vol.03:ル・コルビュジエのガーゴイル


建築家、大嶋信道による連載「雨のみち探偵団」。待望の第三回目は、ついに巨匠建築家、ル・コルビュジエの登場です!コルビュジエが東方への旅で出会ったであろう数々のガーゴイルたち。コルビュジエ作品にはじめて登場するガーゴイルは、あの住宅!?晩年の<ロンシャンの教会>に見られるガーゴイルをアレに例える!?大嶋さん独自のマニアックな視点と分析が今回も目白押しです。お楽しみください。

東方への旅

 
 今回は、いよいよ近代建築に、ガーゴイルを復活させ、世界中に広めた功労者、ル・コルビュジエ(1887-1965)。真打登場です。
 1911年、23歳の若きコルビュジエは、半年かけて、東欧、トルコ、ギリシアを巡る旅に出た。イスタンブールでは、<アヤ・ソフィア聖堂>を訪れ、
 

『気違いじみた大架構、内部空間の壮大なふくらみは四つのペンデンティヴでつながれた二重のアーチを高く押し上げている。その下に冠状の無数の窓から射しこむ水平な光、穹窿、荘厳な深奥部(ジロン)。二つのもの、内陣と巨大なフォーラム。そして度外れたひろがりを持つ半球は、奇蹟を、人類の傑作を声高に主張している。西暦五百年に、自らの夢を完成させるために、前例のない構築法と、推力を解決する構造を創造したミレトスのイシドロスとトラレスのアンテミオスの功績を称えよう。』(ル・コルビュジエ著 石井勉 他 訳 東方への旅 Le Voyage d’Orient 鹿島出版会1979 原著1966)

 
と、大絶賛。
 

『僧院(注:アヤ・ソフィア聖堂)の外部は、・・・高く伸びた突出部や、付け加えられた扶壁、凱旋門式アーチの上部、円屋根などは、そばで見ると空をさえぎり、驚異的な集塊を形成していた。』(同上)

 
と、見上げたその目は、壁面から飛び出す数多くのガーゴイルが映っていたことだろう。
 
 この、ガーゴイルたちは、5世紀に<アヤ・ソフィア聖堂>が建立された当時からあったものではないと思うが、少なくとも現在も我々の眼にみえるガーゴイルは、16世紀オスマントルコの宮廷建築家、ミマール・スィナン(Koca Mimar Sinan 1489-1588 )による、大規模修復時のものか、その後、スィナンのデザインを忠実に踏襲して取り替えられたものであるのは確かだと思う。スィナンや、その弟子たちの、初期オスマントルコ建築の黄金時代を担った建築家の設計したモスクには、同系統のデザインのガーゴイルが取り付いている。それらは、マッシブで、無装飾なもの。偶像を否定するイスラムの教えからして、魑魅魍魎たちが生息することは論外としても、幾何学装飾もないあっさり系。戦後、コルビュジエ建築に現れるガーゴイルに近いデザインである。
 
 ゴシックの大聖堂の時代、わが世の春を謳歌したガーゴイルの魑魅魍魎たちは、15世紀に入り、ルネサンスの時代になると、歴史の表舞台から消え、過去の遺物となる。それどころか、“ゴシック(Gothec)”という呼び名自体、“ゴート人風の”という意味で、ルネサンス期に名付けられた、「我々の古代ギリシア・ローマの流れを汲む、正統的で文化的なものではなく、ゴート族、すなわち、古代ローマを滅ぼした、北方ヨーロッパの野蛮人が作ったものだ」といったニュアンスの、はっきり言って悪口というか蔑称であったものである。(これは当然、歴史的事実としては間違っている。ゴシック建築の成立はゴート族滅亡後6~700年も後のことである。)

ビザンチン建築の名作、イスタンブールの<アヤ・ソフィア聖堂>(532-537/設計:Isisore of Miletus(生没年不詳) & Anthemius of Tralles(474-534))南西側の立面を見る。(photo=大嶋信道)

