「雨のみちデザイン 流し・納めるディテール11章」完成記念特別寄稿

2024.4.27

ビジュアル・ナラティヴとしての「雨のみち」

TEXT=やまだようこ(心理学、京都大学名誉教授)

 
 私は、偶然にタニタハウジングウェアのホームページで「雨のみち」を見つけたときの感動を今でもおぼえている。建築デザインにも建材にも関係のない私だが、「雨のみち」と名づけられたネーミングと、そこで展開されている漸新な「樋」のデザインに魅了されてしまった。
 
 私は、ちょうどビジュアル・ナラティヴについて、雑誌の特集を企画していたときだったので、迷わずに「雨のみち」をその素晴らしい実例として巻頭に掲載させていただいた。ビジュアル・ナラティヴとは、視覚イメージによって語ること、あるいは視覚イメージとことばによって語ることである。従来は、ナラティヴ(もの語り)は、狭義の言語によって語ることだと考えられてきた。私は、ことばだけではなく、ビジュアル・イメージによって語る行為が大切だと考え、ビジュアル・ナラティヴと名づけてきた。
 
 「雨のみち」デザインが、ビジュアル・ナラティヴとして、なぜ素晴らしいのだろうか? それは、まず第1に「雨のみち」というネーミングにある。建物の「樋」をつくると考えるか、「雨のみち」をつくると考えるかで、メーカーも建築家も顧客も、イメージの広がりや発想がおおきく変わってくる。「雨のみち」という名前は、それ自体がナラティヴ(もの語り)のデザインを生み出す。
 
 ふつう「みち(道)」は、地面にあり、天空にあるとは考えない。「雨のみち」ということばは、天と地のあいだの通路という宇宙的なイメージを呼び起こす。もちろん、「月の道」や「天の橋立」など、似た発想がなかったわけではない。しかし、それが「樋」という具体的な建築デザインや日常生活とむすびつき、ビジュアル・イメージによって提案されているところが新しい。ナラティヴとは、「2つ以上の出来事をむすび、新しいものの見方ができる行為」であるが、2つ以上のものが異種混淆し「共同生成」をもたらすところに大きな意義がある。「雨」「みち」ということばは、平凡な日常語であるが、そのむすびつきが新しいナラティヴを生みだすのである。
 
 第2に、「雨」は漢字で、「みち」はひらがなで表記されていることも素晴らしい。「雨」はそれ自体が象形文字で、まさに天からしずくがしたたるようなビジュアルな造形をしている。「みち」は、「道、路、径、途、通」などさまざまな漢字表記であらわされるが、漢字で形状を限定し、固定ないほうがよいだろう。
 
 やまとことばでは、「あめ」は、「あま(天)」と通じあい、「あ」と口を大きく開く母音は「あいうえお」五十音のはじまりの音である。「みち」の「み」は、み(御、美)という尊称であり、「ち」は人間以上の自然の「霊力」を意味する。「ち」は、「ちから(力)」「いかづち(雷)」「みづち(蛇)」など霊的な力を表し、人体にも「ち(血)」が通っている。そのような古来の音のひびきや意味連関は今では忘れられているが、「雨のみち」ということばを聞いたときに、その語感から自然にひびいてくる身体感覚を今でも感じることができるし、その身体感覚は心地よく感じられる。
 
 私たちにとって、雨は親しいもので、季節感や身体感覚と切り離すことができない。日本語では、「はるさめ(春雨)」「さみだれ(五月雨)」「つゆ(梅雨)」「ゆうだち(夕立)」「しぐれ(時雨)」「みぞれ(霙)」など季節ごとの雨に名前がつけられ、雨の名前は 150以上ある。雨の降り方の表現だけでも、通り雨(とおりあめ)長雨(ながあめ)地雨(じあめ)滝落とし(たきおとし)大雨(おおあめ)村雨(むらさめ)小糠雨(こぬかあめ)小雨(こさめ)糸雨(しう)細雨(さいう)黒雨(こくう)豪雨(ごうう)驟雨(しゅうう)霖雨(りんう)冷雨(れいう)涙雨(なみだあめ)雷雨(らいう)霧雨(きりさめ)白雨(はくう)凍雨(とうう)など、実に細やかである。私たちは、文化的伝統として雨に対する繊細な感受性をもっている。
 
 もう一方で、どのような呼び名になろうと、雨とは天空から水のしずくが落下する自然現象であり、雨の絵を見れば文化を超えてわかりあえる。ビジュアルは、完全にカルチャー・フリーというわけではないが、文化や社会や歴史的文脈をやすやすと超えてコミュニケーションしやすいところも魅力である。ビジュアルな表象は、「雨」の象形文字にも表されているように、具象的な形態から完全には切り離されない「半具象」であることも長所となる。
 
 ビジュアル・ナラティヴとは、視覚イメージとことばのコラボレーションによって語ることである。ビジュアルなイメージだけではなく、それに「雨のみち」ということばをあわせて提示することによって、より具体的になるとともに、時空を超えてほかの多様なイメージとむすびつく。
 
