取材日:2022年5月16日

インタビュアー:真壁智治、編集:平塚桂、大西正紀、写真:大西正紀
2023/04/11  

変化の余地を織り込んだ
新しい計画論を構築する

 

山本理顕設計工場で学んだ、公共建築へのアプローチ

 
— SALHAUSのみなさんは、山本理顕設計工場の出身ですね。僕自身、山本理顕さんと藝大の大学院で同期という縁もあるので、彼にどんな影響を受けたのか大変気になります。そのあたりも含め、まずは山本理顕設計工場時代のことを入所のきっかけから聞きたいですね。
 
栃澤:私は2人より1年遅れて1999年に入所です。山本さんの建築に力を感じたこととビジョンの大きさに共感して入所しました。ちょうど「埼玉県立大学」(1999年)、「公立はこだて未来大学」(2000年)、「広島市西消防署」(2000年)といった計画が竣工前のタイミングで、期待感を持って門をたたきました。
 
日野:僕らが学生の頃の山本理顕設計工場は、集合住宅に強いという印象でした。私は建築計画の研究室に所属していたのですが、計画学の領域は、ビルディングタイプごとの最適な計画手法を求める従来の方法が曲がり角に来ていた時期でした。山本さんは計画学の理論を独自に持たれていて、概念を根本的に覆してくれるようなところに惹かれました。就職しようとアルバイトからはじまり、そのまま入所しました。
 
安原:日野とは大学院時代からの付き合いで、学年は僕の方が1年上ですが、4年生を2回やったものですから大学院を一緒に修了し、山本事務所に同期で入所しました。大学では大野秀敏先生に師事しましたので、意匠系研究室出身です。
 
東大では専門に分かれる前に1年半の教養課程があります。当時、とにかく建築に触れたくてジリジリしていた時期に初めてみたギャラリー間の建築展「山本理顕の建築 緑園都市」(1991年)が印象的でした。その後、山本さんの本を読むと、住宅というものがいかに制度に縛られているか、住宅が変われば家族も変わるのではないかと論じており、建築を通じて形態以上に、社会の構造的な問題に触れられるアプローチがあるということに感動しました。さらに僕が大学院に入ったころから山本さんは教育施設や公共建築でプランニングと制度との関係を突き詰めるような試みを続々とされはじめ、ここしかないという気持ちで入所したという経緯です。
 
— 山本さんが、それまで住宅を中心とした作品を提示しながら、建築の概念が変わらなければ社会が変わらないというメッセージが、当時の若い皆さんにきちんと伝わっていたということは感動ですね。在所中、皆さんはそれぞれどんなプロジェクトを担当しましたか。
 
栃澤:1年目は「横浜市営住宅(三ツ境ハイツ)」(2000年)の現場を初期段階から担当しました。13住区の中に22棟ある低層の集合住宅群で、中庭では畑もできるという、住宅街の中に集落を埋め込むようなプロジェクトでした。その後、しばらくコンペばかりを担当していました。さらに迫慶一郎さんの下で「北京建外SOHO」(2004年)をコンペの段階から担当し、現場常駐で2年間北京に住み、最後は中国のプロジェクトに全体的に関わりました。
 
日野:僕は「公立はこだて未来大学」の現場を最初に担当しました。次に新潟のワンルームマンション「バンビル」(2001年)に関わりました。窓辺に水まわりが並ぶ計画が特徴で、「東雲キャナルコート1街区」(2003年)のプロトタイプ的な意味を持つ集合住宅です。それからコンペをやり、中国の仕事を栃澤と2人で実働部隊として担当し、「公立はこだて未来大学 研究棟」(2005年)にも主担当として携わりました。最後は、小田原の「(仮称)城下町ホール」プロポーザルに関わり、最優秀に選んでいただいた後、退職しました。
 
