連載

木岡敬雄の

雨が育てた日本建築


 日本の伝統建築に見る「雨のみち」。木岡敬雄さんによる連載第3回目のテーマは、絵巻ものに見る雨のみち。前回は、法華堂の木樋をきっかけに伝統建築の屋根の変遷までをたどりました。今回は、ある絵巻物から、平安時代の樋と雨のみちを探っていきたいと思います。

(2018.04.01)

VOL.3 絵巻物に見る雨のみち

京都御所
形式の異なるふたつの竪樋

 
 季節を問わず京都の魅力は、人々の心を引き付けて止みません。歴史ある古都の姿を尋ね、多くの人々が京都を訪れます。 清水寺二条城など、名所旧跡には事欠きません。京都御所もそのひとつでしょう。現在は一般にも公開されるようになり、より身近な存在となっています。
 
 京都は長く政治の中心地であったため、戦乱などによって多くの建物が失われており、平安時代を偲ぶものは決して多くありません。御所も同様で、かつては上京区と中京区にまたがる広大な宮城の一画に造られた天皇の住まいである内裏をその起源としています。鎌倉時代に焼失してからは、その地に再建されることはなく、鎌倉時代末期から室町時代にかけて現在地である 土御門東洞院殿(つちみかどひがしのとういんどの)が御所とされてからは移転することなく今日に至ります。

図1:清涼殿外観(作図:木岡敬雄)


 
 現存する建物は江戸時代末の安政2( 1855)年に再建されたものですが、御所の中心となる 紫宸殿清涼殿〔図1〕などは有職故実家として有名な 裏松光世(うらまつみつよ)の考証により平安時代の平面に基づき造られています(注1)。どの建物も軒先には大きな銅製の樋が廻らされ屋根に降った雨を受けるようになっていますが、竪樋の一部に木製の樋が見られます。たとえば清涼殿の東南隅には銅製の竪樋に沿うように木製の竪樋があります〔図2〕。なぜ形式の異なる竪樋が使われているのでしょうか。
 

図2:清涼殿の東南隅の銅製の竪樋に沿うようにある木製の竪樋(作図:木岡敬雄)


 

注1:建物の平面は浦松光代の『大内裏図考証』に基づいて造られていますが、内法上の高い小壁や勾配の急な屋根など、その立面は江戸時代の意匠で平安時代の姿とは異なります。屋根の形も現在は入母屋屋根ですが、絵巻物から当初は切妻屋根であったようです。

 


清涼殿の木樋
絵巻物に目をこらして、雨のみちを見る

 
  現存しない建物の姿を知る手掛かりとして、その昔に描かれた絵巻物などの絵画史料があります。発掘調査によって建物の存在やその規模を知ることができますが、それだけでは地上から上の部分を推定することは困難です。それらを補うものとして絵画史料の存在は重要です。
 
 絵画史料の中でも 「信貴山縁起絵巻」「年中行事絵巻」など、一連の絵巻物は、平安時代末期の様相を視覚的に伝える貴重な遺産です。絵の表現は構図や筆法も含め極めて巧みで、日本の絵画史上もっとも優れた作品の一つと言えましょう。天空を飛ぶ米蔵と、それらを驚嘆の目で見送る人々の姿や、疾風怒濤のように天翔ける剣の鎧を着た童子の姿など、一度は目にしたことがあるのではないでしょうか。人物や自然だけでなく建築物の描写も優れており、庶民の住まいから平安時代末期の兵火によって失われた天平創建の東大寺大仏殿まで、当時の姿を知ることのできる貴重な史料でもあります。
 

図3:「信貴山縁起絵巻」の一場面。廊下の軒先に沿って木樋が描かれている。(作図:木岡敬雄)


 
 この 「信貴山縁起絵巻」には平安時代末期の内裏の姿を描いた場面があります〔図3〕。画面の右手に大きく描かれているのが、天皇の住まいである清涼殿です。左手の屋根が内裏の正殿である紫宸殿から伸びる廊下で大部分は土間ですが一部は板敷になっていました。廊下に沿って紫宸殿から地面に降りることなく清涼殿に渡れるように板が掛けられ、長橋と呼ばれていました。手前の庭が清涼殿の前庭で、左手の井筒状に格子で囲まれた植込みが 河竹台(かわたけのうてな)と呼ばれ、竹の一種が植えられていました。
 

図4:清涼殿平面図(作図:木岡敬雄)


 
 清涼殿は東を正面とした建物でその平面は南北九間に東西二間の母屋の四方に庇が付き、さらに東の前庭に面して孫庇が付く建物です〔図4〕。母屋には天皇の寝室にあたる 「夜御殿」(よんのおとど)や昼間の休息所として御帳台があり、東の庇には 「昼御座」(ひのおまし)が置かれていました。西の庇には 「御手水間」「朝餉間」(あさがれいのま)など天皇の生活に係わる部屋が並んでいました。南の庇は 「殿上」(でんじょう)と称し高位の公家である公卿が詰める部屋がありました。
 