 

<アヤ・ソフィア聖堂>の北西側エントランスにあるガーゴイル。若きコルビュジエもこれを見上げていたことだろう。(photo=大嶋信道)

 

<アヤ・ソフィア聖堂>のガーゴイル詳細。(photo=大嶋信道)

 

<スレイマニエ・ジャーミイ>(1550-57/設計:Koca Mimar Sinan(1489-1588))の立面を見る。回廊上の大アーチ上部にガーゴイルが並んでいる。(photo=大嶋信道)

 

<スレイマニエ・ジャーミイ>のガーゴイル詳細。(photo=大嶋信道)

コルビュジエ最初のガーゴイル
 

コルビュジエの作品の中で、最初のガーゴイルは、<レ・マットの家>(1935)で使われたものである。より正確にいうと、「コルビュジエ全作品集」のなかで確認できる、一番早い時期のガーゴイルがこれ! ということなる。というのは、この作品以前も、ノコギリ屋根や連続ヴォールト屋根の建物をコルビュジエは設計しているが、内樋部分の水下側がどうなっているかはわからないし、そこが写っている写真は作品集には掲載されていない。 
 
「コルビュジエ全作品集(Œuvre complète)」というのは、コルビュジエ自身も編集に深く関わった全8巻の作品集で、第1巻が出たのは1930年、コルビュジエが43歳の時である。順次発刊されて、コルビュジエの生前には第7巻まで出版され、没後の1970年に最終巻が出版された。(日本語版は、A.D.A.EDITA Tokyo 1977. 今でいうならば、公式ホームページの書籍版といったところか。) よって、掲載されている写真のアングルもコルビュジエ自身が厳選したものであるので、見せたくないアングルの写真は、当然載っていない。<レ・マットの家>で、ガーゴイルが写っている写真を掲載したということは、コルビュジエ自身がこれを選んだということに他ならない。
 
 <レ・マットの家>は、超ローコスト住宅で、コルビュジエ事務所が現場監理する交通費も出ないという、厳しい予算の計画だった。それでもぜひコルビュジエの設計した住宅に住みたいという施主の熱意に絆されたのだろうか、コルビュジエは、図面だけ描いて、監理はしない。工事は、地元の村の小さな建設会社に任せきりにするという条件でこの仕事を引き受けた。設計は、地元で取れる石積の壁と、村の大工さんでも出来る、根太天井の木造軸組とユニット化された木製カーテンウォール、屋根は波板スレート葺きと、コストダウンにこれ努め、間取り的にも、廊下や内部のドアが一切なく、全ての部屋に、濡れ縁から直接入る形式にして、建坪と造作工事を削っている。コルビュジエは、完成するまで、一度も見なかったこの建物の出来映えに大変満足し、小さな住宅にも関わらず、自身の「全作品集」第3巻に6ページにわたって掲載された。

 さて、<レ・マットの家>のガーゴイルだが、バタフライ屋根の谷樋の両側に取り付いている。これは、コルビュジエがデザインしたものではなく、現地の建設会社が機能上、必要に駆られて取り付けたものだと思う。しかし、全作品集に掲載されたコルビュジエのスケッチ(多分、建物完成後に描かれたもの)には、実物より吻の部分が長いガーゴイルが描き込まれている(図1)。 このプロジェクトによりコルビュジエは、ガーゴイルの造形的魅力に開眼し、若いころ見た、<テオドール・フィッシャー>のガーゴイル(連載第2回参照)や、<アヤ・ソフィア聖堂>の記憶が呼び起こされたのかもしれない。そして、<レ・マットの家>の完成から20年後、大戦をはさんで、<ロンシャンの礼拝堂>が世界中に衝撃を与えた。

