取材日:2021年9月30日

インタビュアー:真壁智治、編集:大西正紀
写真提供: kwhgアーキテクツ
2023/9/29   

社会の中に余白を生み出す図書館
竣工から10年の「武蔵野プレイス」を観る

 
— 今回からの建築家へのインタビューは、学会作品賞のその後というテーマを持つ回を設けることにしました。その1回目として比嘉武彦さん、川原田康子さんが設計をされた「武蔵野プレイス」を取り上げたいと思います。公共性の強い施設からから生まれてきた新しい革新を検証して、共有していきたい。まず、ここでの根底にあるのは公共施設の箱物からの脱却です。「せんだいメディアテーク」(2000/伊東豊雄)、「金沢21世紀美術館」(2004/妹島和世)、「横須賀美術館」(2007年/山本理顕)、そしてその後2011年に「武蔵野プレイス」が出てきます。プロポーザルコンペは2004年にありましたから、まさに脱箱物の時代の中で考えられてきたわけです。
 「武蔵野プレイス」についてうかがう前に、まずお二人の出自や長谷川逸子さんの事務所での話をうかがいたいと思います。比嘉さんは、長谷川事務所へ勤めることになった経緯はどんなものでしたか。
 
比嘉:まさに偶然みたいなものでした。京都の大学では真の建築家は就職なんてするものではないと教育されていたので(笑)、卒業後、身ひとつでバイクに乗って東京に出てきました。ヨーロッパ旅行をする資金を貯めるために、築地で時給の高いバイトをしてたのですが、そのとき泊まっていた友人宅の近くに 象設計集団が事務所を構えていました。何回か遊びに行っていたら、ある日代表の 樋口裕康さんに、 「湘南台文化センター」というコンペが建築雑誌に発表されたんだけど、ちょっと見てこいと言われまして。その場で、樋口さんが長谷川さんに電話をして、僕は強制的にバイクで長谷川事務所へ(笑)。
 行ってみると所員の方から、バイトをしないかと誘われました。築地のバイトはマグロの解体みたいなもので、ものすごく朝早いので、午後ならできるということで、 1週間ほどヘトヘトになってやっていたら、「君は湘南台こども文化センターの担当ね」と長谷川さんから言われて(笑)、あれよあれよと知らないうちに巻き込まれて。すぐいなくなるつもりが、気づけば10年以上経っていました。
 
川原田:私は東京の学校でしたので、学生時代に当時注目されていた長谷川さんの事務所にアルバイトに行くようになりました。長谷川さんは当時、篠原先生の影響を受けたようなものからガラッと作風を変えたころで、非常に魅力を感じていました。
 
比嘉:当時の長谷川事務所はすごく活気がありました。通りすがりのいろんな人を捕まえるような感じで、長谷川さんは、なんというかサーカス団の団長みたいで(笑)。
 

公園と一体となった「武蔵野プレイス」。

     
— 「武蔵野プレイス」誕生の発端は、2004年に行われた武蔵境新公共施設の設計プロポーザルコンペでした。北側の公園を含めて5000平米の国有地。何よりも特徴的なのは、図書館機能に合わせて、市民活動支援機能、生涯学習支援機能、青少年活動支援機能などを、複合的な施設に練り上げていくことを求められたものでした。そこにお二人は“人が集まる広場”のような場をつくろうと提案されたわけですが、竣工したのが2011年。結構時間がかかりましたね。
 
比嘉:ひとことで言えば受難のプロジェクトでしたね。 2004年にプロポーザルがあった直後に、市長が変わりました。前市長の肝入りのプロジェクトだったのですが、次の市長は選挙のときの公約でこのプロジェクトの見直しを掲げていたので、いきなり向かい風のスタートとなりました。前の市長のもとでつくられた基本設計はボツにされて、新しい案を作成しました。けれども、いわゆる議会のねじれがあって、その案は否決され、三たび案のやり直しを求められました。そこに市民の反対運動なども起こってしまって、案の良し悪しというこことは別な次元で、政治の渦に巻き込まれてしまいました。さらには姉歯事件の関係で、適判が全く下りないという時期で、なんとしても期日内に間に合わせてほしいと。そのためには建物を単純化して、適判を一発で通るようなものしてくれと。そういうわけで最終案はストラクチャーが厳格にグリッドに載ったものになりました。前代未聞な経験でした。
 
