左:中原征四郎(小野工業所顧問)、右:村松 昇(小野工業所取締役)
 
<小野工業所の沿革>
1927年、現本社所在地にて、初代社長 小野留吉が小野板金と称し建築板金業を創業。事業規模を徐々に拡大し、大手建設会社の協力会社として一般建築板金工事に従事する傍ら、神社・仏閣の屋根、錺工事に着眼し、銅板屋根工事の専門業者を目指す。1948年、法人組織に変更、(株)小野板金工業所を設立。1952年、社名を(株)小野工業所と改める。諸官庁の工事入札に参画。1963年、静岡営業所を開設。1964年、市川工場を新設。長尺金属屋根工事の大規模化への対応と、銅板屋根工事の受注拡大のため、設備の近代化を図る。1968年、神社仏閣を中心とした銅板工事の受注が徐々に拡大。以後全国的に著名工事を多数手がける。1997年、スウェーデン、台湾、ドイツなど、海外における銅板葺工事にも、直用技能士を派遣、その技術を提供。
  http://www.onokougyosho.co.jp/
 
 
 

2013.08.02

日本の建築を支えてきた
銅屋根工事の職人集団

 

people 05:小野工業所(村松 昇 / 小野工業所取締役、中原征四郎 / 小野工業所顧問)

 

 小野工業所は、80年以上前から、銅屋根工事を中心に寺社をはじめ、名だたる建築物の施工に携わってきている。きっと読者の皆さんが目にしたことのある建物にも、小野工業所の手によるものは多いだろう。今回のピープル|インタビューでは、東京都墨田区にある小野工業所の本社を訪ね、村松 昇さんと中原征四郎さんにお話をうかがった。

(インタビュアー:真壁智治、編集・写真:大西正紀/mosaki)

 

 
----- 小野工業所さんの沿革について教えていただけますでしょうか。
 
中原:小野工業所は、昭和2年(1927年)に初代社長の小野留吉が東京で、 小野板金と称し建築板金業をはじめました。戦前は、 竹中工務店さんの仕事が多かったと聞いています。東京は元より、静岡の軍需工場、 日本軽金属三菱電気関係の仕事で、スレート廻りの雨仕舞や軒樋、谷樋、タテ樋工事などが多かったようです。 戦後、昭和30年ごろから、主に 松井建設さんの工事でお寺( 大雄山最乗寺築地本願寺など)の 屋根銅板葺工事などの仕事が多くなってきて、そのあたりから商売として本格的に銅屋根工事も行うようになっていきました。これまで85年で、約6500件の屋根を施工してきました。
 
----- 建築板金工事の施工は、基本的に金属の圧延板を扱い、役物の端部では、加工物が必要になってきます。
 
中原:社寺仏閣などでは、 鬼とか樋の装飾とかが必要になりますからね。そういったものも昔からつくっています。明治、大正のころは、 銅を使った細かな細工ものや町の防火対策としての壁張りなどの仕事が多かったようですが、戦争が近づくにつれて、銅そのものを使えなくなり、そのために飾り工事の技術者が少なくなっていきました。それからは亜鉛鉄板が中心になったのですが、鉄という素材は、延ばしずらし切張り半田付けが多くなります。
 


主に社寺仏閣に見られる鬼などの装飾。上の写真は、取材時に見せていただいた現物の鬼飾り。
 
----- 東京オリンピックは1964年でしたが、丹下健三の<代々木体育館>の屋根も、いわば圧延の鉄板ですね。その後の槇文彦の<幕張メッセ>や<東京都体育館>なども同じです。あのような大きな建物にも関わっていらしたのですか。
 
中原:本社は元より、私自身、12年前までは静岡営業所にて、瓦棒葺き、折板屋根、段付横葺き工事などの大きな建物にもたくさん関わってきました。ひとつのプロジェクトで4万平米分の折板を施工したこともありました。しかし、折板も平米辺りの単価が急激に下がり始めて、今では難しくなってしまいました。
 
----- 今の若い人たちにとっては、建築板金という職業は、なかなか分かりづらいところがあると思うのですが、どのように理解すればよろしいでしょうか。 建物の屋根をトータルに捉える施工者 ということでよろしいですか。
 
村松:基本的にはそうですね。今いる職人さんたちは、例えば折板だけをやるというものではなくなっています。建物の屋根についてさまざまな知識と技術が必要になってきます。ただ、仕事としては屋根をきちんとトータルでつくれるものは、少なくなってきてはいるのですが。
 
