連載

木岡敬雄の

雨が育てた日本建築

(2022.02.01)

VOL.9 宇佐神宮本殿に見る雨の道


雨樋が物語る神宮の歴史

 

はじめに

 第7回の連載で戦国時代末期の樋として南蛮寺の金属製の樋について触れましたが、同時代の樋で現役のものが存在します。京都の西南、桂川と宇治川や木津川の合流点に近い男山山上に鎮座する石清水八幡宮本殿の樋がそれで織田信長が寄進した黄金の樋と伝えられています。実際は金箔押しで仕上げた青銅製の5本継ぎの樋で長さ約21メートル、太さ約50センチメートルもある巨大な樋です。この様な樋が必要であったのも石清水八幡宮本殿が幅11間もある切妻屋根が前後に相接する八幡造りの建物のためで樋はふたつの屋根の間に谷樋として掛けられています。
 
 八幡神社は全国に約4万社あると言われていますが、現存する八幡造りの本殿は石清水八幡宮を含めても4つしかありません(注1)。この様に特殊な八幡造りのはじまりとなったのが宇佐神宮本殿です。
 

注1:現存する八幡造りの本殿は石清水八幡宮以外に大分県宇佐市の宇佐神宮と同県の大分市の柞原(ゆすはら)八幡宮、愛媛県松山市の道後にある伊佐爾波(いさにわ)神社の4つのみでともに江戸時代の建物です。宇佐神宮の本殿が独立した3棟の本殿からなるのに対し、石清水八幡宮以下は各本殿の規模が小さくなり横に連結した桁行の長い建物で、石清水八幡宮が幅11間、伊佐爾波神社が幅9間、柞原八幡宮が幅5間と相違がみられます。

 


宇佐神宮

 
 九州は大分県の北部、国東半島の付け根に当たる宇佐市に宇佐神宮はあります。神宮は南と東を山に囲まれ、北と西は瀬戸内海の周防灘に注ぐ寄藻川に限られた地にある小高い丘の小椋山を中心にあります。東西に長い山頂にある上宮は南を正面として回廊に囲まれ3棟の本殿が並んでいます。本殿は西側から順に一之御殿には八幡大神が、二之御殿には比咩(ひめ)神、三之御殿には神功皇后が祀られています。小椋山周辺には下宮のほか若宮社や春宮社をはじめ幾つもの社殿が存在し、小椋山北麓にある菱形池と寄藻川の間にはかつて広大な寺地を占めた神宮寺の弥勒寺(注2)が存在していました。
 
 宇佐神宮の創建については不明な点も多いのですが、当地を古くから支配していた豪族の宇佐氏が祀る神をもとに大陸から渡来してきた人々が祀っていた神などが融合した八幡神を祀る神社として創建されました。当初から大陸由来の道教や仏教の影響を強く受けており、仏教色が顕著な神として知られています。神宮の歴史を記した縁起では神亀2年(725)創建と伝えられており、正史である『続日本紀』の記載からも奈良時代の創建は間違いありません。創建後も何度か社殿の所在地を変えており最終的に現在の地に遷宮したのは奈良時代末の延暦元年(782)と伝えられています。聖武天皇の病気平癒や東大寺大仏造営に助力するため託宣を発して奈良へ遷座したりするなど朝廷との結びつきも強く、平安時代になって八幡神に天皇家の祖先にあたる応神天皇が仮託され国家鎮護の神宮として重要視されてきました。
 
 貞観2年(860)には宇佐神宮より八幡神を勧請した石清水八幡宮が創建されると京の都を鎮護する神社として貴賤の崇敬を受けました。さらに鎌倉時代に源頼朝によって新たに石清水八幡宮より八幡神が勧請され鎌倉に鶴岡八幡宮が創建されると武家の躍進とともに鎮守社として全国各地に八幡神社が造られていきました。これらすべての八幡神社の総本宮となるのが宇佐神宮です。
 

注2:神宮寺は神に奉仕するために営まれた寺院ですが、神に仕える僧侶である社僧の存在など神社と神宮寺の関係は複雑です。宇佐神宮の神宮寺である弥勒寺の起源は神宮創建以前からあった寺院にあり、神宮創建直後の天平13年には朝廷から経典と僧侶に加え三重塔建立が許されており東西両塔のある薬師寺式伽藍の寺院として創建されました。平安時代にはさらに多宝塔などが新たに建立され広大な寺観を誇っていましたが、中世以降は寺領を失い戦国時代には宇佐神宮共々焼き討ちにあうなどして江戸時代には幾つかの建物が再建されたものの往時の姿から遠く、明治維新後は神仏分離令によって伽藍は失われてしまいました。

 


宇佐神宮本殿の建物

 
 宇佐神宮の本殿は正面が3間に奥行が2間の内院と同じく正面3間に奥行きが1間の外院のふたつの切妻屋根の建物を南北に並べた双堂形式の建物で 「八幡造り」と称されています (図1 )
 