— 時間が単純にかかったというだけではなく、ある種の向かい風が加わった。でもプログラムそのものが改変されることはなかったのですね。
 
川原田:縮小され、今言ったような構造を単純化するような流れはあったのですが、 4つの施設を融合してそれぞれの垣根ができるだけない形でつくるという基本的なところは変わりませんでした。そこは一貫していましたね。

比嘉:市の体制がめまぐるしく変わるので、最初から継続しているのはわれわれだけということもプラスにはたらいたかもしれません。

比嘉武彦
(ひが・たけひこ):建築家。1961年沖縄県生まれ。86年京都大学工学部建築学科卒業。86~04年長谷川逸子・建築計画工房勤務。01~04年比嘉武彦建築研究所主宰。05年川原田康子とkwhgアーキテクツ設立。

川原田康子
(かわはらだ・やすこ):建築家。1964年山口県生まれ。87年早稲田大学理工学部建築学科卒業。87~98年長谷川逸子・建築計画工房勤務。99~04年KwhDアーキテクツ主宰。05年比嘉武彦とkwhgアーキテクツ設立。

LINK:http://kwhg.co.jp/

新たな図書館の自由

 
— 2011年5月号の「建築雑誌」で、比嘉さんたちは武蔵野プレイスを設計するにあたって、「建築と社会の交点となりうる」という視点を述べられていて、その“使い手の意識への自覚”が明確に示されています。公共性を再構築し、同質性から多様性、市民の溜まり場を狙っていた、というわけです。そこには「新たな図書館の自由」という発言もあるのですが、このプロポーザル案の骨格についてお話いただけますか。
 
比嘉:まず、完成したものは 4層なのですが、プロポーザル案では、もっと低層を提案していました。そこから形は変わっていったのですが、ただ「プレイス」という理念と、隣接する公園と一体化しようとする趣旨は一貫していました。
 
— 手前の公園が原っぱのようになってるところが、素晴らしいですね。まさにあの施設を生かしています。
 
川原田:建物はできるだけ低くして、北側は光の当たる公園にしようということが、最初の発想の主なところです。プロポーザルで他の案は地上に大きく建てるというのが多かったので、そういう中では突出した低さの案だったと思います。
 
— そしてポイントはやはり建物の中にあると思います。そこでさらに他の案との差異がついたのかもしれないです。4つの機能をコンバインさせることは、当初から求められていたんですね。
 
比嘉:図書館を中心とする公共施設の複合化は、今では普通のことになりましたが、当時はあまり例のないものでした。
 
川原田:通常、公共のプログラムには、外部コンサルタントが基本計画に入っているということが多いのですが、武蔵野市の場合は課をまたいだ開設準備担当が設けられ、類似施設のリサーチを行ったり、基本計画を一生懸命つくっていました。複合施設といっても機能ごとに分節されていて、全体として一体化する意味が発揮できるようにというコンセプトが最初から入っていました。それでも具体的な建築のかたちには至れずにプロポーザルにした感じですね。
 
比嘉:公共施設の企画は、やはりどこかに丸投げするのではなく、市の内部で企画するのがいいと思いますね。武蔵野プレイスでは途中で一時期、外部のコンサルタントを導入したのですが、結局うまくいかず、財政の面でも後から批判が出ました。外部に委託する予算があれば、市の担当者たちでいろいろな施設を見学したり、あくまで限定的に第三者に提案を依頼したりというかたちがよいのではと思います。そういうプロセスは市の方の熱意を醸成するという意味もあって、よい結果をもたらすと思います。
 

自然光を避けて地階にあるメインライブラリー。


— 市長が変わったとはいえ、縦割りでつくられていなかったから、良い結果がつくれたのですね。
 「建築雑誌」の2016年8月号に、気になる発言がふたつありました。ひとつは、「他者との関係性を、建築によって穏やかに非周期的にチューニングすることができないか」と書かれていること。もうひとつは、「他者と共にいることが心地よく思える状態、緩やかに相互浸透し合える状態、いわば他者の共鳴、ポリフォニーといったものをつくり出すことができないか」と。このふたつの命題が整えば望ましい公共性を得ることができるという信念が語られています。
 
