動と「with・コロナ」そしてオーバーツーリズムの波etc、克服が容易でない大きな課題が山積状態にあり、今こそもっと建築・都市へ「ここがオカシイ」と声を上げなければなりません。批評の重要さが増している。 その上からも「驟雨異論」の役割は、貴重になります。ここから声を上げてゆきましょう。 2024年度5期では 貝島桃代、難波和彦、山道拓人、各氏のレビューが登場します。 乞うご期待ください。
2024/04/18
真壁智治(雨のみちデザイン 企画・監修)
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