図1:宇佐神宮本殿
宇佐神宮本殿を南西から見たところ。檜皮葺きの切妻屋根の建物が前後に並び、谷樋下の造合によって一体化した特異な形の本殿であることが良く分かります。本殿の柱は背の低い白い亀腹上の礎石から建ち、木部は軒裏を含め弁柄と朱を混ぜて彩色されています。本殿の周囲には高欄付きの縁が廻り、要所には飾り金物が取り付けられ金色の谷樋と竪樋と共に華やかな印象を与えます。(作画:木岡敬雄)


 
 宇佐神宮では同形の本殿が東西に3棟独立して並んで建っています。拝殿に相当する申殿 (もうしでん )と呼ばれる建物などを囲むように回廊が廻り、南正面には勅使門である2階建ての南中楼門があります (図2 )
 

図2:宇佐神宮上宮の配置図
宇佐神宮本殿のある上宮の社殿配置図。周囲を回廊で囲まれた中に西側から八幡大神を祀る一之御殿、比咩神を祀る二之御殿、神功皇后を祀る三之御殿と3つの本殿が並立しています。本殿の周囲には拝殿に相当する申殿の他に各本殿に属する末社が建ち並んでいます。回廊の四面には門が設けられていますが、南面の南中楼門と西面の西中門が特に重要視されています。(作図:木岡敬雄)


 
 3棟の本殿は基本的に同じ形ですが申殿が接する二之御殿を除いて他の2棟の南側には本殿周囲に廻らされた縁に上がるための階段とそれを覆う向拝の屋根があります。内院と外院とも屋根には千木や鰹木などはなく棟は木を組んだ上に銅板で覆った箱棟です。ふたつの切妻屋根の軒が接する部分には金色に仕上げた銅製の谷樋が掛けられ屋根に降った雨は谷樋から本殿左右にある竪樋を通して外へ流れ出るように造られています (図3 )
 

図3:宇佐神宮本殿の谷樋と竪樋
宇佐神宮本殿は3棟の本殿が独立して建っているため谷樋もそれぞれ別々に作られています。各本殿間では1本の竪樋を共用して雨水を地面に放流するように作られています。(作画:木岡敬雄)


 
 北寄りの内院は正面1間分を扉とするほかは壁で囲まれた閉鎖的な建物です。これに対して外院は正面3間とも蔀戸が吊るされ、側面は壁ですが背面は仕切りのない開放的な建物です。ふたつ建物の間の樋の下は造合 (つくりあい )とも称され東西には出入口の扉が設けられています。このため本殿への出入りは通常と異なり建物の正面ではなく両側面の扉が用いられています。
 
 本殿内部を見ると外院と造合の部分は同じ高さに床板が張られており、内院の床はそれより長押一段高く張られています。内院内部には神の験 (しるし )である薦枕 (こもまくら )を安置する御床 (おんしょう )と呼ばれる帳台が置かれています。御床は塵除けの天井がある寝台で周りを帳で囲み内部には畳が敷かれています。外院にも大きさは少し小さいものの同様の造りの帳台が置かれ、さらに倚子 (いし )と呼ばれる椅子が置かれています (図4 )
 

図4:宇佐神宮本殿の断面
本殿の断面を見ると幅2間の内院と幅1間の外院との関係が良く分かります。ふたつの建物の間にある造合は外院と同じ高さに床を設け一体化されていますが、天井は内院と外院が共に格天井であるのと異なり棹縁天井で高さも低く格を落とした造りになっています。本殿内部は非公開なので推定ですが内院と外院に置かれた帳台を点線で示しています。(作画:木岡敬雄)


 
 現在の本殿は江戸時代末期の安政6年 (1859)から文久元年 (1861)にかけて造営されたものですがこの様な本殿が成立した背景はどこにあるのでしょうか。
 

八幡造りの成立

 
 神を祭祀する構築物や建造物は縄文・弥生時代から何らかの形で存在していたことは間違いありませんが私たちが目にする神社本殿の成立は意外に遅く仏教が伝来した6世紀中ごろから7世紀後半以降とする説が有力視されています。仏教伝来により大陸からもたらされた仏を安置する仏堂に対抗して神の住まう建物として古代の宮殿建築をもとに神社本殿が生まれたと言われています。
 
 宇佐神宮本殿を見ると 蔀戸舟肘木による簡素な組物など平安時代の宮殿建築の雰囲気が感ぜられますが、本殿内に置かれている帳台と椅子からも同様の影響を見ることが出来ます。平安時代に天皇の住まいであった内裏の 清涼殿では 身舎(もや)の塗籠に帳台が置かれ 御夜殿(よんのおとど)と呼ばれ天皇の寝室として使われていました。さらに塗籠の前にも同様に帳台が設けられ天皇の出御に際し座る椅子が内部に置かれていました (図5 )
 