中原:実は来週から、高校の建築科を卒業した人たちが3人入社します。例えば彼らは、文化財などの修復保存の仕事などに興味を持ってくれているのですね。
 

屋根の棟の両端に付けられる「鬼飾り」をつくる職人たち。「鬼飾り」は、魔よけと装飾を目的とする。木を彫った原型に銅板を当て、根気よく入念に打ち出し、浮き出てくる凹凸の造形に銅の艶を出していく。
 
----- 建築板金工事がからむ保存・修復の仕事は、いつごろから本格化してきたのでしょうか。
 
村松:保存・修復の話は、70年代からではじめたと思います。そのころから文化財と呼ばれる建物が増えていきましたからね。それに合わせて、私たちもいろんな 建物の保存・修復に携わってきています。昔であれば、お寺やお宮さん、江戸時代の武家屋敷や庄屋の家を。最近であれば、大正時代の建物や <東京駅><三菱一号館><迎賓館><上野の表慶館>などが挙げられます。どれも樋や屋根を、みんな手作りで直しています。
 

左:国立博物館表慶館 右:横浜開港記念館
 
----- なるほど。保存・修復の対象となる建物にも、そのような時代の変遷があるのですね。ところで、銅は経年変化が現れることが魅力のひとつですが、その後、その保存・補修の銅の色合いについてはどう考えているのですか。
 
中原:それそのものを残そうという場合は、 裏に捨て板を入れるようにしています。今現在もシンガポールで戦前に建てられた美術館やコンサートホールの保存・修復を行っています。銅板に孔が空いていて修復をしたいのだけど、銅特有の青く変色したものを残したい場合は、青さをそのままに捨て板を入れる手法を取ります。もしハンダで孔を塞ぐ場合も、できるだけ青く発色させるようにしています。
 
村松:実は 修復することの方が、手間暇がかかって工事の日数もかかるんです。逆に上野の表慶館は、全部葺き替えることによって、補修するよりも短縮した日数で施工することができました。
 


 

 

職人に求められる資質とは?

 
----- 板金職人さんには、基本的にどのような資質が必要なのでしょうか。例えば、図面が読めることはもちろん、図面通りにつくるだけではなく、それを金属でどのようにつくるかということを考える能力が求められるわけですね。
 
中原:そうですね。それにはある程度の経験が必要です。職人になる人は、高校の建築科を出てくる方が多いので、図面を描いたり、読んだりすることはある程度できるわけです。けど、それだけではモノはできないのです。だから、それ以上の技術については、やはり現場で先輩から教わっていくしかありません。またその他にも、地域ごとに雨の降り方も変わるということがありますね。例えば、東京では少ないですが、冬の日本海地域では下から雨や雪が吹き込むといわれています。そういったことは、経験値を積むことで判断できるようになるので、一人前になるには何年もかかるのです。
 
村松:あと職人は、図面を読み込んでその通りにつくるのではないですからね。設計者や建築家の方の図面を見て、そこに設計スペックが書いてあっても、それがおかしいと思ったら、時には変えなくてはいけません。0.5mmくらいの誤差なら大丈夫なのですが、それ以上だと雨仕舞いとしては危ないと伝え、対応していくことも重要になっていきます。
 
----- スペックや図面に対して総合的な判断を行うことが、板金職人の熟達には必須というわけですね。
 
中原:そうですね。誰かに付いてお寺を一棟担当して、半年かけて終わったら、また一棟違う建物に従事して。そういう積み重ねで板金職人としての信頼を得ていくことが大事だと思います。今もそういう形で、九州から北海道まで、いろんなところで職人さんに働いてもらっています。


 

技術とセンスが問われる蓑甲のライン

 
----- 蓑甲(みのこう)は納め方が、実に美しいですね。しかし、このような形は図面には描きようがないと思います。それだけに設計者、建築家と職人さんたちの間に強い信頼関係が必要かと思うのですが。
 


寒川神社(神奈川県)
 
中原:その通りです。どれだけ叩き出すのが上手くても、曲げが上手くても、最終的につくられる線にアート的な感覚がなければ駄目。技術からセンスまで本当にトータルで上手くなければいけない職業なんです。たまに地方に足を運ぶことがあると、自分の会社の職人たちが手がけたものは分かるのですね。不思議なものです。
 
----- それはある種、小野工業所さん独特の線の扱いや美学のようなものがあるということでしょうか。
 
中原:そうでしょうね。基本は線の出し方ですよね。あとは立体的な線の出し方で分かるんです。
 
----- そのような屋根につくられる線というものは、地域によって特色はあるものなのですか。
 
村松:蓑甲(みのこう)の話であれば、例えば京都あたりの線の出し方と東京の出し方では、違いがあるようです。その違いは、檜皮葺(ひわだぶき)と柿葺き(こけらぶき)との違いからも来ていると言われています。つまりどちらも曲芸的な線ではなく、材料に見合った合理的な曲線なのですね。