安原:僕は入所してすぐに「埼玉県立大学」の現場を担当しました。今と違って現場での変更が普通に行われていたので、監理というよりも設計のやり直しのようなことをしながら巨大な現場が進んでいく状況を体験しました。それが落ち着いた後「公立はこだて未来大学」の現場を担当し、その後、コンペを片っ端からやる時期があり、ようやく1つ勝てたのが「公立和歌山創造大学(仮称)」でしたが、これは政治的な理由で頓挫しました。その後「横須賀美術館」(2007年)を基本設計から竣工まで担当しました。1つの建物の最初から最後までを一通り経験してから辞めようと思っていたのですが横須賀は5年以上かかったこともあり、トータル9年と、2人より長めに在籍しました。
 
— ちょうど山本理顕さんが公共建築をたくさん手がけるようになり、その後それが難しくなって……という浮き沈みのある時期に在籍していたわけですね。事務所の雰囲気はどんな感じでしたか?
 
栃澤:北京建外SOHOではシーラカンスやみかんぐみ、天津の集合住宅のプロジェクトでは西沢立衛さん、塚本由晴さんたちなどとご一緒したり、伊東豊雄さんの事務所と共同でプロポーザルに参加したり、コラボレーションの機会が多く勉強になりました。事務所には多くの建築家が夜な夜な出入りして、そのまま飲み会になる日も多く、それもまた刺激的でした。

安原 幹
(やすはら・もとき):建築家。1972年大阪府生まれ。1996年東京大学工学部建築学科卒業。1998年同大学院工学系研究科建築学専攻修士課程修了。1998-2007年山本理顕設計工場。2008年SALHAUS設立(共同主宰)。2011-2018年東京理科大学理工学部准教授。 2018年- 東京大学大学院工学系研究科准教授。
 
栃澤麻利
(とちざわ・まり):建築家。1974年埼玉県生まれ。1997年東京理科大学理工学部建築学科卒業。1999年同大学院理工学研究科建築学専攻修士課程修了。1999-2006年山本理顕設計工場。2008年SALHAUS設立(共同主宰)。2014-年東京電機大学 非常勤講師。2015年-芝浦工業大学非常勤講師。2021年-法政大学兼任講師。
 
日野雅司
(ひの・まさし):建築家。1973年兵庫県生まれ。1996年東京大学工学部建築学科卒業年。1998年同大学院工学系研究科建築学専攻修士課程修了。1998-2005年山本理顕設計工場。2008年SALHAUS設立(共同主宰)。2007-2010年横浜国立大学 Y-GSA設計助手。2014-2017年グッドデザイン賞審査委員。2017年-東京電機大学未来科学部准教授。
 
LINK:https://salhaus.com/

潜在的なニーズを見つけ出し、建築の形に統合する

 
— 本題であるSALHAUSの活動について聞きたいと思います。社会学者の広井良典さんが「*定常型社会」を論じていますが、それに対して建築の状況を説明できるのがSALHAUSの作品歴なのではないかと思っています。低成長、人口減少という社会背景があり、ニーズに則したバラエティが求められている中で、SALHAUSの作品は多様で、リノベーションも新築もやり、ビルディングタイプも構造も工法も食わず嫌いせずに取り組んでいくという方向性が強く感じられます。
 

*定常型社会:京都大学こころの未来研究センター教授の広井良典が唱える、経済成長を目指さずに福祉やコミュニティの充実を図ることで持続可能な社会を実現するという考え方

 
安原:SALHAUSを2008年に設立したとき、僕は35歳で、同世代の例えば 藤本壮介さんや 平田晃久さんらに比べると結構遅いスタートでした。彼らに限らず近い世代の建築家の中には、先行してマニフェストを提示してから活動を開始した人が比較的多かったと思いますが、僕らは取りあえず何でもやってみる、というスタンスで仕事を始めました。一見してダメ建築のリノベー ションや、ローコスト過ぎて木造しか選択肢がない案件など、引き合いがあった仕事にとにか くポジティブに取り組むうちに、それぞれが面白いプロジェクトに育っていき、導かれるように現在の方向性が見えてきたように思います。 そういう意味では本当にクライアントに恵まれました。
 
— 横浜・伊勢佐木町の「CROSS STREET」(2008年)あたりが端緒でしょうか。
 

「CROSS STREET」の外観(photo = 矢野紀行)