比嘉:いきなり本質という感じですね(笑)。まず、公共性ってどういうものかという話を最初によくしていました。当時武蔵野市はとても頑張っている自治体という認識がありました。たとえばコミュニティバスをはじめたのは武蔵野市だったり。町内会というものを廃して、その代わりにコミュ二ティセンターを設立したりもしました。コミュニティという概念を全国に先駆けて導入したのも武蔵野市だといっていいでしょう。しかしこれだけ気合を入れてやっているのに、利用率を調べてみると、ユーザーが偏っていて、年齢層も高く、特にティーンエイジャーはほとんど使ってない。その裾野を広げるにはどうしたらいいのか?という当時の市長からの投げかけがスタートでした。それで、じゃあ若者は一体どこにいるのかと調べてみたら、彼らはたとえばショッピングモールの地下のフードコートとかにいるのですね。彼らをどう引きつけるのかということを大きなテーマとすると、これまでの公共性という概念自体を変えていなくてはいけないと感じました。
 

 
比嘉:当時は公共論が盛んで、たとえば 齋藤純一さんの 『公共性』2000年の刊行で、非常にリベラルな、公共性の普遍的な原理が書かれてます。でもそれはあまり当面の課題には応用できないというか。そこに示されている公共性ではティーンエイジャーたちは来ないだろうと。西欧的な概念をそのまま持ってきても、理念ベースにとどまってしまうというか。
 では、我々はどういう公共性を求めていくのかと。公共性のオルタナティブについて研究していくなかで最も参考になったのが、 網野善彦さんの 「無縁」という概念でした。無縁とは、ざっくりいえばいわゆるアジール、避難所という話につながります。日本の公共性のベースはむしろこっちにあるのではと思いました。一旦、世の中の時間というか空間から切断された、別なリズムに満ちた場(プレイス)をつくること。言ってみれば建築の力でアジールを立ち上げられないかというわけです。
 
川原田:話を現世に戻しますと(笑)、“コミュニティをつくる ということではないんですね。コミュニティをつくってしまうと、その外側ができてしまい、どうしても関係性が閉じる方向に向かってしまいます。たとえば既存の公民館を観察してみると、まずはグループをつくらないといけない。グループをつくってはじめてスペースを借りることができる。個人でふらっとやって来てもなかなか関係がつくれない。そうではなくて、いろんなことをしている人がいて、魅力的な活動をしている人たちがいて、グループもいろいろいて、それをはたで見ていたり、隣にいられたり、そういうゆるい場所をつくることが公共性に繋がる、というようなことを、考えられないかと。
 

地下2階は青少年しか入れない彼らのサンクチュアリとなっている。


— 高齢化や少子化により、社会的情勢は明らかに縮む社会に入っています。「せんだいメディアテーク」は、あそこに行くと高齢者も若者も多世代が出会う。その楽しみに味を占めた高齢者たちがリピーターだ、と伊東さんがおっしゃっていました。自分と他者の関係を拡張させていくことも、新しい公共性だと思います。
 
比嘉:僕らがピンときたもうひとつのものとして、 「copresence(コ・プレゼンス)」があります。これは精神科医の中井久夫さんの言葉で、「ただ共にいる」という意味です。コミュニケーションの手前みたいな状態ですね。コミュニケーションは、生まれても生まれなくてもよくて、その手前にコ・プレゼンスがあるわけです。コミュニティをつくるのではなく、ただ一緒にいること、それが大事なんだと。たとえば少し後になってから、「みんな」ということばが建築の世界で広がりましたが、ある意味で、コ・プレゼンスは、それとは対極的な考え方だと言ってもいいと思います。「みんな」は、ひとりだけぼーっとしていることを許さない雰囲気があるわけですが、ほっといてくれと(笑)。
 たとえば江戸時代の銭湯。その頃は家に風呂はないので、みんながそこへ来るわけです。江戸時代は身分社会なんですが、裸だと身分もわからなくなって、しかも湯気がもうもうと立ち上がって、誰がいるかも曖昧なわけです。魑魅魍魎たちの共存。この江戸の銭湯みたいなのがコ・プレゼンスなんじゃないかなと。ひとりでもそうでなくてもまったく違和感がない。このお湯という媒体によって、みんなゆらゆらと共に揺籃されるというか、まにまにたゆたうなかで、ある種の公共性の次元が開けていくというか。
一方で同じ時代のロンドンには、コーヒーハウス、要は最初の喫茶店がありました。そこではコーヒーを飲むこと自体はあまり意味がなくて、たとえばコーヒーを介して人々が集まって、ゴシップが生まれ、誰かがそれを記録していって、それがジャーナリズムの元となり、新聞が生まれたりしたわけです。そういう偶発性に開かれた場所だったんですね。空間的にはいろいろな仕切りやアルコーブみたいなものがたくさんあって、銭湯のような場所性をもっていたのではないかと。なんといってもコーヒーはお湯ですし(笑)。
 