<レ・マットの家>(1935)外観。<レ・マットの家>、別名「六分儀の家(Villa la Sectnt)」は、コルビュジエ全作品集では、作品名はマート(オセアン)の家(Maison aux Mathes(Ocean))となっている。赤丸の部分が、全作品集のなかで最初に現れるガーゴイル。この建物は、夏の別荘として建てられた。個室は大変狭く、それに比べて屋根に覆われた外部空間が非常にゆったりしている。[引用出典=「ル・コルビュジエ全作品集 第3巻」(編:Max Bill, Le Corbusier/訳:吉坂隆正/1978/原著1939)]

 

 

全作品集に掲載された<レ・マットの家>のコルビュジエによるスケッチ。実物より長めにガーゴイルが描かれている。[引用出典=「ル・コルビュジエ全作品集 第3巻」(編:Max Bill, Le Corbusier/訳:吉坂隆正/1978/原著1939)]

<ロンシャンの礼拝堂>のガーゴイル

 
今でこそ、晩年のコルビュジエ作品を含めてコルビュジエの全作品を俯瞰して観るなかに、“傑作”<ロンシャンの礼拝堂>がある、という感じだが、戦前の“白いモダニズム”の旗手としてのコルビュジエのイメージを持っていた人が、大戦中、情報が遮断されていた後に、世界中に配信された、この建物の写真を見たとき、どう受け止めただろう。
 
 たぶん“わけわかんねー!?”というのが大方の印象で、中には“コルビュジエさん、頭おかしくなったんとちゃう?”と思った人もいただろう。
 
 また、敬虔なプロテスタントの家系に育ち、不可知論者であったコルビュジエが、“なんでカソリックの礼拝堂?”という疑問もある。筆者も長らく疑問に思っていたが、近年邦訳された、コルビュジエ事務所でコルビュジエの右腕であったヴォジャンスキーの回想録にこのあたりの事情が描かれているので、少し長いが引用する。

 
 
 
 
 

 
 

 『ある日、彼は私を自宅に呼びだした。彼は私にこう言った。《クチュリエ神父というお方が、私と昼食を共にしに来られるのだ。わたしたちは、神父が私に建ててもらいたいと思っているが私自身は断っている例の礼拝堂のことについて話し合わなければならないんだ。だからヴォジャンスキー、君も来て、昼食を一緒にとってくれないか》。
 私はこの日の、異様な会議に同席したのだ。私はこの会議のことを思い出すといつも身震いする。私自身は何も言わなかった。私は、大理石のテーブルの端にすわり、右側には豪勢な白い法衣を着たクチュリエ神父が、左側には壁を背にして、自分の主張を押しとおしているル・コルビュジエがいた。《私には権利がありません! カトリック教徒の建築家を雇ってください》。だがクチュリエ神父は、ル・コルビュジエに依頼するという決定が、ル・コルビュジエが宗教心とは関わりのない人間であるという事情をよく知ったうえで下されたことを説明した。最後に神父は彼にこう言ったのだ。《しかしル・コルビュジエさん。あなたがカトリック教徒でないことなど私にはどうでもいいのです。わたしたちには、偉大な芸術家が必要なのです。礼拝堂にやって来る信者たちにあなたが体感させるであろう美という名の強い感性によってこそ、信心深い人々が、自ら求めにやって来るものを見いだすことが可能になるのです。建築芸術と霊感とがひとつにまとまり、カトリック教徒の建築家に頼んだよりもはるかに見事に、私たちの目的が、あなたによって達成されることになるのです。あなたと違って彼は、元の教会堂そのままの模写物をつくり上げることが使命だと思い込んでいるからです》。ル・コルビュジエは数秒間じっと考え込んでいた。そしてこう言ったのだ。《分かりました。引き受けましょう》。こうして彼はロンシャンの礼拝堂をデザインしたのである。』
 
(アンドレ・ヴォジャンスキー著 白井秀和 訳 ル・コルビュジエの手 Les mains de Le Corbusier 中央公論美術出版 2006, 原著1987)

 
 

