vol.01:ゴシック建築のガーゴイル


建築家、大嶋信道による新連載「雨のみち探偵団」。第一回のタイトルは、「ゴシック建築のガーゴイル」。雨樋はどのように生まれ、やがて”建築家”と呼ばれる人々とどのように戦い、そのデザインが歴史に刻み込まれてきたのか。その中でゴシック建築の軒先に登場しはじめた”ガーゴイル”。空想の生き物?それとも悪魔?さまざまな事例とともにその謎に迫る。

口上

 
 雨は降る。天から降った雨水は、地表に届き、そのまんま、地面の下に染み込むか、流れ流れて川や海。最後には、水蒸気となり循環する。
 雪も降る。地表に積もった結晶は、溶けて流れて同じ道。
 動物たちはというならば、雨降れば、蛙ゲロゲロうれし泣き。雪降れば、犬は喜び庭駆け回る。あるいはひたすらずぶ濡れか、木陰や地中で雨宿り。なんの不足も言わぬまま。
 さてここで、人間たちは、「天からの恵み」と呼んで、あがめたて、そのありがたさは、 重々承知。雨水を、利用尽くして農業を、ひいては文明そのものを、打ちたてたのは、歴史のとおり。
 その一方、自分の棲家に入ってくる、雨や雪など、まっぴらに御免こうむると、言いたてる。そもそもが、天と地の、間に棲家をおっ建てて、住み始めたのは人の都合。自然の摂理に従って、流れ込んだる雨水を、邪魔者扱いすることは、ちはやふる、神代も聞かぬ、身勝手さ。

 そうは言っても人類は、進み進んで、各地では、様々な素材と技法をかき集め、雨ニモ負ケヌ屋根材を、見繕いつつ、やっとこさ、雨をしのいで数千年。「民家はキノコ」と誰かが言った。(※注1) いうなれば、傘を広げてひたすらに、毎度の雨をうけとめる。軒先からは、雨だれが、眺めしままに、ポタポタと。風情は良いが、足元が濡れてしまうは 仕方ない。
 

注1)「民家はキノコである」と言ったのは、建築家・篠原一男(1925 - 2006)
 
本来の文脈では、“民家はキノコのように自然発生するもので、建築ではない。”という意味での発言。言外に、“民家なんかより、建築と呼ばれるジャンルの方が格が上で、それを作る建築家はエライ。” と言っている気がする。筆者も建築家ではあるがそんな風に感じたことはない。

“雨のみち”の発生 vs 建築家

 
さて、そのうち、雨樋というものが現れる。屋根面を流れる雨水を、集めて地上に導くもの。いわば、雨水の専用通路。高速道路のように、軒先から地面へと寄り道もせず一直線。 このことにより、建物の壁を濡らす水の量が劇的に減り、組積造の建物なら、壁目地からの風化や浸食を防ぎ、木造建築なら、柱の足元や土台の腐蝕を防ぎ、建物の耐久性を飛躍的に改善することとなった。
 めでたしめでたし。They lived happily ever after. (その後ずっと幸せに暮らしましたとさ。)と昔話は終わるのが常だが、残念ながら、ここで問題発生。
 「目障りだ。」「邪魔だ。」「デザインを乱す。」と、特に建築家やデザイナーたちから非難ごうごう。樋は、機能上、取って付けたようなものになりがちで、ただでさえデザイン 的に異物感が漂う。かてて加えて、建物の外観をまじまじと眺めるときは、雨が降ってないとき。 雨樋は実際に機能してなく、いわばスタンバイ状態。 観察者の心情的にも、“晴れの日の傘”のように写る。

  そして、この建築家やデザイナーなどという人種は、「しょうがないじゃん。」「しかた ないかも。」と諦めるには、往生際が悪く、ねちっこい。この雨樋のデザインをなんとかしようと散々工夫を重ね、成功や失敗を繰り返しながら、歴史を刻んだ。
 雨樋をデザインする指向性としては、大きく2つあると思われる。
 ひとつは、消極策。出来るだけ地味に目立たなくさせる。一見雨樋には見えないようにデザイン(擬装)する。軒樋は内樋にして、建物のファサードから見えなくする。横樋は裏側や目立たないところに持って行く。それら全部ひっくるめて、雨樋の“隠蔽工作”といえよう。
 もうひとつは、積極策。言い換えれば、“開き直り”。必要なものは必要だから、美しく飾り立てたり、デザイン上のアクセントにしてしまう。あるいは、高価な素材で樋をつくり、高級感や贅沢感を前面にドドンと押しだすという手法である。
 