吹き抜けを通してさまざまなスペースがつながる。


比嘉:それからちょっと時代が下りますが、スターリン時代のモスクワには大きな温水プールがありました。最も厳しい統制下にあったソビエトで、スターリンがロシア帝国を破壊するために、象徴的にロシア正教会の大本山を爆破したんです。(今のロシアはその真逆をいっているようなものですがそれはともかく。)
その後、建築史上有名なかのソビエトパレスのコンペが行われた。結局お金がなくて実現されることはなかったのですが、なぜかその場所に温水プールがつくられました。直径約 120メートルくらいの、巨大な銭湯みたいな感じで。そこではスターリン政権下にも関わらず、抑圧された人々が、こぞって温水プールでウォッカを飲んだりチェスをしたりして、束の間の自由を楽しみました。まさにアジールですね。
まあ、こんな調子で古今東西もっといろいろなケースをお話しすることができるわけですが、要はこういうオルタナティブな公共性のある空間を物理的なモノを介在してつくろう、それが建築なんじゃないかと。江戸の銭湯みたいに、人を「みんな圧」なく(笑)同居させるために、建築がどう媒介し得るのかということを延々と議論していました。
 
— 建築的に盛り込むべき資質として、そのことを捉えたのですね。これは新しい計画論へとつながります。使い手から計画論を組み立てていこうという視点が、素晴らしいと思いました。学会作品賞で現地審査をされた皆さんはビックリしたと思います。そこで実践されているある種の計画や設計、そして運営や利用に至るまで、すべてが今までない事例になっていたと思うんですね。
 
比嘉:ツイッターに武蔵野プレイスツイート集みたいなのがあって。オープン前夜からの数千のツイートを見ることができます。「武蔵野プレイスへの愛が止まらない」とか「ここに来るとダメ人間が直る気がする」とか、さらにはもっと分析的なことも書いてあったり、建築関係者の発想では生れ得ないような、さまざまに面白いことが書いてあって感動的でした。
 
—「せんだいメディアテーク」以降、愛される公共施設が少しずつ出てきていましたが、「武蔵野プレイス」に極まれりという感じですね。別の言い方をすると、一般の人に建築が語られる時代になりました。安藤忠雄さんの建築でも、一般の人が自分の言葉で語るということはそれほどありませんでした。「ワシが世界の安藤や」という目線からしか安藤建築を見てくれません。

原っぱの公園とつながる「武蔵野プレイス」。

「ルーム」がグルーブでつながっていく

 
— 「武蔵野プレイス」は、手前に何もない原っぱのような公園からすーっと背中を押されて建築へ吸い込まれる感覚がとても印象的でした。あのスタディはCGと模型、どちらでしたのですか。
 
川原田:基本的に模型ベースです。極めつけは原寸大模型ですね。アールの感覚をつかむために、事務所の天井につくり付けてしばらくその下で過ごしていたのですが、ある日地震でバラバラーっと落下してきたり(笑)。
 
— これも2000年に入ってからのアトリエのスタディの特徴のひとつだと思います。妹島和世さんの事務所にうかがった際に、原寸の模型をいくつか見ました。空間が持つメタ言語化、これを私は「媒介性」と言っているのですが、それを比嘉さんたちが「ルーム」と名付けられました。それは、設計当時から考えられていたのですか。
 