※檜(桧)皮葺(ひわだぶき):檜皮は、檜の皮を小板にしたもので、それで屋根を葺いた(覆う)もの高価で人手がかかるので、宮中の殿舎や貴人の邸の主要な建物などで使用される檜皮は竹釘で留め、檜皮の厚みはだいたい10センチほど、軒先だけは建物の優美さを出すために数十センチの厚さになっている。
 
※柿葺き(こけらぶき):檜皮葺きと同様、社寺建築に用いられた屋根葺きの工法で木羽板葺きともいう柿板と呼ばれる椹(さわら)や檜などの薄い割り板(3~6㎜)を竹釘によって打ちつけ軒付け部分は厚め(10~15㎜)の板を用いる。

 
 
----- 蓑甲に見られるような、内に秘めた美しさのようなものに、若い建築家たちにも気付いてくれればいいなと思います。
 銅で屋根をつくる際、銅のスペックというものは、どの程度決まっているものなのでしょうか。
 
村松:基本的な厚みが決まっている程度ですね。葺き方などは、設計者や施主と相談しながら、決めていきます。最近は銅よりもチタンを使ってください、高くなってもいいからという要望も増えてきています。チタンは加工しにくいのですが、比重が銅の半分なんです。あとは酸性雨の問題にも対応できますからね。しかし、一般的に誤解されているようですが、銅屋根も酸性雨に弱いということはありません。
 
中原:こういったことにも対応しなくてはいけませんし、いずれにしても最近は、板金職人をある程度組織的に育てて行くことが求められています。昔の職人は、雨が降った日は家にこもって、樋や鮟鱇(あんこう)をつくり、内職をしながら技術を覚えていったそうです。今では、そのようなことはできませんから、きちんと職人を育てることが大事なんですね。そういうことをしていかないと、職人さんは、ただの取り付け屋になってしまいます。


 

 

後にも先にも“捨て板”を、徹底的に雨を防ぐ

 
----- 雨のみちのデザインには、デザインの美しさと同時に雨仕舞いが大事なのですが、建築板金工事からすると、どのあたりが重要なポイントになるのでしょうか。
 
中原:ハゼの幅やハゼ締めについては、細心の注意を払うよう言っています。叩きつけすぎると水を吸い上げてしまうので、そのバランスが大事なんです。
 
村松:雨のみちということで考えれば、谷の部分をどうするのか、壁際をどうするのかというところが、難しいところになるでしょうね。

※ハゼ:屋根の金属葺きなどで、金属板の接合において、板を折り曲げ、かみ合わせる形にした部分。板金工事における細工で、トタン板など鉄の薄板をつなぐ方法である。両材の端部を折り曲げて巻き込んで接合する。2回巻くと、巻き鉤と呼ばれる。巻く部分に吊り子を一緒に巻き込み、吊り子を野地板などに釘打ちすることによって、表に穴をあけずに固定できる。銅板葺きの仕事に使われる。接着剤を使わないので、ハゼ部分が金属の伸縮に追随し、広い面積であっても歪まない。巻きハゼは漏水に強く、谷樋に用いられる。

 


銅板工事、一文字葺き(平葺き)
 
中原:あとは、とにかく材料を惜しまず使うということですね。特に壁の取り合いには必ず捨て板を入れるとか、大屋根と下屋との雨落部にも捨て張りを行い、二重葺きにしたりします。これは一番大事なことなんです!!
 
----- これは伝えなくてはいけませんね。設計者や建築家の図面にはそういったことは一切描かれていないけれども、職人さんたちが図面をよみとり、雨を考え対応していくわけですね。
 
中原:けど、このようなことは、なかなか納得してくれないわけです(笑)。見えなくなる部分ではありますからね。けど、きちんとしないといつか雨でトラブルが起きてしまうのです。特に屋根における取り合いや棟(むね)、軒先では、これでもかってくらい気をつけるべきだと思います。

 
----- 因みに板金屋さんの世界では、吹き上がった屋根に対しては、どのような褒めの言葉があるのですか。
 
中原:「きれいにできたね!」ってそんなもんですよね(笑)。先ほど言ったように、線をきれいに出して、ハゼをピタッと絶妙な塩梅でつぶしていくと、屋根全体が実にふくよかにできるのですね。逆にたたきすぎたりすると、屋根全体がシート防水のようになってしまいますね。
 

美濃吉本店(京都府)
 