<ロンシャンの礼拝堂>
のガーゴイル

 
ロンシャンの礼拝堂>、正式名称:ノートルダム・デュ・オー礼拝堂(Cappelle Nortre-Dame du Haut)の屋根は、蟹の甲羅をひっくり返したような形状で、屋根の雨水全部が西面のガーゴイルに導かれる。雨が降れば…… 一点に集められた水のエネルギーは、長く伸びた棒状の先端から奔流となってほとばしる…… と書いていてすごく恥ずかしい。聖母マリア(Nortre-Dame)に捧げられた礼拝堂なのに、この男性原理丸出しはいかがなものか…… とも思うが、とにかく、発表されてすぐ、<ロンシャンの礼拝堂>は、賛否両論、大変話題になり、この露骨な男性原理も、一部の建築家たちには、大いに“受けた”。本来、モダニズムの美学とは相容れない(と思うが)ガーゴイルが、世界中のモダニズム建築に、ボコボコ付くという、一時的なブームも起こった。(ただ、大抵は出来の悪いエピゴーネンだったため、長続きはしなかったが。)
 
 
<ロンシャンの礼拝堂>が、現代建築に与えた影響は、パブロ・ピカソ「アヴィニョンの娘たち」(1907)が現代美術に与えた影響に比較されるであろう。ピカソの絵が、キュビズム以降のモダン・アートの流れのおおもとになり、アフリカ美術や原始美術など、人間のもつ原初的なエネルギーのようなものを取り入れることにより、豊饒な土壌を獲得し芸術の概念を広げたのと同様に、ロンシャンの建物は、荒々しい打ち放しコンクリートを前面に押し出すニュープルータリズムや、力学と有機的曲面のダイナミズムで建築を造形する構造表現主義の源流となり、また、ガーゴイルの表現に代表される、原初的なエネルギー感と現代建築の表現をつなげる架け橋を築いた。
 
 コルビュジはこう語っている。

「形態は感動を呼び起こす力をもつ。プロポーションのわざにより、予期せぬ関係性の戯れにより、そこに驚くべきすばらしさが……生まれる。同時にまた、知的な演出がめざすもの - 確たる宇宙の根源、永続性、構造組織、抜目のない機敏性、大胆さ、あるいは無鉄砲 – すなわち建築を形づくる本質、こうして活気あふれる抽象化への道がひらかれていく。」ル・コルビュジエ「ロンシャンの教会」 Architectural Press 1957 (ルコルビュジエの建築-その形態分析 Geoffrey H Baker著 中田節子訳 鹿島出版会 1991より引用)

 
 
 

<ロンシャンの礼拝堂>(1955)北側立面。<ロンシャンの礼拝堂>は、見る角度によって表情が異なる。この面は、よく見かけるアングルの反対側。ガーゴイルが一本だけドドンと飛び出す。(Photo=Rory Hyde)

 
 

<ロンシャンの礼拝堂>ガーゴイル詳細。通称“象の鼻”。アップで見ると、鼻の穴も2つあり、“象の鼻のまんまやん”と、大阪弁でツッコミを入れたくなるほど、具象的なデザイン。

ガーゴイルの下には、コルビュジエがデザインした打ち放しコンクリートの楕円の水受けがある。水受けは二層になっていて、地上レベルから上が浅い池で、ピラミッド状の角錐が立っている。地下部分は高さ2メートルの水槽で、逆円錐の部分が、地下水槽につながっていて、雨水利用のエコを実践している。しかし、写真や図面を見ていて、ガーゴイルの水はうまくこの部分に入るのだろうかというのが、筆者の昔からの疑問である。日本だったら、大雨の時は、雨水は勢いが付いて、水受けの外側に飛び出すし、小さい雨の時は、水はガーゴイルの先端の真下の少し内側寄りに落ちるので、内側に外れる。どのような状況でもここに100%命中させなければならないとしたら、的が小さすぎるんじゃないかな、と思うし、男性の読者なら感覚的に共感していただけると思う。(Photo=Rory Hyde)

<ラ・トゥーレット修道院>とインドのガーゴイル

 