図5:内裏清涼殿内の帳台
天皇の住まいである清涼殿の身舎から東側の庇と孫庇部分を示した画。身舎中央の2間四方の部屋が寝室にあたる塗籠で平安時代には中に帳台が置かれていました。塗籠の南側(画では左側)にも同様に帳台が置かれ内部には天皇の出御の際に座る椅子が置かれています。この他にも天皇が日常に居る昼御座(ひのおまし)として敷かれていた畳のほか屏風や几帳など多くの家具類が置かれていましたが説明のために帳台以外は省略しています。(作画:木岡敬雄)


 
 この様な清涼殿の 室礼(しつらい)との類似もあって宇佐神宮本殿も内院は神の寝所に外院は昼の御座所ではないかと言われています。これに加えて宇佐神宮本殿が内院と外院のふたつの建物からなることを考えると、清涼殿と同様に帳台と椅子が置かれていた内裏の正殿である 紫宸殿にも注目してよいのではないでしょうか (注3 )。天皇の住まいとなる清涼殿などと儀式のため建物である紫宸殿との関係は宇佐神宮本殿の内院と外院の関係を彷彿とさせます。平安時代の初期に八幡神が応神天皇に仮託されていることを考慮すると、八幡造りの形成に内裏の在り様が何らかの形で影響していることも十分考えられるでしょう。
 
 宇佐神宮本殿が内院と外院のふたつの建物からなる双堂形式であることから、外院を仏教建築に見られる礼拝のための礼堂の影響を見る向きもありますが、双堂形式の建物は床面積を増やす方法として仏教建築に限らず宮殿建築にも用いられており外院に置かれている帳台と椅子の存在からもその可能性は低いでしょう。
 
 いずれにしても内院が神の寝室として外院は神が出御する際の建物として造られ、ふたつの建物を神が行き来する特異な平面の本殿が平安時代初期に形成されたことは間違いないでしょう。
 

注3:現在、京都御所の紫宸殿には天皇即位の儀式に用いるための高御座(たかみくら)が置かれていますが、これは大正天皇の即位に際して新調されたもので元々は天皇が儀式に臨むための御帳台と椅子が置かれていました。

 


宇佐神宮における八幡造りの意義

 
 日本建築の優れている点として建物を長期にわたって維持するため修理や改築が容易である点があります。時代の要請に合わせて屋根や建物の平面まで変えることが可能です。八幡造りに似た谷樋のある双堂形式の建築として東大寺法華堂があります。第2回の連載でお話ししたように平安時代中頃に下から見える化粧屋根とは別に野屋根で建物全体を覆うことが可能になると、法華堂も鎌倉時代には野屋根で覆われ、双堂の時に不可欠であった谷樋は使われなくなってしまいました。八幡神社の中でも八幡造りの本殿は極めて少数です。平安時代においてさえ創建当初から流造りの屋根であった八幡神社もあり八幡造り自体は一般的とはなり得なかったようです。雨仕舞を考えれば長大な谷樋が不可欠な八幡造りは不利で他の形式の屋根に取って代わってもおかしくありません。しかし宇佐神宮では長い歴史を通していくつかの変化はあったものの八幡造り自体は維持され谷樋もその役割を失うことはありませんでした(注4)
 
 神社建築は寺院建築と異なり神明造や大社造など神社固有の建築形式が存在する点が特徴です。それらが時代の変遷にもかかわらず守り伝えられてきたのは各神社の歴史や祭祀と不可分の関係にあったからにほかなりません。宇佐神宮にとって八幡造りは八幡神を祀るに至った歴史的背景の証としてその形式を改めること自体論外であったのでしょう。
 

注4:宇佐神宮は30年ないし33年を期に本殿を新しくする式年造替の制度が平安時代初期から続いてきました。しかし室町時代以降は不定期となり中断の時期も多くみられるようになります。式年造替の過程で多少の変化があったことは史料からも指摘されていますが、八幡造りについてはそのまま引き継がれていきました。

(きおか・たかお)1957年東京生まれ。1982年武蔵野美術大学造形学部建築学科卒業。同年、宮上茂隆の主宰する竹林舎建築研究所に入所。1998年竹林舎建築研究所代表に就任。日本建築の復元と設計に当たる。主な仕事に、掛川城天守復元、大洲城天守復元、建長寺客殿得月楼設計、岐阜市歴史博物館「岐阜城復元模型」監修、東映配給映画「火天の城」建築検証、NHK大河ドラマ「真田丸」大坂城CG監修。主な受賞に、大洲城天守復元で「第1回ものづくり日本大賞内閣総理大臣賞」「日本建築学会賞(業績部門)」など。