日野:そうですね。 「CROSS STREET」は私が横浜国立大学 Y-GSAの設計助手をしていた頃、 飯田善彦さんと学生たちと一緒に手がけた 「日の出スタジオ」(2008年)と神奈川大学の曽我部研究室がまとめた 「黄金スタジオ」(2008年)ができ、その流れでお声がけいただいたプロジェクトです。伊勢佐木町商店街が所有し、時間貸し駐車場として運用してきた土地を使ってにぎわいを生み出したいとのことでした。デビュー前に伊勢佐木町で路上ライブをしていた「ゆず」のようなアーティストを育てるライブハウスをつくれないか、という方針が固まった段階で、相談をいただきました。
 
栃澤:ライブハウスは閉じた箱というイメージがありますが、ガラス張りにして街に活気を与えるような、ストリートミュージックとライブハウスの中間のような建物ができないかと相談され、ライブの様子がにぎわいと相まってみえてくるような大きく開いた建築を提案しました。
 
日野:コストもかけられない、規模も小さい、地盤もよくないという条件だったので木造が最適でしたが、それまで木造はほとんどやってこなかったので、一から勉強しました。開放性とシンボル性を高めるために屋根の形も工夫して、商店街に対して高く開いた曲面屋根としました。
 
安原:木造で、ほぼ屋根だけで公共的な場を生み出せるという確信を得たプロジェクトで、そういう意味ではのちの木造の公共建築の仕事につながっていると思います。
 
日野:木造だと、肩肘をはらずに自分のものだと思ってもらいやすいという感触もあります。今も伊勢佐木町のカメラ屋のご主人が運営面のプロデュースをされていて、プロを目指す方が小さなライブイベントを催す場として利用されています。地元の方を中心とする固定ファンもついているらしく、発表や交流の場としてうまく活用されています。
 
— 独立初期の仕事では、「扇屋旅館」(2012年)も素晴らしい施設再生プロジェクトですね。
 

「扇屋旅館」の外観(photo = 矢野紀行)


安原:新潟県村上市にある老舗駅前旅館をリノベーシ ョンしたものです。プロジェクトをスタートした頃、私と同い年のオーナーが旅館の経営を引き継がれたばかりでした。その頃の主な宿泊客 は公共工事で長逗留する職人さんなどで、宴会 や仕出しは地元の人たちに大変重宝されていました。しかし、80年以上に渡って増築が重ねら れてきた旅館の建物は迷宮のようで激しく老朽 化し、10年以上先の未来が全く見えない状況で した。当初は、旅館の敷地内にオーナー家族の 住宅を新築することを依頼されたのですが、旅 館の改修も含めてひとつの建築として再生し、 次世代に残すことを提案しました。同時に、もともとあった中庭を街に対して開き、それまで 扇屋とは縁のなかった新しい宿泊客や、地元の若い世代を呼び込むことを目論んだのです。
 
— 私の故郷でもある会津地方も、やはり街が衰えているのですが、なかなか新たな動きを生み出せないでいます。こちらはあらゆる地方都市が直面している複合的な課題に対し、よくコミットしているなと感じました。
 
安原:中庭に面した一角に新設したカフェは、ある種のコミュニティスペースのようにもなっています。中庭を街に開いたことで、地元の人も観光客も出入りできるパブリックな場所になりました。
 
— 宿泊施設の再生でありつつ、街の人のニーズを新たに受け止める場所になっているわけですね。
 
安原:一見すると街には人がいないように見えるので すが、現地に通ううち、例えば夜スナックに連 れて行ってもらうと、若い人たちが盛り上がって いたり、実は外から見えないところに人々は集 まっているのだということに気付きます。中庭 を、人々が集まっている状況を可視化するため の場所としてつくればよいのだと気付いたのがタ ーニングポイントになりました。
 
栃澤:設計段階ではカフェをつくっても人が来るのか半信半疑でした。でもニーズがみえていないだけだったんですね。先入観にとらわれ潜在的なニーズを見誤ってはいけないことを学びました。
 