大聖堂のガーゴイル

 
 ゴシック様式の大聖堂のガーゴイル(gargoyle・英)は、後者の “開き直り”デザインの代表選手。元来、雨樋としての機能はちゃんとある。屋根に降った雨水を集め、壁面を濡らさないで、勢いよく吐き出す。フランス語ではガルグイユ(gargouille)といい、 語源はラテン語の喉を意味するグルグーリオ(Gurgulio)から派生した言葉だそうだ。 日本語では、「かけひ(掛樋・筧)」という言葉が該当する。
 空想上の動物をかたどったガーゴイルの発生は、13世紀の初めの北フランス。ゴシック以前のロマネスク時代の教会には、ガーゴイル的なものは付いていない。19世紀フランスの建築家・修復家ヴィオレ・ル・デュク(1814-79)によれば、1220年にラン大聖堂に取り付けられたものが最初で、そのガーゴイルには、すでに獣面と前足を供えていた。その後あっという間にフランス中、ひいてはヨーロッパ中に生息域を広げたガーゴイルは、表現の質も、想像力を目いっぱい広げ、単に動物というより、魑魅魍魎としか言いようが ないものになっていった。

 しかし、ほかならぬ聖なる教会に、どうして悪魔の使い走りのようなガーゴイルたちが、 文字通り軒を連ねることになったのか。いろいろな説があるが、結局のところ謎である。そして、この無軌道さは、ルネッサンス以降、野蛮なものとしてゴシック様式自体が、否定された時代が長く続いた。
 ゴシック建築の再評価は18世紀の後半になってからで、19世紀には、ゴシック建築復興運動(ゴシック・リヴァイバル)は最盛期を迎え、20世紀の初頭まで続く。現在、我々が目にするゴシック様式の大聖堂の装飾は、この19世紀から20世紀にかけて修復・復元されたものが多い。また、中世に着工した大聖堂のなかで、19世紀のゴシック・リヴァイバルの時代になって、やっと完成した建物も数多くある。そのような建物では、ガーゴイルが生息する頂部の装飾類は、近代になって新しく創作されたものということになる。
 中世にガーゴイルを作った職人や、それを望んだ人々の心情は現在からは計り知れないところがあるが、修復・復元については、20世紀を通して、そして21世紀の現在でも続いている。

 20世紀を代表する建築家ミース・ファン・デル・ローエ(1886-1969)のアーヘンの実家は、石工の家だった。昔かたぎの父親ミヒャエルには、以下のようなエピソードが残っている。
 

 「ベルリンから帰省したときミースは、若い(兄)エヴァルトが老いたミヒャエルと口論しているのを耳にしている。「兄は、『見ろよ、こんな飾りなんか、こんなに大騒ぎして手をいれなくったって作れるじゃないか。特にさ、建物の高いところに付けるやつなんか、誰も近寄って見やしないからな』というようなことを言った。父はこれに全然反対だった。答えて言うには『いいか、おまえは石工以外の何者でもないんだ! ケルンの大聖堂の尖塔の頂飾りを知っているだろう。たしかに、あそこまで空を泳いで見に行くことなんてできないが、できるかぎりに彫刻してあるんだ。あれはな、神様のために作ってあるんだ』。」
 
(「評伝ミース・ファン・デル・ローエ」(MIES VAN DER ROHE A Critical Biography)/著:フランク・シュルツ/訳:澤村明/鹿島出版会/1987/原著1985)

ここに出てくる、ケルンの大聖堂は、1248年の起工で、完成したのは1880年。ミヒャエルは、ケルン大聖堂を飾るガーゴイルたちを彫った石工たちと同じ世代に属する。そして、現在の私達は、神様のために作ったものたちを、空を泳いで行けないまでも、高性能のデジタル機器の助けを借りて、職人たちの想像力と手業を、詳細に鑑賞出来るようになった。 「キャー♡カワイイ!」とか、 「わーっ、グロい。」とか言いながら。