 第3に、同ホームページで連載されていた建築家・堀啓二さんによる連載「雨のみちデザイン流し・納める11章」では、「みせる」「ながす」「うける」「おどる」「うかす」など、デザインが日常日本語の動詞で表現されていることも素晴らしい。西欧語ではコンセプトを名詞形で表すことが多いが、日本語では機能的な動詞のほうが基本的なコンセプトになる。もし、「みせる」という機能的な動詞ではなく、「排出口」という業界用語で説明されていたら、堅い事物のモノ(名詞)から発想が広がらない。
 

「雨のみちデザイン 流し・納めるディテール11章」 の第3章「うける」で取り上げられた「牧野富太郎記念館」のスケッチ。(作:堀啓二)


 「みせる」で紹介されている「ガーゴイル( gargoyle)」は、怪物などをかたどった樋から流れてくる水の排出口である。「ガーゴイル」のラテン語の原義は「のど」であり、水が流れるときのゴボゴボというような音を表す擬声語が近縁といわれる。このことばは、西欧語の文化圏の伝統とむすびついて、多くのイメージともの語りを生みだす。しかし、もし、「ガーゴイル」とカタカナ語で紹介されたら、私たちの文化にも語感にもなじまないので、それをまねたデザイン以上の新しい発想は生まないだろう。
 
 「ガーゴイル」というカタカナ語を表題にしたら、何だかおしゃれな印象で、外国好きな人には魅力的にみえるかもしれない。しかし、それは、ひととき目新しくみえるだけである。それは、すぐに次の目新しいカタカナ語に置き換わって、消費されていく。今や、私たちの生活のなかには、そのようにして持ちこまれた意味のわからないカタカナ語やモノが氾濫している。しかし、それらは根なし草で、日本語の他のことばや身体感覚をもつ日常生活とのむすびつきがないので、それ以上にイメージが広がらず、新しい発想やもの語りを生成することもない。
 
 「みせる」「ながす」「うける」などの動詞であれば、紹介されたデザイン以上に、さまざまな連想が広がる。実際、私は寺などに出かけたときに、古い寺の大屋根から庭へ雨水がどんな形で流れてくるのか、そのしずくを受けるデザインをしげしげと眺めるようになったし、それらを見せる工夫がいろいろあることに気づくようになった。
 
 もし、雨のしずくがゆっくり落ちてきて、水滴がしばらく空中にとどまって見えたら、どうだろうか。雨のみちを通ってやってくる、さまざまな水の滝のようなしぶきや、したたる水滴の流線形が拡大されてよく見えるような透明な樋や硝子窓ができたら、雨の日も退屈しないだろう。やがて雨がやんで、太陽が出て雨のしずくが虹色に光り出したらシャンデリアよりも素敵ではないだろうか。そんなふうに、未来の建築に想像をめぐらすこともある。
 
 ビジュアル・ナラティヴでは、ことばと視覚イメージが連動して働く。それによって、抽象的なことばはわかりやすい具象的なイメージを呼び起こし、自分の経験とむすびついた多様な生きたイメージとなる。ビジュアル・ナラティヴは、いきいきした想像力をはぐくみ、新たなものの見方、新たなもの語り、新たなものづくりを生みだしていくのである。
 
 「 人々は想像力とはイメージを形成する能力だとしている。ところが想像力とはむしろ知覚によって提供されたイメージを歪形する能力であり、それはわけても基本イメージからわれわれを解放し、イメージを変える能力なのだ。イメージの変化、イメージの思いがけない結合がなければ、想像力はなく、想像するという行動はない。
(ガストン・バシュラール『空と夢』)
 
参考書
「空と夢-運動の想像力にかんする私論」(バシュラール,G./1943, 1968/法政大学出版局)
「ビジュアル・ナラティヴとは何か 『N:ナラティヴとケア 第9号 ビジュアル・ナラティヴ特集』2-10」(やまだようこ/2018/遠見書房)
「ナラティヴ研究-語りの共同生成(やまだようこ著作集第5巻)」(やまだようこ/2021/新曜社)
「やまだようこ 「包む」「ものづくりをもの語る」(やまだようこ著作集第6巻)」(やまだようこ/2023/新曜社)
「ビジュアル・ナラティヴ-人生のイメージ地図(やまだようこ著作集第9巻)」(やまだようこ/2024/新曜社)
やまだ・ようこ
 
京都大学名誉教授、立命館大学OIC総合研究機構上席研究員、ものがたり心理学研究所長。「ことばとは何か?」「人は人生をいかに生きるか?」という大きな問いを、ナラティヴ(もの語り)アプローチから探究する。専門は、ナラティヴ心理学、文化心理学、生涯発達心理学。主な著書に「やまだようこ著作集 全11巻」(新曜社)ほか。

 
URL:やまだようこHP