— でも、施設としてまとめるのは難しかったでしょう。
 
栃澤:とても大変で、時間もかかりました。
 
安原:リノベーションは剥がしてみないとわからないことが多いので、いちいち止めて、職人さんと相談して、というのを続けていくうちに2年近く経っていました。
 
栃澤:日帰りできないので扇屋旅館に全員で寝泊まりしながら現場を見るという状態で、オーナーとも夜な夜な相談しながらじっくりやれたという意味では、いいプロジェクトでした。
 
— まさに松村秀一さんの言う「場の産業」の眺めもありますね。

木造大屋根への挑戦

 
— つづいて「群馬県農業技術センター」(2013年)や「陸前高田市立 高田東中学校」(2016年)といった、木造で大屋根に取り組んだプロジェクトについて聞かせてください。
 

「群馬県農業技術センター」の外観(photo = 矢野紀行)


栃澤:屋根の可能性に気づいたきっかけは 「日の出スタジオ」でした。高架と建屋の屋根に挟まれた空間が、不思議な余白を生み出している建物です。つづく 「CROSS STREET」で木の反り屋根の効果を実感し、その屋根の可能性を意識しながら提案したのが「群馬県農業技術センター」でした。
 
日野:「群馬県農業技術センター」の主用途は研究・実験施設ですが、農業について啓蒙するという機能も求められていたので、木で包まれた大空間に消費者や生産者など多様な立場の人々が集まるというコンセプトを示しました。ただし研究施設は機能がタイトなため、実験機器のレイアウトなどを検討していく中で、プロポーザル段階からかなりプランが変わりました。でも大屋根の下に人々が集うというコンセプトはプランや下部構造が変わってもぶれにくく、ずっと最後まで残っています。この経験で、大きな枠組みや空間の質を保ちながら、設計プロセスに応じて柔軟に変えられるシステムの必要性、有効性を実感しました。
 
— 機能や空間のみならずシステムとしても、計画を捉えているわけですね。
 

「陸前高田市立高田東中学校」の内観(photo = 吉田誠)


日野:同じような考え方で設計したのが 「陸前高田市立 高田東中学校」です。震災復興においては住民の方々との対話が大事と考え、細かい部分は後から柔軟に組み立てていけるよう、大屋根に包まれた空間を提案しました。このコンセプトは審査段階から高く評価いただきました。プロポーザルの審査委員長の 内藤廣さんは「建物の案を選ぶのではなく、建築家と地元の皆さんとの相性を見ます」と言われ、地元の方々を交えたワークショップのような雰囲気で審査を進められました。そこに参加した中学生たちから「屋根が印象に残った」と言われ、とても嬉しかったのを覚えています。
 
その後の設計プロセスでは想定どおり、ワークショップや対話で得られた意見や敷地の状況など想定とは異なる設計条件を調整したり、被災者たちが蓄積した防災設備のノウハウを取り込んだり、市民の意見を柔軟に計画に反映することができました。
 
安原:山本さんと 原広司さんは、集落調査を通じて見いだした、多様なものを束ねる概念として「 ルーフ」という 言葉を使っています。大屋根自体は建築言語として新しいものではありませんが、木材という身体に近いマ テリアルと、先進的な構造のアイデアを重ね合わせて「ルーフ」を実体化したことが我々なりのアプローチだったと言えるのかもしれません。
 
— この仕組みが、人々が共通価値の共有と柔軟な対応を同時に求めた復興期にフィットしたというのは、とても納得できますよ。
 
安原:木材ならではのルーズさと、大スパン架構によるフレキシブルさが相まって、人々がおおらかに共有し、自由に使うことが出来る空間になっていると思います。リノベーションの設計をしていると痛感しますが、使われ方を綿密に決め込んだ建築であればあるほど、利用者のニーズが変化したときに改修の足枷になることが多いです。先が見通せない現代においては、空間にも計画にも、ある種のルーズさ、大らかさがますます必要とされていると感じます。
 
— 木質化や震災復興というテーマにおいてもう1つ重要な作品「大船渡消防署住田分署」(2018年)の話も聞かせてください。
 

「大船渡消防署住田分署」の外観(photo = 吉田誠)


安原:「高田東中学校」の現場終盤にはじまったプロジェクトです。住田町は岩手県東南部、陸前高田市に隣接する林業が盛んな町で、既存の公共建築を順次、現代的な木造建築に建て替えていく構想を持っています。つまり「群馬県農業技術センター」「高田東中学校」とは異なり、木造を前提に提案が求められたわけです。一方で江戸時代から栄えた街道筋の旧市街に隣接し、そこに残された古い町家や蔵と呼応する、現代性と伝統性を併せ持つ木造建築とすることが、プロポーザルの要項にも明記されていました。
 
— 構造は純木造ですか?
 