比嘉:「ルーム」と名付けたのはだいぶあとです。建築の世界で「ルーム」というとルイス・カーンなわけですが、そっちではなく、見知らぬ人々と心地よくいられるにはどうしたらいいかということで、柔らかく一緒に包まれるというイメージを当初から考えていました。たとえば、子どもたちがシーツに潜り込んで、ある種身体ごと包まれるみたいな遊びのように。他者同士でもフワッとした空間に同時に包まれることで、ある種の親和性が生まれる形を期待していました。それを「ルーム」と呼びました。まさに「媒介性」ですね。しかもそれは複数が隣接することで揺籃する。

川原田:公園に対してもあからさまに開くという感じではなく、適度に分節された室内の関係と延長線上に、大きな「ルーム」として考えられています。だから芝生もまるいわけです。なのですーっと吸い込まれたのではないかと(笑)。
 

開口部を介して3階から地階までがつながる。


— なるほど。4つの機能がコンバインされた場なんだけど、それが他者との関係とかいろんな距離を計測しながら、最終的に48のルームに分類していくわけですね。
 
比嘉:いろんな形をつくるというより、同じ形を反復していくことにこだわりました。僕らはこれを 「グルーヴ」という言葉で表現するのですが、あんまり伝わらないんです(笑)。
 
川原田:グルーヴを研究するために、ジェームズ・ブラウンとかも聴いてましたよね。フラメンコとかも(笑)。

比嘉:いろいろな人に、グルーブって何なんですかねって聞いてたら、あれを聴けこれを聴けとか言われて、毎日いろんなものを聴いてましたね。最後は能とか(笑)。


— 同じ形が反復していくけど、そこに非周期的なチューニングを起こしているということですね。
 
比嘉:バッハは、楽譜に書かれる一連のユニットを左右反転させたり、上下ひっくり返したりして、そうやって自在にアセンブルすることで、シンフォニックつまりは調和ではなく、互いに関係し合うのだけれども、同期しないと言いますか、ポリフォニックな音楽をつくったと言われています。そういう感じで全体を構想して、グルーブ、共鳴したりしなかったりを生み出していく感じ。だから一見同じかたちのルームが延々反復していくことがベースとなるわけです。たゆたうというか。
 
— 私はそういう場のモデルを頭の中では描いてきましたが、はじめて武蔵野プレイスへ行ったときに、ついに実空間として目にできた!と感動しました。やはりそこには“場のモデル”が強靭につくられていました。因みにあらゆる角が丸くなっていることには、どのような考えがあるのですか。
 
比嘉:蔵野プレイスは、人を包み込むというか、人を受けとめる 凹型 、似姿のようなものものとして考えられていています。ミメーシスというかミームというか。人と寄り添いつつも得体の知れないものとしてデザインされています。となりのトトロ的な。そういえば NHKの子供番組の「ミミクリーズ」とかもよく見てました(笑)。
 
川原田:再び話を現世に戻しますと(笑)、丸くすることは、人の身体、その連続性につながると考えたからでした。だから、窓の形が丸いのも、極端に言うと人は丸っこいので、その相似性というか、なじみやすいというか、そこは結構こだわったところです。そんなこともあってか、まるいかたちは子供たちを活発にするようです。エントランスでは、いつも子供たちがまるいかたちと戯れています。
 

まるいエントランスを駆け上る子供たち。


— 什器や家具のモジュールも、ディスターブしない内包されるような身体性がよく考えられていると思いました。
 
川原田:人と人がコ・プレゼンスするあり方でいられるために、家具のスケールもデザインも相当考えました。テーブルは四角ではどうしても他人と一緒に座りたくないという距離感になってしまいます。ですので、一緒に座れる、座れるけど距離があるものを目指して、丸いテーブルをデザインしました。お互いの距離感がちょうどいい径をさぐっていったので、知らない人同士でシェアしてくださっています。
 