----- 最近では、建築家の内藤廣さんや隈研吾さんなどの仕事を見ていると、板金そのものへの感心が強い部分も見受けることができます。隈さんの新しい<歌舞伎座>の屋根も担当されたとうかがいました。創業当初から建築家の方々との付き合いは、多かったのですか。
 
村松:昔は、吉田五十八先生、村野藤吾先生、谷口吉郎先生といった方々の仕事はたくさんいただいていたそうです。今はその当時から比べると、建築家の方々からよりもゼネコンさんに声をかけていただくことの方が増えていると思います。
 
----- ゼネコンの施設系のプロジェクトでも、できるだけ早い段階から小野工業所さんに相談いただければ、より良いものができますね。
 
中原:そうですね。実際、主に屋根の下地についての設計協力ということが多いですね。こういう形では雨仕舞いはできませんよ、とか。あとは風圧についても検討させていただいて、これだと将来的にはもちませんよ、といったことをお話させていただくこともあります。こういうことは一番といっていいほど大事なことなんです。
 
村松:昔、村野藤吾先生と共に仕事をしたという職人さんの話を聞くと、村野先生が描いた図面を職人たちが囲みながら、一緒になってつくっていったそうです。<高輪プリンスホテル>の複雑な銅板屋根葺きの屋根や中に入っていく樋などは、雨仕舞いとしては、とても難しいものですよね。
 

高輪プリンスホテル(東京都)
 
----- 例えば、建築家の仕事の中には、とても奇抜な形のものもあると思うのですが、そのような場合は、どのように対応されていますか。
 
中原:奇抜なものは、ありますよね(笑)。そういう場合は、とにかく二重構造にしておくことです。特殊な形の屋根は、水を受けるものを先につくっておかなくてはいけません。万が一、水が入っても受け流すところをつくっておく。それが一番大事です。
 
 

今の建築家たちは、職人を活かし切れている!?

 
----- 東京駅の復元にも関わられていたのですか。
 
村松:あれは10年以上前から関わっていて、モックアップも私たちでつくらせていただいたのですが、事情があって工事がはじまる前に別の業者に決まってしまいました。最後の最後で、一部だけをお手伝いさせていただきました。
 
中原:けど、あの手の仕事は既存のものを見ているだけでも、感心することだらけです。三菱一号館の納めなどは、本当に細かいんです。隅棟においても途中で膨らんだりしぼんだりしている。普段意識しないと見えないところに手間がかかっているんです。それだけやはり昔は、時間もお金もあったのだと思います。本当にすごいことです。
 
 


三菱一号館(東京都)
 
----- 最近では、建築家たちも屋根を考え直す気運が高まってきているように感じます。そういう中で、小野工業所さんも職人さんたちの技術継承を、ますます進めていかなくてはいけませんね。
 
中原:本当にそうですね。私たちは、その昔は300トン、今では約200〜250トンの銅を一年間で使用しています。それだけの銅を扱いつくりつづける、その技術の継承が、最も難しい問題です。来期は3人の高校出身の方が入社する予定なのですが、彼らの中で一人でも残ってくれればという気持ちです。
 
村松:職人は基本、屋外の仕事ですから、雨や雪、風にも耐えなくてはいけませんし。それに耐えなくては、技術は継承されません。辞めてしまう人もいますが、12年前に入社した職人が、今ではうちの会社をしょって立つ人になっていたりもします。そういう人が一人でも増えていくようにしなくてはいけません。
 
中原:ここだけの話、職人さんは給料がとてもいいんですよ。うちの会社では、60才の定年を過ぎると一度退社して、その後は「一人親方システム」という中で、再雇用する形をとっています。そうすると65才になると満額年金をもらいながら、職人としての日当も入ってくる。そういうことを考えても、頑張った分の収入を得られる職業だとも思います。
 
村松:今日もインターンシップの高校生が来ているのですが、明日は現場に行くようです。最近は、女性の方で興味をもっていただく方も増えてきています。因みにうちの社長も女性なんです。
 
----- 色々とお話をうかがい、とても興味深く聞かせていただきました。それにしても、建築をつくっていく上では、建築家はもっと深く、濃密に建築に関わる職人さんたちとコミュニケーションを図っていく必要があると痛切に感じずにはいられませんでした。
 特に屋根の時代の到来を前にして、建築板金職人さんとのシビアなやりとりは、建築の用と美に関わってくる重要なものでもあります。若い建築家たちが、単なるディテールとしてだけではなく、建築板金職人を活かす仕事をして、新しいディテールを発見したり、学んでいく気運がもっと生じてくることを願います。

(2012年12月13日|東京都墨田区・小野工業所本社にて)
 
 
<もし、よろしければ一言でも感想をいただけますと大変嬉しいです!(編集部一同)>


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