安原:「群馬」と「陸前高田」は混構造でしたが、こちらは純木造です。これからの公共建築には将来的な用途変更を担保するフレキシビリティが必須だと考え、木造ラーメン構造を前提に考えはじめました。
 
 構造家の佐藤淳さんと相談し、金物を使わずにそれを成立させるべく、太い柱に貫を貫通させ、込栓と楔で固定する工法を編み出しました。接合部単体の強度はあまり高くないので、梁を多段にして建物全体で十分な数の接合部を確保しました。近代建築は「より少ない材料で、より大きな空間をつくる」ことを理念として発展してきましたが、ここでは逆に豊富な地場産材を大量に使うことで、はじめて成立するここにしかない空間を目指しました。
 
— 木を金物で固定しない。それは大変賢明な判断ですね。佐藤淳さんは小さな断面の材料を繰り返し使うという構造計画の基本的思想を大切にしていますが、そのことは関連していますか?
 
安原:同じく佐藤さんと協働した「群馬」や「陸前高田」はその系列に位置する建築ですが、「住田」では、部材を小さくすることを敢えて目指さず、逆の美学を追究したわけです。巨大な木材を使うことで消防署としての信頼感と、木質系の建物ならではの親密感が両立する不思議なものができました。
 
— 防火の問題にはどう対応したんですか?
 
安原:床面積1,000平米に満たないので耐火建築物にする必要はなかったのですが、車庫は特殊建築物用途なので他の部分と防火区画し、内装制限もかかるのでスプリンクラーを導入しました。

継続的に更新していける状態へとリノベーションする

 
—「守口市立図書館」(2020年)は平成生まれの公共建築のリノベーションという、これから増えていくであろう社会公共財再生のプロジェクトです。こちらについて改めて紹介してください。
 

「守谷市立図書館」の内観(photo = 矢野紀行)


安原:既存の建物は図書館、会議室、プラネタリウム、コンサートホールなどの多彩な機能が詰め込まれた典型的なバブル期の複合施設でした。できて30年近く経ってプログラムと設備が陳腐化し、プラネタリウムのアップデートもお金がかかるのでしづらく、大きな会議室も使う機会がない……という状況でした。しかし構造的な問題はない。仕上げも大理石などの高価な材料が用いられ、耐久性は十分でした。
 
バブル期特有の重厚な仕上げ材に囲まれた空間は、今の感覚からすると居心地のよいものではありませんでしたが、かといってまだ使える材料を剥がして捨て去ることにも合理性があるとは思えませんでした。そこで改修にあたっては木質系の素材をたっぷりと使って身体に近しい要素を増やし、クセの強い元の空間とのバランスを取っていきました。本来は内装制限がかかるので木材の使用は難しいのですが、元の建築が全館スプリンクラー設備を持っていたことがこの時は幸いしました。これも既存資源の活用と言えますね。また、設備を全て更新することはできなかったので、今後使いながら更新していけるよう、天井を張らずにルーバーで仕上げました。まだ手つかずの部分も多く、完成品をつくったというよりも、今後継続的に更新していくための、ある種の平衡状態をデザインした仕事でした。
 