比嘉:丸い同じテーブルにおじいちゃんと小学生と女子高生と子供を連れた主婦の方が囲んでいるような光景が日常にあるので、それを見てよく驚かれます。
 
— それは衝撃的なシーンですね。
 
比嘉:計画的、プログラム的に一番大きいのは、実は一階のカフェの存在です。最初のミッションが、今まで公共空間に来なかったティーンエイジャーをいかに引き込むかだったという話をしましたが、それを実現させるためのひとつとして、入口にカフェを計画しました。カフェがある種の敷居を下げ、そこにはざわめきがあって、カップが触れ合う音があって。クラブの雑音が入っているジャズのレコードみたいなものですね。そういう感じで人々をリラックスさせて「武装解除」させる。図書館 ×カフェがもたらす公共性は、ティーンエイジャーを含め、これまでに公共施設をあまり利用してこなかった層にも届くような力があると思います。今ではどこでもカフェを複合化するようになってしまいましたが、武蔵野プレイスは、少なくとも図書館では、ほぼ最初の事例で、その後大躍進が始まる前夜のツタヤの人たちも見に来ていたそうです。
 

図書館とカフェの融合が人々を招き寄せる。


川原田:自治体には非常に窮屈な縛りがあるので、自治体では直接はできないことが、カフェではできたりします。ワインを飲みながらパーティーをしたり、カフェオリジナルの地ビールも出しています。これまでの公共ではできなかったことが、ある程度自由にやれることで、新しいユーザーを引き込んでいきます。まさにクロッシングさせる機能を持っているんですね。「半公共性」といいますか。ここは後々深掘りしたいテーマですね。ちなみに通常ならチェーン店が入るところですが、武蔵野プレイスでは、武蔵境の近くにお住まいの方が経営する会社をカフェの運営者として選定していただくことができました。もうオープンから10年ずっとやられていて、そのノウハウのストックは他にも応用可能な貴重なエクスペリメントなんじゃないかと思います。

比嘉:そういえば先日、コロナ下にもかかわらず、この10年を振り返るカフェのトーク・イベントを、われわれも参加して行ったところです。
 
— やっぱりチェーン店ではあの雰囲気にはならないです。あのカフェに何度か行きましたが、一番感心したのは、コーヒーのお皿の底に、音がし過ぎないように、滑らないようにシリコンラバーが貼ってあったんです。その感触がなんとも身体化されて、また行きたくなるんです。あのようなことがカフェの持つ質へとつながる大切な要素ですね。
 
川原田:まさしくそうですね。雰囲気をつくると場として機能しています。

夜の訪れと共に壁と窓が反転する。

“隣の異界が共存する新しい公共性

 
— 最後に建築の新たな公共性について、改めて伺えればと思います。私は渋谷の再開発をずっと追いかけてきているのですが、どんどん同質性が高まっています。たとえば、「ミヤシタパーク」は、かつては「宮下公園」、そしてアトリエワンがデザインを手がけた平仮名の「みやしたこうえん」を経て今の姿になりました。変わる度にどんどん寛容性が失われて、完全にホームレスは追っ払われていきました。
 そういう中での「武蔵野プレイス」の持つ寛容さ、緩さは、改めて大変貴重だなと。多様性を含む、許容するような空間の質というか。あるいは柔軟性、可塑性とも言えるかもしれません。たとえば、建築雑誌の2016年8月号の学会作品賞受賞の理由が述べられている中では「界隈性を持った公共空間」と言われていました。これまでであれば、「図書館」と「界隈」とは場としてマッチングすることはありませんでしたが、しかしまさに的を得た表現を学会がしているなと思っていました。
 
川原田:ひとつの施設の中に、 478個のスペースが集合しています。それが界隈性につながっていくと思うのですが、確かにこれだけたくさんのルームが、スペースが、集まるという形式は他にはないかもしれません。
 