写真1(左): 世界遺産・パリのノートルダム大聖堂の西正面。まるで囲った部分のクローズ アップが、写2(右)である。写真2(右):パリのノートルダム大聖堂の西正面。北側鐘塔上部。ガーゴイルの大きく開け た口のなかに、青空が見えるのに注目。ガーゴイルを通る雨のみちには、石の断面の中央 をくりぬいた形状のものと、石の上部を溝状に彫って、首のところから口に排水口を開け たものがある。ノートルダム大聖堂は、後者のものが多い。

 

写真3:ノートルダム大聖堂のガーゴイル。雨水が流れる溝が見え、まきれもなく、樋の 役割をはたしていることがわかる。

 

写真4:ノートルダム大聖堂の鐘塔基部の展望台にいる、バルコニー手摺にひじをついて、パリ の町並みを見下ろす“吸血鬼”と呼ばれている有翼の怪物。雨樋の機能持たないのでガー ゴイルとはいえないが、ガーゴイルのデザインから、派生・増殖していったものに間違い ない。 ガーゴイルはクリーチャーたちにとってもキツイ体勢なので、深夜、人知れずバルコニー の上にいる交代要員と入れ替わっているのかもしれない。いわば“休憩中のガーゴイル”?というのは冗談だが、今、見ているこれら怪物たちは、19世紀にヴィオレ・ル・デュクの 監修により、修復・復元されたもの。(photo=Andy Hay)

 

図1:パリ・ノートルダム大聖堂の断面図 建物全体のなかで、ガーゴイルが生息している場所と機能的役割がよくわかる。
(Georg Dehio & Gustav Bezold “Die kirchliche Baukunst des Abendlandes” Stutgart,1894 より)

 

写真5:ミラノ大聖堂の北面 側廊上部のガーゴイル。写真6:ミラノ大聖堂の犬型(?)ガーゴイル。

 
 
ミラノ大聖堂(ドゥオーモ)は14世紀後半に着工し、完成したのは19世紀。ガーゴイル などの装飾は、主に19世紀の作品で、多くは、第2次世界大戦後に修復されたもの。造形的にも、パリのノートルダムのものと比べて、グロテスクさが少なく、優雅さが勝る。
 

写真7:ミラノ大聖堂の有翼獣足のガーゴイル。写真8:ミラノ大聖堂の有翼人型ガーゴイル。腕を組んで歌っているが、これは天使だろうか?

 
 
 
 ミラノ大聖堂(ドゥオーモ)の外装は、少しピンク色がかった大理石で作られている。近郊のマッジョーレ湖の西岸に採石場があるコンドリア大理石(Condoglia Marble)という石。
 

写真8:バルセロナ大聖堂の後ろ側、外陣部分のガーゴイル(photo=みたらい・きよみ)

 
 
 
 バルセロナ大聖堂(聖・エウラリア大聖堂)は、13世紀から15世紀にかけて建造。19世紀末に現在のファサードが作られた。一層目の上部は、おそらく中世からの装飾が無い四角いガーゴイル。2 層目には、一角獣のガーゴイルが見える。一角獣は空想上の生き物であるから、矛盾した言い 方ではあるが、この一角獣は“リアリズム”の美学で作られているので、19世紀、あるいは20 世紀に入って製作されたものであろう。
 

(※特記以外の写真は全て筆者撮影)
 

ページトップへ


著者略歴

 

大嶋信道(おおしま・のぶみち)

 
1960年鳥取県倉吉市生まれ。1984年武蔵野美術大学造形学部建築学科卒業。建設会社勤務を経て、1990~94年東京大学生産技術研究所藤森研究室。1991年大嶋アトリエ設立。2003年より武蔵野美術大学非常勤講師。著書に『建築虎の穴見聞録~訪ねて歩く材料と工 法』(新建築社)『藤森流自然素材の使い方』(彰国社)。1999年「倉吉の町屋」で鳥取県景観大賞を受賞。また、「一本松ハウス」、「ニラハウス」、「ツバキ城」等の設計・監理として、藤森建築の実現を担う。