<ラトゥーレット修道院>外観。『ある日、訪ねてきた客が修道院の長でもある管区長に、「院長、表の正面を飾るために彫刻を寄進いたしたいと存じます。」と申し出たのに対し、管区長の答えは「その表とはいったいどこにありますか」だった。』(ル・コルビュジエ全作品集 第7巻 邦訳1977/A.D.A.Edita tokyo)より
作品集の解説に入れるぐらいなので、このエピソードは、コルビュジエ自身も結構気に入っていたと思う。(Photo=Pedro Varela)

 

<ラトゥーレット修道院>のガーゴイル。(Photo=Jean Baptiste Maurice)

 

<チャンディーガルの高等法院>(1955)外観。5階建ての巨大な庁舎建築の両妻面から飛び出す、コルビュジエのガーゴイル。大雨の時の迫力は、那智の滝か華厳の滝といった風情ではないだろうか。

 

<ジョーダン邸>(1956/アメダバード)複雑なスキップフロアの構成を持つ4層の住宅で、やはり遮熱のためにコンクリートの屋根スラブを屋上から浮かせて配置している。建物の4方に飛び出すさまざまなガーゴイル。

<チャンディーガルの美術・建築学校>(1950)中庭外観。学校の性格上採光を重視したアトリエ、教室が並ぶ。への字を天地逆にした屋根は、軒が高い方がはめ殺しの採光窓、低い方が換気窓になっている。間をつなぐ天井の低い部分の陸屋根の排水のためにガーゴイルが並ぶ。(photo=堀啓二)

 

<チャンディーガルの美術・建築学校>(1950)中庭外観。ガーゴイル越しに採光窓を見る。(photo=堀啓二)

 

<サラバイ邸>(1955/アメダバード)南西側ファサード。インドの気候に適応するよう風が通り抜けるコリドーを配し、屋根は土で覆い、植物を植えることにより、強い日差しからの遮熱、断熱を考慮している。(photo=岡村祐次)

 

<サラバイ邸>(1955/アメダバード)先のとがったガーゴイル。屋上庭園の排水も兼ねている。手前に見えているのは、すべり台。<サラバイ邸>は、未亡人と二人の息子のために建てられた邸宅で、すべり台を降りると庭のプールに飛び込むようになっている。(photo=岡村祐次)

<ロンシャンの礼拝堂>で、ガーゴイルの魅力と効果に、目覚めてしまったコルビュジエは、それ以降の作品で、じゃんじゃんガーゴイルを使うようになる。晩年のコルビュジエ建築のトレードマークといっても過言ではないと思う。 <ラ・トゥーレット修道院>では、大きいのから小さいのまで、長いのから短いのまで、ニョキニョキ状態。なんといっても男子修道院(?)。同時期に進行していた、<チャンディーガル>やアーメダバッドのインドの建物にもガーゴイル満載。自由闊達というか、やりたい放題。亜熱帯モンスーンに属する気候なので、雨季には結構雨が降る。スコールのたびに滝のように落ちる雨水をながめながら雨待ちをする、インド的情景が繰り広げられていることだろう。
 
 “コルビュジエも チャンディーガルに降る雨を、ながめせしまに、巨匠となるらん”
 

著者略歴

 

大嶋信道(おおしま・のぶみち)
 
1960年鳥取県倉吉市生まれ。1984年武蔵野美術大学造形学部建築学科卒業。建設会社勤務を経て、1990~94年東京大学生産技術研究所藤森研究室。1991年大嶋アトリエ設立。2003年より武蔵野美術大学非常勤講師。著書に『建築虎の穴見聞録~訪ねて歩く材料と工 法』(新建築社)『藤森流自然素材の使い方』(彰国社)。1999年「倉吉の町屋」で鳥取県景観大賞を受賞。また、「一本松ハウス」、「ニラハウス」、「ツバキ城」等の設計・監理として、藤森建築の実現を担う。

 

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