48のルームが関係し合う当時のスタディ例


— そのルームの一つひとつを吟味していくと、それぞれにその空間も利便性もが違いますね。
 
比嘉:色も光の状態もちょっとずつ違います。機能もちょっとずつ違って、そして隣接しています。この 478個あるということが、大事だと思っているんです。47、 8個性という概念をつくりたいくらいです。ちなみにバッハの平均律も 48曲ですね。相撲の決まり手も 48手(笑)。このくらいあると勝手にいろいろ起こるというか。姿を隠すこともできる。
 イギリスの ジョン・キーツという詩人は「たくさんの部屋が集まった大きな館」というイメージによって、 「ネガティブ・ケイパビリティ」という不確実なものを未解決のままで許容できる力について語っています。たくさんの部屋がある館、いろんな部屋にさまざまな異質なものたちが住んでいる。けれども、それをひとつにまとめずに同居させておく。このイメージが、僕たちが考えていたことと似ているなと。これは先ほどのコ・プレゼンスともつながっていると思います。
 面白い話があって、先日ある女性の方から、ずっとこの施設を図書館だと思っていなかったという話をお伺いしました。毎日のように来ているのだけど、最近までここが図書館という意識がなかったのだと。やはり形が一番印象に残るみたいで、この施設を「まるさん」って呼んでいるらしいんです。バーバパパの家にも似ていると。オバ Qとか、トトロとかにも(笑)。そういわれてみると「ルーム」を設計しているときによく言ってたのは、「ルーム」って4つの開口があって2軸対称型なので、ちょうど太い足が4つある大きな象のおなかの下にいるようなものだねと。しかも、その象たちは群れているので、いろいろな象のおなかの下をめぐっていくのだと。
 それで僕たちは気づいたんです。これってもしかしたら無縁というよりも異界といっていいんじゃないかと。だから、とりあえず今の結論としては、僕らが求める 新しい公共性 というのはいわば 隣の異界 なんだということです。隣にある異界が異質の人たちを共存させもする。
 

マネの「草上の昼食」のようなイベント時のシーン。


— それが年間200万を動員するひとつのエナジーなのかもしれません。その異界に触れに来る。異界での体験を楽しんで、また日常へ戻っていく(笑)。
 
比嘉:図書館は元々、歴史上一番古い公共施設です。でもいまだに人気のある施設で、そのこともずっと気になっていました。日本は明治維新の頃、国家をつくる際に、立派な図書館をつくりました。西欧化ですね。そして敗戦後、今度はアメリカモデルになった。アメリカが日本を 民主国家 にするための道具として図書館がフィーチャリングされました。国家や民主主義の象徴として導入されていくのですが、今の図書館は、その時代とはまた違うフェーズに入っているのではないかと。それ以前が上からの民主主義だとすると、そうではないかたちが求められている。そのとき図書館というものは再び、新しいイメージをつくり出す装置として有効なのかもしれません。とりあえず僕たちはそれを社会から少し浮遊している余白というかアジールというか、異界というか、そういったものとして構想したわけです。
 
— 抽象的な言い方をすると、無場所というか。場所性がもうちょっと抽象化されたような「場」なんでしょうか。そして、そういうものを受け止める人々、ユーザーの感覚が、着実に育ちつつあるのかもしれません。
 
比嘉:昨日、真壁さんがまとめられた書籍 『アナザーユートピア』NTT出版 /編著:槇文彦・真壁智治 /2019)を読んでみたのですが、アナザーユートピアって多分、もうひとつの公共性のことですよね。そこでピンときたのが ミシェル・フーコー「ヘテロトピア」(混在郷)でした。実は僕らが目指しているものは異質のものたちを同時存在させる「ヘテロトピア」なのかもしれないと。さっきおっしゃった無場所っていうことともリンクします。ある種の「ヘテロトピア」みたいなものが社会に必要だという感じがしますね。
 

 
— コロナ禍が常態化したとしても、やはり「武蔵野プレイス」は非常に有益なものになりそうです。ステイホームって言われたら、どんどん「武蔵野プレイス」に出かけていくような(笑)、そんなコロナ禍があってもいいんじゃないかなと思いました。他者に触れ合わない我々の日常の危うさを、コロナ禍ではみんなが感じていました。そこを救うことが公共性の施設の根本だなということをよく考えていました。
 公共性を生む場の資質を語る言葉や概念がお二人から多く語られました。「言葉」を探求して想起される場や空間を厳密に規定しようとする態度に私は大変共感を覚えました。そして、「武蔵野プレイス」の開業後の活況ぶりを見ると、お二人が想起した場が「ポリフォニー」や「ヘテロトピア」として感応され、そのこと自体が公共的価値として実感されているのでしょう。若者たちがたくさん訪れることがそれを語っているのではないでしょうか。
 今日はとても興味深い話をたくさん、ありがとうございました。