— これまでの建築計画学だけでは対応できないタイプの仕事なので、難しかったのではないでしょうか。
 
安原:日本の自治体には、新築で建てることに関する技術的蓄積はありますが、既存ストック活用のノウハウが欠如しています。発注のシステムも新築を前提に組み上げられていることが大きな問題です。今回もプロポーザルの要項で、設備を更新した上で空間的にも一新する、という目標が謳われており、工事予算も決められていましたが、何をどこまでやるかという優先順位も、要求水準も不明確でした。本来、改修の場合は既存建築物の構造や設備の状況を事前に調査し、改修の基本方針を策定した上で設計が発注されるべきですが、ほとんどの公共工事でそのプロセスが欠落しています。結果的に、受注した設計事務所が現況を調査した上で建築・設備の予算配分まで検討した上で、設計をまとめざるを得ないのです。この時は、我々にとって初めての図書館プロジェクトだったこともあり我々自身が大変前のめりで、通常ではあり得ない短期間で基本設計、実施設計をまとめました。既存ストックの活用は今後も増える一方ですから、調査・発注・設計・施工の一連のノウハウを社会全体で共有し、一般化することが急務です。
 
— これまでお話をうかがってくると、ますます新しい施設の計画論が必要とされていると感じました。最後に3つの事務所でコンペに勝たれた 「金沢美術工芸大学」(2023年竣工予定)について、聞かせてください。組まれた3つの事務所は、すべて山本理顕設計工場出身の皆さんなんですよね。
 

「金沢美術工芸大学」計画イメージ(作成 = SALHAUS、カワグチテイ建築計画、仲建築設計スタジオ)


日野:そうですね。山本理顕設計工場出身の設計事務所の カワグチテイ建築計画仲建築設計スタジオと設計チームを組んでいます。組んだ理由は37,000平米という規模になるので手分けして設計できることと、このプロジェクトは美術大学の移転新築プロジェクトだったのですが、美大にはいろいろな専攻があるのでその多様性を受け止めるためには多様なチームがいいだろうと考えたからです。山本理顕設計工場の北京や天津での仕事で他の設計事務所と共同した経験も、今回の共同設計につながっています。
 
西沢立衛さんが審査員のメンバーにいて、建築としての許容度が高いと評価をくださいました。設計は三者で話し合いながら進めていますが、全体を整理しすぎず、棟ごとに担当を決めつつインテリアは別のメンバーが設計したり、意識的に入り交じるようにしています。
 
— キャンパス計画の主題は?
 
日野:大学内を誰でも通り抜けられ、生の制作風景がみられるという既存のキャンパスの環境を残すというところが大きいです。
 
— 三者が山本理顕設計工場出身という協働化のスタイルを踏襲しつつ、複合的に組み合わせることで、新たな条件設定を行っているところが面白いですね。
 
日野:大学の教員の方々とは、手分けしてほぼ全員と話しました。これまで経験してきた住民参加などのプロセスを応用しながら、使い手の意見を吸い上げています。現学長は共通の工房をつくって分野を横断するコラボレーションを起こしたいという意見をお持ちですが、教員の中には専有できる工房の面積がその分減ってしまうことに抵抗感がある方もいます。それらを解消するために、いかに計画として編集するかという意識でやり取りを進めてきました。
 
安原:山本理顕設計工場の「公立はこだて未来大学」は、これまでにない分野の新設大学でしたから、野心的な先生方による大きなマニフェストが掲げられ、そこから刺激を受けて設計がなされました。金沢の場合は既存の大学の内容はそのままに分野間の関係性を組み替える作業ですから、ある意味リノベーションのようなところがありますね。
 
— マニフェスト型はしかし、急速に陳腐化する可能性もはらんでいます。更新の芽が育つ余地を残しながらリノベーションを進めるという方法に、新しい計画論としての可能性を感じますね。槇文彦さんがゼネコンや組織設計事務所などの組織力を生かし活動を拡大する「軍隊」に対し、小規模な設計事務所を「民兵」と定義し対立構図を提示しましたが、SALHAUSはまさに民兵が戦うための新たな建築計画の方法論を編み出されようとしているのではないでしょうか。
 
そうした想いを今回のインタビューで一段と確信できるようになりましたね。SALHAUSのメンバーが元々、建築計画系の出自であったことも、その事態への問題意識を加速させたのでしょう。SALHAUSのこれからの活躍が私としては、とても興味があります。そうして、山本理顕さんのこれまでの仕事を乗り越えていく。これこそがアトリエ系設計事務所の正しい更新のされ方なのでしょうか。