  絵巻物を良くみると廊下の軒先に沿って木樋が描かれていることが分かります。木樋の先端は塞がれておりその代わりに木製の 鮟鱇(あんこう)と板を組み合わせて作った竪樋が描かれています。清涼殿側は屋根に隠れて明瞭ではありませんが、この先には 「殿上」が存在するので、 木樋はちょうど廊下から清涼殿の孫庇へ至る「落板敷」の上に掛けられていたことが分かります。ここは 「殿上」の入口にあたる殿上東戸に面し、一年間の行事を列挙した 「年中行事障子」が置かれていました。清涼殿から紫宸殿に向う動線上もっとも重要なところです。廊下の軒先から雨水が滴り落ちぬようにこの部分だけ軒樋が設置されたのでしょう。軒樋がどの様に支持されていたかは絵巻物からは不明ですが、垂木から金物などで支持されていたのではないでしょうか。

図5:「年中行事絵巻」の一場面(作図:木岡敬雄)


 
  「年中行事絵巻」でも、同様の軒樋や竪樋が見られます。〔図5〕は 「年中行事絵巻」の一場面で、正月に宮中で行われた内宴の様子を描いたものです。手前の建物は 紫宸殿、奥は平安時代中期まで天皇の住まいであった 仁寿殿(じじゅうでん)です。ふたつの建物に挟まれて、屋外ながら床板が張られたウッドデッキ状の露台が、描かれています。露台上に見えるフレーム状のものは屋根が省略された廊下で、 大極殿仁寿殿の間は東西と中央の三か所の廊下でつながっていました。 仁寿殿の軒先には軒樋が描かれ右手の竪樋を通して露台の下へ雨水を導くように造られています。絵巻物の他の場面を見ると、紫宸殿側にも同様に竪樋が描かれており、露台を挟んで紫宸殿北側と仁寿殿南側の軒先に軒樋が設けられていたことが明らかです。 内裏の中でも重要な位置を占める露台に雨水が集中することが無いように樋が設けられたのでしょう。
 
 絵巻物から現在の紫宸殿と清涼殿に見られる木製の竪樋が、平安時代の由緒を伝えていることが分かります。取り上げた例以外にも、紫宸殿から南庭に降りる東西の階段上などに樋があったことが絵巻物からも確認できます。 この様に日本の伝統建築でも古くから軒樋の使用例はあったのですが、その使われ方は局所的でごく限られたものでした。 

御溝水(みかわみず)

 
 一方で軒樋を設けない場合はどうだったのでしょうか。ここで再び清涼殿の例を見てみましょう。
 

図3:「信貴山縁起絵巻」の一場面。高欄のある簀子縁の手前に雨落溝がある(作図:木岡敬雄)


 
 絵巻物〔図3〕を見ると 清涼殿の簀子(すのこ)縁に沿って石組の溝が設けられていたことが分かります。軒先から垂れた雨水を雨落溝で受けさらに敷地外へと排水出来るよう丁寧な造りとなっています。しかも清涼殿の場合はただの雨落溝ではありません。 

図6:平安時代の内裏平面図(作図:木岡敬雄)


 
 〔図6〕は平安時代の内裏の平面を記した指図のひとつです。ここには内裏の排水経路の一部が図示されており、 清涼殿の雨落溝が主要な水路に組み込まれていることが分かります。清涼殿の雨落溝は「御溝水」(みかわみず)と呼ばれていました。ご存知の通り京都は北から南へ向かって緩く下がる地形です。内裏の北方から流れ込んだ水は、清涼殿の西方で東へ折れて清涼殿の東北隅から二手に分かれ、一つは南に流れています。絵巻物に描かれているのはこの南へ流れる御溝水です。
 
 清涼殿の簀子縁から降りる階段の先には石橋が掛けられ、前庭へ渡りやすいようにされています。 清涼殿の東南隅、ちょうど河竹台の背後の位置には竪樋が設けられており、廊下の屋根に降った雨水を御溝水へ流すように造られています。南へ流れる御溝水は、廊下の下を通って紫宸殿南庭の西側を流れ、南の回廊を潜り抜けさらに内裏の外へ流れるように造られていました。指図には記されていませんが、絵巻物から明らかなように、紫宸殿や仁寿殿側にも同様の溝があり、庭内の排水にも一役買っていたことでしょう。
 
 清涼殿の前庭は現在こそ広く感ぜられますが、かつては仁寿殿など大きな御殿が南北に並び奥行きの少ない庭でした。さらに儀式につかうことも多い前庭は、植栽も少なく人工物に囲まれた空間でした。 御溝水の流れは、その名が示すように春の訪れや夏の涼など自然を感じさせる役割も担っていたのかもしれません。
 
 現代と同様、伝統建築にとっても雨の道は重要です。清涼殿の木樋と御溝水はその一例にすぎませんが、絵巻物から様々な工夫が伺えるのは興味深いことです。
 

(きおか・たかお)1957年東京生まれ。1982年武蔵野美術大学造形学部建築学科卒業。同年、宮上茂隆の主宰する竹林舎建築研究所に入所。1998年竹林舎建築研究所代表に就任。日本建築の復元と設計に当たる。主な仕事に、掛川城天守復元、大洲城天守復元、建長寺客殿得月楼設計、岐阜市歴史博物館「岐阜城復元模型」監修、東映配給映画「火天の城」建築検証、NHK大河ドラマ「真田丸」大坂城CG監修。主な受賞に、大洲城天守復元で「第1回ものづくり日本大賞内閣総理大臣賞」「日本建築学会賞(業績部門)」など。